二人

黒沢清蜘蛛の瞳」では、根拠無しの宙吊り状態を手探りし続ける主人公の哀川翔を最後まで見届けるしかないのだが、それにしても彼を自分の世界に導いたダンカンの内面には、果して何が渦巻いていたのか。彼が哀川翔に何を期待し、何を託そうとしたのか、あるいは彼を利用しようと企んだのか、そのこともやはりわからないままだ。

映画で、登場人物が二人いて、二人は知り合いであるとしても、お互いが心のなかで何を考えているのかは、原則としてわからないのが映画だ、ということを、黒沢清蜘蛛の瞳」を観て考え、そういえばケリー・ライカート「オールド・ジョイ」もそのような映画だった、と思った。この二つの映画は、まるで似ていないけど、映画を観る側から、二人の登場人物の内面が閉鎖されているところが似ているとは言える。二人の登場人物が相互に内面を共有し理解し合うことがないのは(現実の人間がそうであるように)当たり前だとしても、映画を観る側にもそれが共有されないところは、つまりその映画が、そのような閉鎖済みの世界認識を前提としている、というよりも閉鎖されていること自体が映画のテーマに据えられているということか。