観葉植物の生い茂り方を、そのまま長いことじっと見つめてしまって、意外なほど時間が過ぎてしまう。そういう人はぼくだけでなく、観葉植物を所持している人なら、おそらく誰でもそうだ。

幹から伸びる細い枝はなぜその場所から生えたのか、なぜその長さになり、そこからこの大きさで葉を広げたのか、なぜ隣り合う葉同士が、もう少し適度な距離を保たなかったのか、なぜある一画にだけ密度が高くなり、そうでない箇所には隙間があるのか、全体的になぜこのような形状を為し、その後どのように変化を続けるのか。

と、言葉で書いたら嘘である。ほんとうはそんな「疑問形」など、一切ない。そもそも植物を見るのに、言葉を使わない。言葉以前の時間を過ごしている。言葉以前の時間が、長く延び広がっていくことから、逃れられなくなる感じに近い。

言葉はとにかく断続的に過ぎる。いちいちぶつ切りにした、静止画の繰り返しでしかない。芸のないやり方だという自覚さえあまりない。言葉は、言葉の外側があることを知らないし、知ったとしても自分では言いあらわすことができない。

葉を見る、枝を見る、それらの関係というか連動というか、全体的な流れというか、在りようというか、そういうのを見る、見るわけではない、特定の感覚器官の問題ではなく、それと一緒になる、付き合う、寄り添う、話を聴く、聴かないし言葉でもないので、始まりも終わりもない、そこへ同調する、離れるまでは離れない。

部屋の植物を前に、ためらうこともなく誰もがやってることだ。