保坂和志「小説的思考塾vol.21 」のアーカイブを視聴しながら考えたこと。小説を書くとは何か?について。生きていくことと小説を書くこととは、どのように折り合いがつくのか。

なぜ小説を書くのか?良い小説を書きたいから。人に読まれたい、これは良い小説だと思われたいから。私が小説を書いてみて、それが良く書けて、人がそれを認めて、賞を受けて、私が小説家だと認められたいからか。

ならば、私が小説を書いている時間とは、そのゴールへたどりつくまでの準備期間か?受賞待ちの大いなる助走時間か?書いているこの時間は、私の生の時間というよりもその待機であり、このあと来たるべきゴールが来て、私の評価が定まって、それでようやく本当の時間がはじまるということだろうか。

あるところに、老夫婦が営む、個人経営の豆腐屋がある。日々変わらず昔からずっとお店をやっていて、年末年始とかも、ほとんど休んでないように見える。

その豆腐屋は、なぜ毎日営業するのか。人に食べてほしい、良い豆腐だと思われたいからか。これは素晴らしい豆腐だ。豆腐の名店だと言われたいからか、おそらくそうではなくて、仕事だから営業する。

仕事だからというのは、すごく儲かるわけでもないとしても、やはり日々の売上は、日々の糧だというのもあり、ただしそれ以上に、仕事とはつまり、相手先がいる。客がいる。客が豆腐を買いに来るから、営業する。客が来ない日も、営業はする。客の来る来ないは、営業するしないの理由にはならない。

必要とされている以上、仕事はやる。その日の豆腐の売上は予想したとしても、べつに毎朝、あなたが必要ですよと連絡が届くわけではない、しかしそれは、毎日必ずやることでそうなる。でも、イヤイヤやるわけではない。それだとさすがに出来ない。というか、最初はイヤでも、日々の積み重ねがそうじゃなくさせる。

ふつうならしない、一般の人ならしないことを、日々する。それが仕事であり、そのことで積み上がるものがあり、そのことがあらたな自分を作り、あらたな課題をつくる。

個人経営の豆腐屋なんて、やりたくでも、出来る人と出来ない人がいる。それはたしかにそうだ。その人次第、条件次第だ。たまたま、持ち家で商売してるから、可能だった。ふつうの人が、家賃払ってやっても、成り立たないよ、売上と利益で計算したら、とてもやっていけない、半分趣味みたいな、いいご身分だね。

それはそうかもしれない。でもそれはそれだ。たまたま出来る条件のもとで、たまたまそれをした。そのことは、誰の選択でもない。それで得したわけでもない、儲けたわけでもない、たまたま恵まれていたと言う人はいるかもしれない、もっと上手く、効率的に合理的にやればと言う人もいるかもしれない、でも、それもそれだ。そもそもなぜ、そんな断面の話をするのか。お前のわかる範囲でしか、お前はこちらを見ない。何十年という時間の厚みを、お前は知らない。

その豆腐が誰かに美味しいと言われるかどうか、その豆腐が売れるかどうか、世間や人に評価されるかどうか、豆腐屋を営むその生き方が良いか悪いか、というのは、どうでもいいことである、豆腐を作り続けていて、それが続いていて、店が続いていることに良いも悪いもなく、ただしそこに、現実がある。

小説を書くなら、その人は、良い小説を書くように努力するのは勿論のこと、小説家を目指すのは勿論のことだが、まず小説を書くというのを、自分の現実にしないといけないのだろう。訳知り顔の、どうでもいいやつが、何かを言おうが言うまいが、豆腐屋が毎朝かならず開店するように小説は書かれる。