大砂塵

DVDでニコラス・レイ「大砂塵」(1954年)を観る。観た者をどこか唖然とさせるような妙な人物設定と配置、そして謎の勢いというか強迫性というか、とにかくこの事態を終結まで持っていくために全力で突っ走らなければいけないという、固い意志めいたものも感じさせる、たしかに不思議な映画だ。

そもそもジョーン・クロフォードがヒロインというのは、これはこれでいいのか?と、誰もが思うのではないか。たとえば、美人であることとか、可愛げがあることとか、勇敢であることとか、けなげとか可哀そうとか、この女性の印象が、そのいずれにもあてはまらない、…いや、あるいはあてはまるのかもしれないし、しかしやっぱり、どう考えても、そのどれでもない、映画を観る我々としては、つい何かを言いたいような、しかし言いよどむような、納得しかねるものを、仕方なく呑みこむしかないような、何とも不思議な存在感を与える女性として、ジョーン・クロフォードはそこにいる感じだ。

その「敵役」である女性マーセデス・マッケンブリッジもやはりそうで、この二人の女性の確執がとても深くて、そう簡単に解消できないものであるのはわかるが、しかし(こういう言い方に逡巡の思いはあるが)、もはや決して若くはない二人の女性が、ああして対立し合っている状況に対して、周囲の男たちは、おおむねその様子を眺めるだけ…という西部劇は、たしかに唯一無二であろう。

ジョーン・クロフォードは近々の鉄道開通と駅舎建設を見越して、今はまだ辺鄙な土地に、酒場兼賭博場の経営をはじめた女主人である。マーセデス・マッケンブリッジはその集落に元々暮らす地主集団の一人で、その土地を買い取った新参者のジョーン・クロフォードが気に入らない。そのわけはジョーン・クロフォードがよそ者であることのほかに、自分が密かに思いを寄せているカーボーイチーム、ダンシングキッドのメンバー、スコット・ブレイディの想いの先が、ほかならぬジョーン・クロフォードにあることに勘づいているからでもある。だからマーセデス・マッケンブリッジにとって、その店の女主人もその店に通う男も、等しく自分の目の前から消えてなくなればと願う対象で、彼女はその憎しみに満ちた内面をもはや隠すことがなく、村の役人や保安官とも連携しつつ徹底的に彼女らの計画を阻止し、それを潰そうとする。追い詰められたダンシングキッドが銀行強盗を働いたことをきっかけとして、マーセデス率いる村人集団(全員黒服に身を固めた騎兵隊のような…)と、ジョーン・クロフォードらと、ダンシングキッドらの半ばバラバラな暫定軍との戦争…という構図が出来上がる。

この攻防が最終的に、一対一の「女の決闘」にまで収束していき、その果てで死ぬべき者は死に、生き残った者が生き残るという結末を迎えるのだが、いや…それにしても、この作品を観終えた者が後味としていだくのは、ひたすら誰かが誰かを憎み、その相手をやっつけようと、自らの命と引き換えにしてでも全力でそれを敢行し、ギリギリまで追い詰めてやる、決着をつけてやるという、すべてが終わったあとも薄煙として漂うかのような、ひとりの女性の執念の強さだ。

それがあの、一見大人しそうな、そして最期は撃ち抜かれて、崖下までごろごろと身体を転がり落として絶命する女性マーセデス・マッケンブリッジの姿なのだから、こんなことで良かったのだろうか…との思いは、映画を観終わった後も、かすかながらしばらく続くことになる。