何かをを知るとは、知った自分が知る前の自分から変わってしまうのが面白いのであって、ただ知るだけなら、なんてことはない。将来を見越して、知識をあらかじめたくわえておき、のちの起爆剤にしようとしても、そう上手くはいかない。知る=たくわえる、というのが間違いで、知ったことで、これまでのたくわえが消えてしまわなければダメなのだ。

何かを知るとは、知りたくなかったこと、望んでなかったことを知るということでもある。知ることの苦痛を引き受けることの、反転した歓びということでもある。

自分の知りたかったことだけ知り、知りたくないことには目を瞑ることもできる。でもそれは自分にとって低負荷であるから、その程度で良しとする自分を自分が許容するか否かだ。

かりに他人から見て間違っていたとしても、自分が知ることの歓びの向こうに突き抜けられる予感を感じるなら、それにしたがうべきだろう。

しかし、どこへも行けずに迷い続ける状態を誤魔化さないのも、それはそれで大事なことだと思う。それこそが半端な自分に自足する態度では?という非難の声に、抗うことでもある。じつは確かに、ほんとうにそうなのかもしれないが、あまりくよくよせずに、とにかく目だけは開いておくと。