土の味

居酒屋で出た、天ぷらのふきのとうの美味しさに、思わず感嘆の声が出る。この苦み。野菜ならたとえば、ある季節の牛蒡や芹にも感じられるような、土の深い香りと滋養を、そのまま摂取しているかのような感じ。同じ感覚で言えば、たとえば生牡蠣からもたらされる海水とミネラルの、ほとんど物質的と言いたいような味わいからも受け取ることがあるし、ある種の好ましい品質のワインから感じ取ることもある。いわば食べ物や飲み物を通じて、その向こうの、かつてそれらが生息していた環境の放つ匂いが、この場に直接運ばれてきたという感じがある。

同時にその美味しさとは、自分の幼少時代の記憶に深く結びついているとも言える。とは言っても、子供の頃からそういうものを食べていたという意味ではない。子供の頃に、そんなものは好きでも何でもない。しかしその時期にだけ、かつてそれらが生息していた世界に近い場所を、子供の自分は頻繁に訪れていたという意味でそう言ってる。

簡単に言えば、子供の頃にだけ、田んぼや畑のあぜ道だの川沿いだの、海の岩場だの朽ちたコンクリートと錆びた鉄の湾岸だのに、身体を直接さらして遊んでいたということだ。これらの匂いは、そのときに嗅いだ匂いそのものなのだ。それこそ海水や土は、子供の口内に直接入り込んでくるし、子供はそれを吐き出したり呑みこんでしまったりする。そんな身体そのものに記憶されている味わいなのだ。

しかし、それが昔を思い出させて懐かしいから、それを食べて美味しいと思っているわけではない。そんなことは思い浮かべもせず、食べればただ単純に、思わず感嘆の声が出るほど美味しい、というだけなのだ。(だから、懐かしいわけではないが、自分の一部がそのときだけ子供の身体を取り戻して、それとして味わいを感じている、とは言えるかもしれない。)

これこそ野生の動物が、ものを食べるときに感じるのかもしれない美味しさに近いのではないか、と思いたくなるところもある。