革命前夜

昔の録画よりベルナルド・ベルトルッチ「革命前夜」(1964年)を観る。ヌーベルヴァーグの推進力を借りて、飛んでみたのか。それはヌーベルヴァーグっぽさを利用してという意味ではなく、ヌーベルヴァーグというものを、自らの武器として、一番しっくりくる方法論として、ベルトルッチがそれを見出す。これによって自分のやりたいイメージが形を為す、そのきっかけにしうるという希望的な確信を得て、そのようにして作られた作品ではないかと。革命前夜の興奮と失望という、元々あった構想が、それによって具現化したのではないかと。

この作品はベルトルッチの自伝的な作品だと、一説にはあるらしい。自伝というものを、映画で作れるものだろうか。観ながらそれを考えていた。たとえば、その登場人物が「私」なのではなく、その映画を観てる人が、「私」なのかもしれないな、などと思いもした。

映画で「私」を語るにはむしろ、「私」はその他の登場人物の輪の中にあって、やがてその中にかき消えていってしまうものなのかもな、、などと、ラストの結婚式のシーンなど眺めながら、思った。

60年代ブルジョアの苦しみなんて、なかなか理解し難いというか、想像力の範囲を越えるな、、とも思った。イタリアの中流階級以上の人々にとってのオペラって、どんなものなのだろうか…とも。あるいはマクベスとは…とも。