写真の昔

写真は昔、カメラで撮影して、撮り切ったらカメラからフィルムを外して、それを写真屋に持っていき、数日後に完成した写真の束を受け取って、プリント代金を払った。90年代を過ぎると、写真屋にフィルムを預けてから受け取りまでの時間が大幅に短縮されたのだったか。

学生のときには、白黒写真なら一応自室でフィルム現像から焼き付けまで出来るように機材一式を揃えたので、赤いランプの下で日夜せっせと写真を現像していた日々もあった。

しかしいずれにせよ、写真はそもそも、昔は撮影して現像、焼き付けまでしたら、その結果はまず自分の手元に残り、ひたすら枚数が溜まっていくものだった。

今はスマホで撮影して、それがすぐにネット上のスペースに保存され、そのまま公開されるのだから、隔世の感というか、むしろ昔の方が過激というか、当時は仕組みとしてすごかったな…と逆の驚きがある。

写真はそもそも、あくまでもそれはまずはじめに自分の記憶とペアになるためのイメージであり物質だった。そのまましばらく時間の経過を経るのが当然だった。

私の見たものと私の撮った写真は、殆どの場合はげしくぶつかり合い干渉するので、その未解決的な対話状態が収束するまでに、時間が必要とされた。その時間内で、私と写真とのあいだにある種の調停が交わされ、双方に納得と合意がもたらされなければ、写真は私によって承認されることのないものだった。

だから今や、私が見たという意識が、薄れてしまっても、当然のことだろうなと思う。この私という厄介な桎梏、その強さから脱け出すことが出来たということだよなと。それは幸福な話ではあるだろうなと思う。

昔はほんとうに、思いの詰まった写真が、部屋の机の引き出しに、ぎっしりと詰まっていたりしたのだった。