DVDで森田芳光「家族ゲーム」(1983年)を観る。きわめて演劇的に図式的に、虚構性を隠さない視点をもって、当時の世間一般に流通する家庭のイメージを示し、そこに異物的な家庭教師を放り込んで、生じる出来事を作品とする。その方法が見事に上手くハマったと…

Blu-rayで北野武「3-4×10月」(1990年)を観る。じつは、はじめて観たと思ったが、たぶんそんなことない。ところどころ記憶に残存している。ずいぶん昔だろうけど一度観ているようだ。 カタギの世界を生きるとは、暇を持て余して部室にたむろする高校生のよう…

人身事故で、走行中の電車が突然一時運転見合わせとか、徐行運転になるとかで、帰宅通勤の途中、もう夜遅くだというのに、到着時間が大幅に遅れることはたまにある。 そうなったとき、電車の乗客のうち誰かは、予期せぬ事態に苛立ち、焦り、ため息をつき、ず…

良い作品になりつつあるという感触を強く感じながら制作している、そんな夢を見ていた。 切り刻まれ、折り重ねられた紙片が、所々剥離しながらも、支持体の上に貼りつきインパクトのあるテクスチャーで迫ってくる。非常に好ましい混沌の度合い、未整理ながら…

青山拓央のNote(https://note.com/aoymtko/n/n0a0018098591)「死者の時間と他者の時間」を読み、ある小説を読み終えて感無量…みたいな気持になる。結末にたどりつくまでの流れが、うつくしいのだと思う。 同時に、死がいつか無へ移行することの厳粛をも思う…

荒木経惟が撮影した上野駅前の写真。不忍口を出てすぐの上野松竹デパートだが、見ると思わず目をむくというか、ぎょっとさせられる。かの有名な東京の上野駅前であるとは信じがたい景観であり、しかし同時に、あ、なつかしい、昔はたしかにこうだったわ、と…

U-NEXTで、ジャック・ドワイヨン「少年とピストル」(1990年)を観る。きびきびとした話の運び方が素晴らしい。説明なしに、出来事だけでぐいぐいと進んでいく。主人公の不良少年がいて、ふだんから少年を気にかけている…というか素行を監視してる刑事がいる。…

DVDで北野武「ソナチネ」(1993年)を観る。じつは(ちゃんと通しては)、はじめて観た…。 北野武がよくわかっているのは、撮りたい映画の題材として、自分自身がもっともそれに適ったイメージであるということだ。自分がうつむいたままで何らかのセリフを呟くだ…

DVDで北野武「その男、凶暴につき」(1989年)を観る。じつは、はじめて観たのだが、これが監督第一作目で、もうすでに「北野映画」は完成の域にまで達していたのだな…。 ビートたけし演じる主人公の刑事は寡黙で、挨拶されても相手の顔もろくに見ない。シャイ…

正月に実家の自室にあった98年から99年くらいのミュージックマガジンの何冊かを適当に持ち帰ってきたので、それをたまにぱらぱらとめくって読んだりもするのだけど、どのページもよくおぼえてるなあ、当時はなんと真面目に読んでたのだろうかと、我ながら呆…

無着成恭 編「山びこ学校」の最初の方にある、本書中おそらくもっと名高い江口江一の文章「母の死とその後」は、これはたしかにすごくて、それは書かれている内容がというよりも、それをこのように文章としてあらわしたことが、彼にとっての形式の獲得であり…

とつぜん、得体のしれない道具を手渡される。何に使うのか、何が出来るか、まったくわからない。とりあえず触ってみる。可動部分を動かしてみたり、凸部を押してみたりする。すると何らかの状態変化が起こり、それを繰り返しているうちに、何に使えるものか…

いちばん良く利用するコンビニでは、自分が商品を何ももたずにレジに近づくと、店員が自動的にホットコーヒー(R)の紙コップを持って待ってるようになった。だからもし何か別の商品を買いたいならば、あらかじめ手に商品を持ってることがはっきり見える状態で…

Amazon Primeで川島雄三「喜劇 とんかつ一代」(1963年)を観る。冒頭から、あれは上野の不忍の池、そして弁天堂ではないか。そして仲町通り、池之端、湯島天神、上野精養軒ではないか。ついロケ撮影された当時の上野の景色にばかり目が行ってしまう。 本作の…

Amazon Primeで川島雄三「青べか物語」(1962年)を観る。60年代初頭、空撮で東京湾上空をカメラが見下ろしつつ移動し、そして江戸川を見やりながら千葉県方面へ。埋立工事の進む海の景色、やがて遠景まで際限なく広がる田園と、細く長く伸びる河面におびただ…

うまれてはじめて、徹夜をしたのはいつのことだっただろうか。おそらく大晦日から正月にかけてではないかと思うが、あの時と特定できるような記憶はない。中学生になった頃には、朝まで起きていることなどべつに珍しくもなかった。深夜ラジオを聴くような時…

「ダゲール街の人々」に出てくる商店街の人々を見ていて思い出したのだけど、僕が子供の頃、つまり80年代の地元の埼玉郊外にも、まだ商店街はあった。もちろん駅前のスーパーとか駐車場完備のショッピングセンターもすでにあったし、普段の買い物はもっぱら…

関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』を読んでいたら、無着成恭という名が出てきて、おお…いたなそんな人、と思う。 僕が小学生のころ。夕方、台所の棚の上にあった小さなラジカセのAMラジオから「こども電話相談室」の、軽快という…

荒木陽子という人は、1947年に生れて、1990年に死去した。荒木経惟の妻であり多くの写真でモデルを務めた。 僕の母が1944年生まれで、先日に傘寿だったわけで、荒木陽子とさほど変わらない年齢なのだ。荒木陽子はそれこそもっと大昔の人物だと思っていた。「…

青空文庫で芥川龍之介の「羅生門」を読んだ。冒頭、下人は決めあぐねている。このままだとおそらく餓死する。生きるためには盗みや悪事も働かねばならず、いよいよその覚悟を決めねばならないが、しかしその勇気がない。 羅生門の下には死体がたくさん積み置…

世田谷美術館の企画展に載っている荒木経惟の写真になぜか妙に惹かれ、図書館で荒木経惟の写真集「東京人生」と「センチメンタルな旅1971-2017」を借りてきた(企画展に出てる写真は「東京日和」収録らしい)。 「東京人生」はデビュー前から2006年頃までの仕…

Amazon Primeで、アニエス・ヴァルダ「ダゲール街の人々」(1975年)を観る。アニエス・ヴァルダ自身が住人でもあったパリ14区"ダゲール街"で商売を営む人々をカメラがとらえる。日常の仕草、香水の調合とか、洋服の仕立てとか、肉を切るとか、パンを焼くとか…

アップリンク吉祥寺でビクトル・エリセ「瞳をとじて」(2023年)を観る。そうなのか…。「永遠と一日」のアンゲロプロス、あるいは「さすらい」のヴェンダースなニュアンスも感じた。三時間弱も時間かけて、こういう映画なのか、、と思う。 まず1947年という時…

ヒューモアとは、たとえば自分が死んだら世界も終わるという独我論に固執しながらも、自らの死後きちんと清掃業者の手配がなされるように事前配慮するようなこととの間にある。これをイロニーにせずヒューモアに開くには、何よりもその分裂と矛盾をそのまま…

ある作家の作品を、最新作ではじめて知って、それを好きになると、過去の作品もさかのぼって知ろうとする。その仕事の一貫性を過去にさかのぼり深堀りし味わい、なるほどこの作家はこういうキャリアを重ねてきて、こういう仕事の変遷があったのだと、良い時…

柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」を読んで、そのタイトルについてあらためて考えてみるに、それはつまり、唯物論でなければヒューモアじゃない、という言い方も、できるのかもしれない。 少なくとも、我々のこの現実、この世界、人類の未来に、もはや期…

五年後の生存確率は三十パーセントだと医者から宣告されたとき、その言葉に納得あるいは狼狽するとはどういうことなのか。 人の生死について、何が三十パーセントなのか。五年後の私が三十パーセントは生きていて七十パーセントは死んでいるという意味ではな…

高校の同窓会的な催しに参加したのだが、自分はほとんど、久々に会った誰かを鏡にして当時の自分を見てそれに嘆息してばかりのようなものだった。あのときあなたはこうだったという物語を聞きに来たようなものだった。自分勝手でひどいけど、いや、もともと…

RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾vol.15」へ。 将棋ルールを習得して一年かそこらで、アマチュア将棋のそこそこのランクに達してしまうとか、常人からすると考えられないくらい高い習得能力をもつ人はごくまれにいて、スポーツ競技をはじめたばか…

夜の10時過ぎに駅のホームで電話してる人。確実に社内か客先でトラブルの様相。対応範囲や責任範疇とかの問答になってるのか、もはや逃げ切れるか捕まるかの、いま瀬戸際におそらく彼はいる。 逃げろ逃げろ…と。なんとか生き延びよ、その口調、その言い逃れ…