2024-02-01から1ヶ月間の記事一覧

「ダゲール街の人々」に出てくる商店街の人々を見ていて思い出したのだけど、僕が子供の頃、つまり80年代の地元の埼玉郊外にも、まだ商店街はあった。もちろん駅前のスーパーとか駐車場完備のショッピングセンターもすでにあったし、普段の買い物はもっぱら…

関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』を読んでいたら、無着成恭という名が出てきて、おお…いたなそんな人、と思う。 僕が小学生のころ。夕方、台所の棚の上にあった小さなラジカセのAMラジオから「こども電話相談室」の、軽快という…

荒木陽子という人は、1947年に生れて、1990年に死去した。荒木経惟の妻であり多くの写真でモデルを務めた。 僕の母が1944年生まれで、先日に傘寿だったわけで、荒木陽子とさほど変わらない年齢なのだ。荒木陽子はそれこそもっと大昔の人物だと思っていた。「…

青空文庫で芥川龍之介の「羅生門」を読んだ。冒頭、下人は決めあぐねている。このままだとおそらく餓死する。生きるためには盗みや悪事も働かねばならず、いよいよその覚悟を決めねばならないが、しかしその勇気がない。 羅生門の下には死体がたくさん積み置…

世田谷美術館の企画展に載っている荒木経惟の写真になぜか妙に惹かれ、図書館で荒木経惟の写真集「東京人生」と「センチメンタルな旅1971-2017」を借りてきた(企画展に出てる写真は「東京日和」収録らしい)。 「東京人生」はデビュー前から2006年頃までの仕…

Amazon Primeで、アニエス・ヴァルダ「ダゲール街の人々」(1975年)を観る。アニエス・ヴァルダ自身が住人でもあったパリ14区"ダゲール街"で商売を営む人々をカメラがとらえる。日常の仕草、香水の調合とか、洋服の仕立てとか、肉を切るとか、パンを焼くとか…

アップリンク吉祥寺でビクトル・エリセ「瞳をとじて」(2023年)を観る。そうなのか…。「永遠と一日」のアンゲロプロス、あるいは「さすらい」のヴェンダースなニュアンスも感じた。三時間弱も時間かけて、こういう映画なのか、、と思う。 まず1947年という時…

ヒューモアとは、たとえば自分が死んだら世界も終わるという独我論に固執しながらも、自らの死後きちんと清掃業者の手配がなされるように事前配慮するようなこととの間にある。これをイロニーにせずヒューモアに開くには、何よりもその分裂と矛盾をそのまま…

ある作家の作品を、最新作ではじめて知って、それを好きになると、過去の作品もさかのぼって知ろうとする。その仕事の一貫性を過去にさかのぼり深堀りし味わい、なるほどこの作家はこういうキャリアを重ねてきて、こういう仕事の変遷があったのだと、良い時…

柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」を読んで、そのタイトルについてあらためて考えてみるに、それはつまり、唯物論でなければヒューモアじゃない、という言い方も、できるのかもしれない。 少なくとも、我々のこの現実、この世界、人類の未来に、もはや期…

五年後の生存確率は三十パーセントだと医者から宣告されたとき、その言葉に納得あるいは狼狽するとはどういうことなのか。 人の生死について、何が三十パーセントなのか。五年後の私が三十パーセントは生きていて七十パーセントは死んでいるという意味ではな…

高校の同窓会的な催しに参加したのだが、自分はほとんど、久々に会った誰かを鏡にして当時の自分を見てそれに嘆息してばかりのようなものだった。あのときあなたはこうだったという物語を聞きに来たようなものだった。自分勝手でひどいけど、いや、もともと…

RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾vol.15」へ。 将棋ルールを習得して一年かそこらで、アマチュア将棋のそこそこのランクに達してしまうとか、常人からすると考えられないくらい高い習得能力をもつ人はごくまれにいて、スポーツ競技をはじめたばか…

夜の10時過ぎに駅のホームで電話してる人。確実に社内か客先でトラブルの様相。対応範囲や責任範疇とかの問答になってるのか、もはや逃げ切れるか捕まるかの、いま瀬戸際におそらく彼はいる。 逃げろ逃げろ…と。なんとか生き延びよ、その口調、その言い逃れ…

来訪者と打ち合わせして、あまり得るところのなかった結果内容を簡単にまとめて、ずいぶん遅い時間にようやく会社を出た。駅へ向かいながら、体全体が重くて、一々気に障るような落ち着かないものが、がさがさとまといつく感じだった。こんなコンディション…

今があり、時間、それは動いているというのを信じるのは、以外に難しい。それが動いているという実感が、私の身体に伝わってこなければ、今停止してますとか、動きますとか、電車内のアナウンスのように教えてもらわなければわからない。少なくとも今、私は…

たとえば自分あるいは身内や家族が、野生動物に襲われて傷つけられたら、そのことは不運・不幸に思うだろうが、その野生動物に対して、恨みや憎しみをおぼえるかというと、たぶんそうではないと思う。野生動物に襲われたというのは、危険物に触れてしまった…

フランス料理とは何よりも量であって、ある一定以上の量を食べなければ本領は見えないものであるとの某ブラッスリー店主の言葉に、なるほどそんなものかと思ったことがあるけど、自分の場合は腰が引けていて、むろん店にもよるけど居酒屋使いを好むというか…

母の傘寿祝いということで会食。久々のフルコースで、満腹が度を過ぎて最後は目を白黒させるはめに。我々はともかく母と十二歳の姪がよくまあ付き合いきったものだ。店を出てからしばらくのあいだ、自分の身体全体がフォアグラ化したような窒息感にしばし苦…

MOVIX亀有で三宅唱「夜明けのすべて」(2024年)を観る。光石研が社長の、あの会社の在りよう。社長の人柄。従業員の態度と、働き方。(ちょっと青山真治「サッド ヴァケイション」を思い出させるような)まるで厚生施設のようであり、社長もまた、過去の癒えな…

およそ十年以上前に録画した番組を妻が久々に再生していたので、それに付き合う。「小澤征爾 復帰の夏~サイトウ・キネン・フェスティバル松本2013~」いくつかあるプログラムの一つ、大西順子トリオと小澤征爾指揮によるサイトウ・キネン・オーケストラ…

作りはマンションだが住宅としてはまったく利用されてない、雑多な業者がたくさん入居してそれぞれ商売を営んでいるのだろう雑居ビルである。一階エントランスも一見廃墟のようだが、入居者一覧にはさまざまな業者名がぎっしりと並んでいる。歩行者へ行く先…

デヴィッド・フィンチャーの映画「ザ・キラー」で、主人公の殺し屋が愛聴してたのはスミスだったけど、不特定多数の色々な人がいて、誰もが音楽を聴いていたり聴かなかったりする。で、ある人はどんな音楽を聴いているか?について、その人の服の趣味や好き…

ウルサイ音楽が基本的には好きだ。スカしてるよりはダサくてもやかましい方がよっぽどいいと思っている。ただしそんな自分自身について言えば、胆力あやしくて、腹の括り方も甘くて、我ながら頼りないので、ウルサイにも程があると、ややへこたれそうになる…

誰もが、雪が降るのを心のどこかで楽しんでいるところがある。黒い夜空からあの毛綿のようなものが降り落ちてくるのをいつまでも見上げながら、この寒さのなかに我が身のあることを、まるで汽車のように身体の内側から健気に発熱していることを、なぜか愉快…

笹野真「手のひらたちの蜂起/法規」が面白い。読んでいる間、何か不思議なムズムズ感があり、何事かの成り立ち、現実的な気配の漂いがあり、何事か存在感の手応えが感じられる過程を味わうのが楽しい。 以下は自分なりの自分が、おそらくそのように読みたか…

伊丹万作「無法松の一生」(1943年)を観る。これが無法松、これが阪東妻三郎か…。日本人がことのほか好む人情劇の典型的な登場人物。アウトローで喧嘩早くて直情的でありながらも、義理人情に厚く恋愛には奥手な、けして悧巧ではないが明るくて健やかな気のい…

実家には誰もいなかった。誰もいない実家に帰ってくるのは二十代のとき以来だ。誰もいない実家に久々に帰ってきてまず困るのは、玄関や廊下やその先の照明のスイッチがどこにあるのかすぐには思い出せないことで、あちこちのスイッチを押して探し回る。思い…

本当は先週か先々週に来たかったのだけど、同窓会があるので今日来たのだと美容師の人に説明したら意味が伝わらなくて、話がガタガタになった。ぼくは髪を切ってスタイリングもしてもらってから同窓会へ行く予定を立てたので、ほんとうは先週来たかったのを…