渡辺哲夫「フロイトとベルクソン」を読んでいて、ようやく後半を過ぎたあたり。ベルクソンとフロイトの仕事を、近しい問題意識のニアミスのように捉えて、両者を重ねて読もうとする試みである。そのモチベーションの元は小林秀雄にある。小林秀雄の「感想」は、やはりすごいのだ。ベルクソンのもっともヤバいところを掴んでいるのだ。

以下は本書に書いてあることと必ずしも同じではない、ぼくの雑な考えだが(本書を読んでいてもあらためて、ベルクソン的記憶モデルにおいて自他の区別をどう考えれば良いのかが、ずっと気になるからだが)、私の記憶と、他人の記憶があり、どちらも記憶だが、私は私の記憶を参照するための鍵しか持ってないので、他人の記憶を参照することはできない。

私が死んでも、あるいは他人が死んでも、記憶はあり続けるが、つまり死とは、私や誰かに固有の鍵がなくなる、いや鍵らしきものを使った記憶をたぐるまさぐりそのものが消える、ということだ。たぶん、鍵までは物質(肉体)である。というか鍵が脳、自分を自分たらしめているのは脳(の物質的偏差)であると仮定してみたとして。

記憶そのものは、おそらく自分だったり他人だったりする。厳密に区別されてなくて混然となっている。ぼやっとした大きな、宇宙のような塊みたいなもの(すなわち「エス」…)。それに私や他人がアクセスするときの条件の違いが、それぞれの記憶の固有性である。

ベルクソンの逆円錐で言えば、鍵というよりも相互排他的なプロトコルで、疎通の強弱が上下に変化する通信のようなものか。そして円錐底面近辺にたゆたうのが、夢を見ることであり、底面へ近づかんとするのが、死の欲動であると。

それにしても、ベルクソンにせよフロイトにせよ、黒沢清にせよ、彼らはひたすら同じことを言い続ける。消えたと思ったものは、じつは消えてない、それは回帰する。(フロイトと黒沢清はそれを運命のように捉え、ベルクソンはそれを歓びに捉える。)