椅子


ぼんやりと過ごした。たまにうたた寝した。はっとして目が覚めて、身体を少し起こしたまま、またぼんやりした。こうして時間は今日も過ぎていって、正午を過ぎ、午後を過ぎ、夕方が近づいた。


ああほんとうに無駄な、じつに無益な時間のすごしかた。よく考えると今年はゴールデンウィークの何連休かも先日の夏季休暇の休みも、ほんのちょっとの外出程度でほとんどどこにも行かずただひたすら家の中にいて、家の中でも何をするでもなく何にも集中できず今日みたいにひたすらぼんやりしてただけだ。こういうのが良いだなんてこれっぽっちも思わないが、かと言って休みの時間を有効に利用して何か一つのことに集中して大いに成果を上げるなんていう事もできない。なんなんだよ、という思いのまま、だらだらとするだけで、だらだらしている私というものの、だらだら状態を私なりに認識して、でもそれをどうのこうのと考える気もとくにはない。ああ、こうして今、私はだらだらしてるんだ、ああ、何もしていないんだ、ああ、時間がとてつもなく早く流れすぎていく、そしてああ、私はなおも、まだ何もしていないんだ。ああ、それにしても、こうして寝転がって四肢の力を抜いて、天井を見つめているというのは、なんと大変な重労働で、なんと疲れることだろうか。なぜこれほど大変な思いをしなければいけないのか。人はソファーやベッドに横になって、その場にぐったりしているという事に、どれほどの労力と精神力を必要とするものなにか、それはちゃんと考えるべきことではないだろうか。こうして頼まれもしないのにわざわざ、四肢の力を抜いて必死の思いで寝そべっているのだ。この無償性と献身性。それから西向きの部屋に移動して、椅子がぐるりとこちらを向いているので、とくに意味もなくそれに腰掛けてみたときに、いつもよりも背筋を伸ばして座ってみたものだが、その高さが、会社にある椅子よりも若干高くて、こうして深々と椅子に座った姿勢の方が、なぜソファーにぐったりしているよりも、少しばかり心が楽になるのだろうか。こうしてマトモな姿勢を保つことはマトモな服に着替える事のようなものなのか。これは矯正のあたたかみ、義務の温もりであろうか。やはり人間は、義務を与えられて初めて自由になれる生き物なのだろうか。椅子。それは人を行為に向かわせる基本的な拘束具。椅子を与えられて、それに座ってはじめて私はやすらぐ。でもだからそれで、私はその後次の行為に移る事も無く、そこまで考えてまた立ち上がった。目の前にソファーがある。さっきのソファーを前にして、カバーに皺がよっていたのでそれを直して、またぐったりとそこに身体を横たえた。窓を開けて、外から聞こえてくる物音を聞いていた。風の吹き込んでくる音が耳と頬に直接あたった。本を開き、読む事に集中しようとして、ほんの数秒でまたもや眠気が襲った。また寝るのか、さっきまで寝てたのに。しかしまた寝る。なぜ寝るのか。また起きた。また起きたのか。なんだんだ。何がしたいのだ。もう寝ないだろうか。今まで寝てたんだから、もう寝ないはずだ。そう何度も眠ることはないだろう。本に集中しよう。本を読むこととする。それにしても、序文の次の、始まってすぐの何行目かにあるこの箇所は素晴らしい。先週からそう思ってる。って事は先週から1ページも進んでないということだ。それから今までの時間は、それではすべて無駄だったのか。それまでの時間はなかったも同然か。無かった?無駄?無駄ってなんだろうか。その間の時間って、そもそも何?もっとページが進んでいたら、それは無駄ではない?その時間があった事の証明になるのか?満足感と達成感を取得できそうか?無駄じゃない方がお好みか?そうしたら、なんだか私はいつもここにこうして、何が無駄で何が無駄じゃないのかがわからないままに、手持ちの札をやたらと平気でばんばん捨て場に捨ててしまう行為が好きで好きで仕方が無いのだということを今ふいに思い出した。そうだ私はもっと若かりし頃、まだ学生だった二十代の頃から、おそらくその傾向があったのだ。私は私が気にしていることや、大切だと思ってることを、ことさらにクローズアップさせて、そのまま捨てて、それを自分がどう思うかを試すのが好きだった。私は、二十代のかけがえの無い時間と言われたとき、ならばその時間を全部無駄に使ってみても良いのではないか、それでもなお時間が失われたものとして、かわらずかけがえの無い何かとして輝き続けるものかどうか知りたかったのだとは言えないか。いやー、言葉にするとどうにもそうでもないような気もする。私は昔こんなでした。そんな話を信じられるか?たとえそれを話すのが私であったとしてもだ。私は、私の言うことなど、とても信じられない。でも、無為に時間を過ごしてきて、今もそうしている事はたしかだ。おそらくそういう事なんだろう。こんなことをして、一体何になるの?ある映画で登場人物が漏らしたそのセリフがとても好きで、そのセリフへのリアクションとして、私はいまある手持ちの時間すべてを、その場に投資してしまった。私が一点誤解していたのは、いずれにせよなんらかの返礼があると思っていたことだ。マルかバツかの答えを何かしら、いただけるものと思っていたのだ。これが大きな間違いだった。答えはなかった。何もなかったのである。なのでいまや、私は私の個人的な記憶だけを頼りにするよりほかない。


私はどうもまだ私という乗り物についてあまりよくわかっていないようだ。まだ私は私を乗りこなせない。機体を安定させるまでの操作がことのほか難しいように思う。二十年経っても難しい。そして私はまた眠いのだ。あれだけ眠って、まだ眠るのか。ああこのままではまずい。顔を洗って着替えてとっとと会社に行け、早く私に起きろと言ってくれ。