ニックス・ムービー/水上の稲妻

ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース「ニックス・ムービー/水上の稲妻」(1980年)を観る。冒頭、ヴェンダース本人がニューヨークのある部屋を訪れると、世話役らしき若い男がヴェンダースを迎える。部屋の奥では病床のニコラス・レイが眠っている。時刻は早朝、疲労気味のヴェンダースは、彼を起こさずに手前のソファーに身体を沈める。やがてニコラス・レイが目覚め、何とも苦し気な咳払いを繰り返して、呻き声とも喘ぎ声ともつかぬ、断続的な叫びを発する。苦しげでもあり、投げやりでもあり、どこかユーモラスでもある、あたりかまわぬ老人特有の、ヤケクソ気味の、声。

ベッドから起き上がり、赤い寝衣をまとったニコラス・レイの上半身はやせ細っていて、シャツの裾がめくれて肉の落ちた裸の尻が丸出しになって、丸まった背中に尖った背骨がシャツ越しに隆起しており、髪は白くまばらで、骸骨のような頭部がぐらりと傾く。しかし表情は精悍で、思わずじっと凝視するよりほかないほどのカッコ良さがある。

本作に出演しているニコラス・レイが、数度のガン手術を経てすでに重篤な病状であること、それらはおそらく「事実」なのだろうが、冒頭の数分を観ただけで、これがまぎれもなく映画であること、映画としか呼びようのない何かであることが、明確に感じ取れる。そのことだけで身の引き締まるような思いがして、これからの時間に対する期待がふくらんで、思わず座り直して姿勢を正したくなる。

映画であることとは、単にそれが撮影されるにあたって、あらかじめ段取りが組まれていること、観ていてそれが察知できる、ということに他ならない。しかし段取りのない映像よりも、段取りのある映像の方が、はるかに緊張感があり、はるかに先が危ういと感じられるのは、なぜなのか。

これは今このニコラス・レイをカメラで捉えて映画を作ろうとしているヴェンダース、という物語である。ニコラス・レイヴェンダースに、二人で映画を作ろうと持ちかけるし、ヴェンダースは今ここで撮影しているこの映画がニコラス・レイの余命を縮めることになっているのではと悩むし、家族やスタッフらの様子も撮影風景も本作には映り込む。映画内映画であるとも言えるし、その入れ子状態がもう一層深いとも言える。そして、中心にいるニコラス・レイが、その被写体となっている人物がおそらく遠くない将来、その命がついえるということを、誰もが(我々映画を観る者らも含めて)予感する。

しかし凡庸なドキュメンタリーが相変わらず、嘘と事実との境目とか、演出や編集がどこまで許されるとか、そういう手に取りやすい疑似問題を弄んでいるのとは比較にならない地点で、本作は今ここにあるのっぴきならない何かを、とにかく映画として取り押さえてしまおうと、そのために力を尽くそうとする、その果敢な取り組みではあるだろうと思う。しかも決して強引な力任せのやりかたではなく、とても繊細に注意深く、これまでの実績や経験に裏打ちされた、責任をもった確かな段取りを元に撮影され、それが端正な手つきで編集されることで実現するものだ。これは決して、すでにわかっている答えを取りに行く出来レースではなくて、これは映画で、同時にその確かな仕事というものにいかなる綻びが生まれるのか、人間の不調、あるいは死が、営みにどのような影響を与えるのかの観察でもある。

そして同時に、良くも悪くも、否が応もなくヴェンダースという作家の、図々しいまでに個人的な作家体質に満ちた映画でもある。最後のシークエンスで、ベッドの上で横になっているのがヴェンダース自身であり、その傍らにアイパッチをつけたニコラス・レイが彼を見下ろしている場面は、あら、そうなるのね…と思いながらも、そのニックの表情に、強く魅了されないではいられない。

ヴェンダースにとって、ニコラス・レイへの尊敬や思慕や愛情のようなものは、この仕事のモチベーションの元にあるものだろうが、しかし映画を作ること自体が、ヴェンダースを追い立て、決断を迫り、苦しめる。それがそのまま、ニコラス・レイへの加虐のように感じられて、彼は苦しむのだが、ニックは、あの表情でヴェンダースを(カメラを)見つめる。長いワンショットで、彼はヴェンダースに語りかける。退屈だな、君が絡むと、いつもこうなるな、と。その一連の時間は、映画が事実よりも、現実よりも、あるいは夢よりも強烈な経験であることを示している感じがする。

何よりも、ニコラス・レイと言う名のこの老人の荘厳さ。この被写体としての強さ。ここに撮られるために、生きているのではないかとさえ、思わされるような…。