オールド・ジョイ

ザ・シネマメンバースで、ケリー・ライカート「オールド・ジョイ」(2006年)を観る。冒頭の、不機嫌を絵に描いたような妊婦の奥さんの表情。不機嫌というよりも、日々を生きて、生活を成り立たせるために身を型枠に嵌めて、今後もひたすらそうしていく、それをすべて背負い込んだ人の見せる、平坦な地獄の現実感そのものが浮き出たような表情。映画の最初のこの顔一発で、凄いな…と思う。自分がまだ小学生かそれ以下の頃、こういう顔した友達のお母さん、いたよな…と思う。

やや気弱そうな主人公の男マーク。頭の禿げたやや小太りの男の友人カート。妊娠してる奥さんを家に置いて、男二人がキャンプのために車で出掛ける(マークの飼い犬ルーシーも一緒に)。車のラジオから、政治討論番組のお喋りが喧しく鳴っている。移動する車から見える景色や運転するマークの表情などと、まるで噛み合わない、まるでそれとは別の場所から無神経に鳴らされているような、男たちの政治談議の声。

男二人は元々友人なのだろうが、気の置けない打ち解けた間柄という感じにも見えないのだが、しかし友人なんてそんなものかもしれない。大して話が大盛り上がりするわけでもないけど、それなりの親和を保ちながら、車は山奥に向かって進む。空は曇っている。薄い層のような雲が何枚も重なっていて、微妙な色相をなして空の下に沈んでいる。キャンプに最高の陽気とは思わないが、これはこれできれいな空だ。なにしろ道路を左右から覆う高い木々の豊かな緑の濃さがおそろしく気持ちいい。

やがて日が暮れてくる。道を間違えたようで、今日は目的地にたどり着けそうもない。仕方なく森奥のやや開けた場所に車をとめて、そこでテントを貼ることにする。焚き火を囲い、ビールを飲み、空気銃で遊んで、とりとめもなく話をする。このキャンプにマークを誘ったのはカートだ。カートのやや一方的な話を、マークは黙って聞いている。マークもカートも、たぶんその時間を心から楽しんでいるわけではなくて、とはいえ、しかし友人なんて、大概そんなものかもしれない。こんなもんかもなあ…とも思う。ずっと昔からそのようにして過ごしてきた時間の久しぶりの再生が、もう今は大して面白く感じない、そんなものだろうな、と。焚き火の照らされる二人の表情が、まるでバロック絵画のように暗闇に浮かび上がっている。

翌朝は最高に晴れ上がった、素晴らしい晴天。マークは奥さんから掛かってくる携帯電話に出て、会話をカートに聞かれるのがはばかられるのか、そのたびにカートからやや距離をおく。そんなマークの様子を、カートはじっと見ている。

明るい道を引き返しながら二人は昨日見落とした矢印の標識を見つける。ついに目的地が目のまえにあらわれる。天然の温泉場だ。もの静かなマークも思わず歓声を上げる。太陽の光と、深々とした木々の緑と、迸る温泉の水が反射させる光と、濡れた木材と苔と土と、それらすべてが歓びそのものみたいに輝いている。カートは湯からあがるが、マークはほとんど恍惚の表情で湯に浸り続ける。「悲しみとは、使い古されたよろこび(オールド・ジョイ)のこと」と、カートが口にする。

キャンプは終わりだ。二人は別れの挨拶を交わす。夜の街を、カートがひとりうろついてる様子。最後の場面がカートの姿だったことで、この映画に、ある方向が示されたような感じを受ける。

(冒頭の超不機嫌顔の奥さんが最後に出てこなかったので、ああ、出てこなかったな…と思う)