DOOR III

黒沢清「DOOR III」(1996年)を観た。初見だったのだが、この作品の時点ですでに「CURE」(1997年)が、また「回路」(1999年)が萌芽しているというか、それらのプロトタイプのような作品に思えて驚いた。

あるヤバい状況におちいった主人公が、何とかがんばってその原因を突き止め、状況を打破しようとして、それに成功した(逃げのびることができた、敵をやっつけることができた、原因となる仕組みを止めることができた、など)場合と、失敗した場合があるとして、この作品では、主人公が最終的にその原因そのものになってしまうというか、悪役は去るけど主役がその位置におさまってしまう。人物配置が変わっただけで状況とか構造自体はまだ稼働し続けていることが示される、というのは「CURE」(1997年)と同じだが、「CURE」(1997年)ほどの掴みがたい複雑な面白味は、まだ本作にはないとも言える。

しかし、幽霊的存在を映画内にあらわすという点において、本作はすでに「回路」に拮抗していて、目をみはるような場面がいっぱいあって、それに驚く。それにしても、道端やら部屋の隅やらオフィスやらに、ぼーっと滲むように佇んでる彼女らの、なんと魅力的な姿だろうか。何の変哲もない景色の片隅の、ぼーっと人間が突っ立っていることだけで、なぜあれほど異様なものが画面からあふれだすのか。それはまるで、人物でも風景でもない何かが捉えられているかのようだ。

「回路」の、奥からこちらに向かってゆっくりと歩いてきて、腰を抜かしてる相手に覆いかぶさろうとしてくる女幽霊の素晴らしいシーンがあるけど、あれが本作において、すでにほぼそのまま、完成形に近い形で、ピンクのスーツを着た主人公の友人の幽霊の動きで実現されていることに興奮をおぼえる(あわてて物陰に隠れたら、上から覗き込まれるところまで完璧に一緒!)。だからこそ、「回路」の幽霊が歩いている途中でバランスを失いかけるというあの瞬間が、大変な"大発明"だったことも、まざまざと感じさせる。

立っていること自体への不信というか、今にも崩れ落ちておかしくない状態を匂わせながら、それはすっと立っている、唐突にある樹木、唐突にそこにある白い箱、みたいな、そんな存在としての人物。それが黒沢清的な幽霊だと思う。ゾンビのようにノロノロと移動することもあるけど、まずは立っている。そこに存在することが示される。立っていること自体の不思議さ、不条理、いかがわしさだけでそこに在る。それをみとめるしかない、目をそらすわけには行かない。受け入れるしかない。それなのに見えているそれが、ただちに消えてしまうかもしれないし、目の前で崩れ落ちるかもしれない、その不安をともなう恐怖も、そこには重ね合わされてる。