「ヴァージニア・ウルフ エッセイ集」の冒頭にある「路上の音楽(ストリート・ミュージック)」をたまたま読んだら面白かった。そうなんですね!ウルフさんあなたって、じつは音楽めっちゃ好きなんですね!!つまり、そういうことだ。

実際、私はあるみすぼらしい身なりのお年寄りについていったことがある。彼はそのほうが魂のメロディが感じ取れるというように目を閉じて、ケンジントンでもナイツブリッジでも、文字通り全身で演奏していた。音楽に無我夢中だったので、硬貨を差し出されたら、我に返っていやな思いをしたかもしれなかった。こんなふうに自分の内に神を宿している人を尊敬しないわけにはいかない。奏者の魂を捉え、身なりのことも空腹のことも忘れさせる音楽とは、神聖な性格のものにちがいない。お年寄りが苦労して奏でるヴァイオリンから出てくるメロディはたいしたものではなかったけれど、ご本人は明らかに特別だった。出来栄えはどうあれ、自分の内にある音楽を正直に表現しようと苦心している人の努力は、いつも優しく扱わないといけない。着想の才能は、表現の才能より明らかに勝る。麺々と激しい往来がある横でハーモニーを響かせようとして叶わず、ヴァイオリンをキーキー軋ませている男女は、ヴァイオリンをたやすく奏で、何千人もうっとり聴き入らせてしまう名人と同じくらい偉大なものを宿していると思っても、的外れではないだろう。その内なるものを他の人たちには伝えられない運命だとしても、である。

そんなことを言ってるけど、身体を揺さぶってるのは著者本人の方ではないのか。路上ミュージシャンの奏でるサウンドに、人目をはばからず神経を集中させ、瞳を閉じて、少し距離をあけて堂々と突っ立ち、両腕を組み、身体をゆっくりと揺るがせ、やがてリズムに同調して頭部を規則正しく上下に揺さぶりながら、その旋律に没頭してゆくウルフ女史の姿が、ありありと目に浮かぶようだ。

ふいに、いきなりその場で聴こえてくる、耳に届いてしまう音そのものが素晴らしい場合があり、ついとらわれてしまい、釘付けになってしまい、いてもたってもいられなくなる。音そのものに力があり、それを信じている路上演奏者の意志は剥き身でこちらに伝わってくる、ということが、たとえそのようには書かれてなくても、つまりそういうこととして書かれている。

というのも------言葉というのはつなぎあわせるだけで何かしら役に立つ情報を精神に届けてくれそうだし、いくつか色を載せれば何かそれとわかる物象が表現できそうだから、これらの取り組みはせいぜい見逃せるとしても、作曲に時間を費やす人をどう見ればいいだろう?これら三つの中で、作曲はもっとも社会性がない------もっとも役に立たず、もっとが低い------のではないだろうか?音楽を聴いても、日々の仕事で使えるものが得られないのはたしかだ。しかも、音楽家は役に立たない生きものというだけではなく、多くの人々にとって、あらゆる種族の芸術家の中でもいちばん危険ではないだろうか?音楽家は、あらゆる神々の中でもっとも野蛮な神々、人の声で話すことも人の似姿を想起させることも習い覚えていない神々に仕える聖職者である。私たちの内部には音楽と同じくらい野蛮で非人間的なもの------踏み潰して忘れてしまいたい精霊------がいて、音楽はこの精霊を扇動する。だから私は音楽家に疑いの目を向け、その力に屈するのはごめんだと思う。

文明人になるとは、自分の持っている各種の能力をよく見極め、それらの能力を完璧に訓練の行き届いた状態にすることである。しかしながらそのうち一つの才能に関しては、善をなす力があまりに弱く、害をなす力があまりに計り知れないために、私たちはその才能を伸ばすのではなく、できるだけ挫いておこう、抑えつけておこうとしてきた。一生を捧げてこの神に仕えようとする人たちを、まるで偶像を熱心に拝む東方の人たちを見ているキリスト教徒のような眼差しで、私たちは眺める。ここにはたぶん、異教の神々が戻ってきたときに、自分では一度も拝んだことのないこの神が復讐におよぶのではないかという不安な予感があるのかもしれない。この音楽の神こそ、きっと私たちの頭脳に狂気を吹きこみ、私たちの神殿の壁に亀裂を走らせ、リズムのない私たちの生活を嫌って、未来永劫その声の命じるまま円になって踊らせると思っているのだ。

いかにもウルフっぽいというか、いささか大仰だけど、ここでの「畏れ」は、おそらく彼女自身のなかにあるもので、たぶんウルフは「リズム」に強く惹かれてしまう自分を自覚しているし、同時にそれが「踏み潰して忘れてしまいたい精霊」であることも否定しきれない。でもだからこそ、「リズム」は一層魅惑的なのだ。

音楽ってさっぱりわかりませんと、まるで何かよくある弱点が自分にはないと打ち明けるように宣言する人が増えている------そんな告白は、自分には色覚障がいがありますという告白と同程度には深刻なはずだが。これはある程度、音楽教師たちが音楽を教えたり、お手本を示したりする方法のせいにちがいない。音楽とはみんなが知っているように危険なものだから、音楽教師たちはそれほどまでに酔いやすいお酒を子どもに飲ませたら何が起きるかわからないと用心するあまり、勇気を出して音楽の力を伝えようとはしない。リズムとハーモニーのすべてを、ピアノの淡々とした音階練習に、全音と半音に、まるでドライフラワーみたいに押しこめる。音楽の要素の中でもいちばん無難で簡単なもの、すなわちメロディは教えるが、音楽の魂とも言うべきリズムは、翼ある生きもののように飛び去っていくままにする。そういうわけで教育のある人たち、つまり音楽の中でも無難なものだけを教わった人たちは、音楽ってさっぱりわかりませんと言い放つことになりがちである。一方、教育のない人たち、すなわちリズムの感覚を手放したことも、メロディの感覚をおまけのように扱ったこともない人たちは、音楽をこよなく愛し、しょっちゅう演奏を披露してくれる。

これはウルフの大衆音楽論と言っても良い気がする。大衆音楽(ポップ・ミュージック)とは、ウルフがここで言おうとしているいくつかの条件を備えた音楽を、なんとか資本に乗せ、換金しようとする営為だと思うからだ。