U-NEXTで、ジョン・カサヴェテス「フェイシズ」(1968年)を観る。カサヴェテスを観るならある程度覚悟すべき、カサヴェテス的な「いやな感じ」は、この時点すでに充分出揃い、ぎっしりと詰まってる感じだ。

カサヴェテス的「いやな感じ」とは、カサヴェテスにかぎらず、映画を観るうえで、出来ればあまり目にしなくない、見えても見過ごしたことにしたい、いやな綻びというか、ふつうは(誰か…責任者?的な誰かがちゃんと消すから)、見せない部分が見えていることを、そう思うのだと思う。

カメラが回って、俳優同士が何かをしなければいけない。この、何かしなければいけないという感じが、映ってしまうのがダメなのだ。映画でもテレビドラマでも、ふつうは登場人物が「何かしなければいけない」ような態度は、けっして見せない。登場人物はそれぞれ彼ら彼女らの事情に、すっぽりとおさまってないとおかしい。悲しんでる人物を捉えたとしたら、その人が悲しんでいる以外の様子が混ざってしまうはずがない。もし悲しんでる人が、その途中でぼんやり黙ったり、大口で笑ったり、直後に口論の続きを続けたり、また笑いを押し殺していたら、悲しみという先立った意味が、行き場をなくしてしまうからだ。

それをきちんと受け止め、おかしくないようにやるのが、要請された仕事であり、演技というものだ。

ところで「フェイシズ」の人々も、もちろんそんなことはわかっていて、ちゃんと演技をしている。冒頭のジーナ・ローランズを前にしてジョン・マーレイとフレッド・ドレイパーがふたりでふざけ合う場面から、観ている我々はいきなり、心の底からうんざりさせられる。最悪に手持無沙汰な時間を、逃れようもなくめいっぱい付き合わされるのだが、あの大の男らのバカ騒ぎも、ジーナ・ローランズの爆笑も、それ自体はまったく、それそのものだ。それにしても。だったら我々はなぜ、それを見てこれほどまでにうんざりするのか。

ふつう、そんなに馬鹿笑いしますか?狭い部屋の中で、子供みたいに大騒ぎしますか?と言ったところで、彼らはそうなのだから、それはもはや仕方がない。なにしろとにかく、そうなのだ。よく笑い、よく喚き、よく黙るのである。これはもう演出とかでは無いのだ。いや、演出には違いないけど、それをそれらしく見せることが、目的ではないというか、そもそも、それらしさなどというものは、この世界にはない。そのことを思い出さないとダメだ。

人が、やたらとでかい口を開けて笑ってる、これはそういう映画で、そういうことしか、よくおぼえてない、そんな泥酔の記憶に残る前夜のバカ騒ぎの記憶のような作品である。そうか、笑ってるってことは、きっと楽しいんだなと、相手を推し量ってみる。笑って済むなら、それで良し。意味も、事の顛末も、これがこうなったことの責任も因果も、どうでもよろしい。あの奥さんだって、楽しそうだったし、それでいいじゃないの、大きな口をあけて、笑ってらしたわ、だったらそれで、万事オーライ。大抵のことは、そう思っていい。

この中年男性大騒ぎのノリは「ハズバンズ」で、さらに凄まじく発展するように思うが、「気まずさ」というか「いやな感じ」の濃度的には、もしかすると「フェイシズ」のほうが上かもしれない。しかし「ハズバンズ」にせよ「オープニング・ナイト」にせよ「中年の危機」は、カサヴェテスの永遠のモチーフなのだな。

そんなことを考えつつ、なかば降参の体でいると、物語は、思いのほか意外な進行を見せる。ジョン・マーレイの奥さんと若い男との一夜の様相が、やけに深く念入りに、描き込まれていく。

どいつもこいつも大騒ぎしてるだけ、みたいな作品ではあるけど、ジョン・マーレイとジーナ・ローランズの一回目の会合、ジョン・マーレイと奥さん、ジョン・マーレイとジーナ・ローランズの二回目、奥さんの夜遊びと、自宅での宴会と、若い男との一夜、場面もシチュエーションも登場人物も数多くて、それぞれの共鳴を感じさせつつ、最終的にはジョン・マーレイとジーナ・ローランズ、ならびに奥さんと若い男との距離の変容が、ぐっと観る者を惹きつける力をもって迫ってくる。もとよりバカバカしいのだけど、奥さんよく助かったね、良かったねと言いたくなり、最後に来て、得体の知れない、不思議な感動につつまれる。

「パルプ・フィクション」でのユマ・サーマンがオーバードーズから生還するシチュエーションが、本作を意識していたかはわからないが、少なくとも本作の、この終盤はとてもいい。奥さん役のリン・カーリンは「演じる経験」が、驚くべきことに本作で初だという。しかも本作でオスカー助演女優賞にノミネートされたのだそうな。

U-NEXTでジョン・カサヴェテス「オープニング・ナイト」(1977年)を観る。当然ながら誰もが年を取るのだが、誰もがそれを素直に受け入れるのは難しい。年齢を重ねることでの変化を受け止め、そして他人の目に写るだろう自身の姿もそれとして受け止める。このことをスムーズに上手くやれる人はきっと多くはない。

ジーナ・ローランズという俳優は、自分が自分であること、女性であること、俳優であること、もう若くはないこと、それらをまるで先天的な持病のように、身の内にそっくりかかえて映画に出演することが、はじめから義務付けられているかのようだ。

しかし彼女の姿が映し出されているそれは映画であり、そこで彼女が行っているのは演技であるなら、上記の要素も先天的なわけはなく要請されたことで、それが演技によって表現されたもののはずで、だからジーナ・ローランズは、最終的に俳優であることの結論をもって、自身をアイデンティファイできるはずだし、俳優ジーナ・ローランズの表現として、我々はそれらを見ていて、それを素晴らしいとかすごいとか色々と言うのだ。

彼女の苛立ちは、自身が若さを失うことによるのだろうか。そう考えることは容易だが、観たものは、そういうことじゃないとも思う。もちろん、すべてが演技であり、演技は素晴らしい、演技は不思議だとか、そういう話でもないだろう。

水のはいったコップを倒したら、こぼれた水がテーブルに広がる。その広がり方が、たまたまこんな感じだった。例えるならカサヴェテスの作品は、いつもそんな感じがする。

もちろん、水のはいったコップを倒すのも、何度もやれば「芸」になってしまうのだが、それでは台無しだ。ジーナ・ローランズが、なぜあれだけ苛立ち、あれだけタバコを喫い、あれだけ酒瓶をぐいぐい口元に傾けなければならないかというと、その緊張と不安の一線を緩めることが出来ないがゆえだと思う。

彼女のファンである若い女の死も、平手打ちの暴力場面に抵抗を感じるのも、それらはたまたま彼女に襲いかかる苦難である。それは実際の彼女にも登場人物の彼女にも、等しく襲いかかるもので、彼女が抵抗したいのは、それを受容するしかないとの認識、それ以外の選択肢をあきらめることであり、それを受け入れた人間の演技である。

脚本家の女性は、精一杯の誠意でジーナ・ローランズを説得する。自身の年齢を打ち明け、彼女に年齢を聞き、納得させようとする。しかしジーナ・ローランズは自分の年齢を口にせず、説得の論理自体を受け入れない。

彼女には、これといって良い案があるわけでもない。起死回生の一撃なんてありえない。せいぜい泥酔するくらいが関の山だ。かくしてボロボロの酩酊状態で、彼女は満席の舞台に立つことになり、脚本の女性も演出のベン・ギャザラもいよいよ万事休す、私たちのキャリアもついにこれまでか、首を括る準備でもするか…の雰囲気に一瞬なるのだが、アドリブ以前のグシャグシャな彼女の演技に対して、なぜか不思議と共演者の男性たちは、彼らなりのやり方で彼女と呼応をはじめる。

前夫役の男性は如何にも単純で明るくて愚鈍なマッチョという感じだが、危機的状況におけるこの短絡な感じは、むしろ救いに作用する。そしてカサヴェテスが演じる別の男性だが、まさに今崩れ掛けている主演女優を前にして、端役の彼が彼なりに、これをチャンスと何らかのスタンドプレーを目論んでいたのは察せられて、それが功を奏したか否かはさておくとしても、舞台上の物語はおそらく本来とはまるで違う方向へだが、ギクシャクとかろうじて進行され、それを演出ととらえた観客は、終始大喜びで舞台に喝采する。

無事に幕が下りて、複雑な表情のベン・ギャザラたちと、大喜びの俳優らと関係者たちの姿で、映画が終わる。良いも悪いもない。上位からの統制に対する抵抗が実を結んだとか、そういうことでもない。こぼれた水がテーブルに広がった、それだけのことだと思う。

ぼくは学生のとき、一般教養科目で大岡信の授業を受けたのだが、そのときは大岡信について「折々のうた」の人という以外、何も知らなかったし、とくに関心もなかった。授業内容はほとんどおぼえてないが、毎回とても平易で、混乱も緊張もなく、あえて誤解を恐れず言うなら、時折挟まれる雑談も含めて、あまりに良識的・常識的で、刺激や驚きには乏しい授業だったように記憶する。

新聞に連載されていた「折々のうた」を、当時ぼくは熱心に読んでいたわけではないけど、ふと目にしたとき、たまに鮮烈としか言いようのない何かに不意打ちされた経験は、幾度かあったと思う。それらの詩歌に添えられた大岡信による短い解説が、いつもじつにオーソドックスでオーセンティックではあったけど、しかし「折々のうた」を読み返して、ようやく今になってその平易さの奥底にぎっしりと蓄えられた、読むことへの途方もない経験の厚みを想像し、何かを感じ取ることも出来る気がする。

いわばこれぞ、まさに教養人ということだ。古今東西の、あらゆる詩歌について、とてつもなく広くて深い知識をもっているのはたしかだが、それだけではない。その文章はものすごく平明である。しかし薄めたような適当な読みや甘い解釈はない。わかりやすいとは単純とか浅いという意味ではなくて、その逆である。根本に厳しく深い理解があって、そこから最小限に絞り込まれているからこそ、ここまでわかりやすいのだ。

このような平明さで、あらゆる詩歌を紹介・案内・解説できる、その詩歌のもつ力を過不足なく受け止め、可能な限り簡潔に、要所だけはしっかりと掴んで、できるだけ注意深く、慎ましく、ジェントルな、サジェストの言葉として、そっと傍らに置く。それが可能であるのが教養人ということで、そんな人物は、おそらくいま存在しないのでは、と思う。

一九七九年から朝日新聞で連載開始された「折々のうた」というコラムは、しかし当時としては斬新な(八〇年代的と言えば言えるかもしれない)試みでもあっただろう。古今東西の詩歌を、何の脈絡もなくただ並べても、ふつうは単独の詩歌が並ぶ以上のものではないようにも思うが、「折々のうた」ではそれがそうならないような、絶妙な配慮がなされている。

あらゆる詩歌が、ひとまず春夏秋冬ごとにまとまってはいる。四季という一巡のなかに、数千年にもおよぶ詩歌の営みが、多くは季語、あるいは詠まれた情景、天候、出来事、登場人物の関係や配置、恋愛・失恋、孤独や寂寞、世の儚さといった感情、あるいは動物や虫たち、その声や物音などなど、さまざまな類似と呼応のシチュエーションによって、まったく異なるはずの詩歌同士が、時空を越えて響き合い、勝手に行き来をはじめる。

いわば詩歌におけるプレイリストを日々更新しつつ、詩を書く人々の意欲を力として、さらなる大きな物語を紡ごうとするような営みであり、そこに連鎖反応のごとく無数の歌たちを呼応させることこそが、大岡の目指したものであっただろう。

ちなみに詩歌に付す短文は、最大文字数が百八十字で、今のエックスよりちょっと多いくらいか。著者によると、詩歌の選択とこの短文の準備は、書き溜めておくことが出来ないものだった、とのこと。なぜなら、めぐる季節のなかで、詩歌に自身の身体や感覚が反応し、かつ前歌との響きも感じる、夏なら夏に、春なら春に、自身の感覚したところをもとに、歌を選び、コメントを付ける、その時間枠を先取り出来なかったからだと言う。そのため、ストックは常に乏しい、もし病気にでもなったら連載に穴が開くかもしれない、何日か掛かる旅行も難しい、そのくらいタイトなスケジュールで、日々の連載が続いていたとのこと。

血を垂れて 鳥の骨行く なかそらを
西東三鬼 (1900-1962)

絵画にも映画にも不可能で、散文にも不可能なことを、詩(俳句)なら実現出来てしまうのだなと、この句に思う。

 

贅肉なき肉置きの婀娜にみ面もみ腰もただうつつなし
吉野秀雄 (1902-1967)

「あまりじしなきししおきのたをやかにみめもみこしもただうつつなし」ふりがなを丹念に読むと、露悪的なまでに、徹底してエロい。相手から眉を顰められてもお構いなしの、食い入るような一方的な眼差し。とはいえ気持ちはわかる。仏像を見るとは、つまりそういうことだ。柔和な表情だけを見る人もいるかもしれないが、ほとんどの人はやはり、その四肢をまじまじと、片足にかかった重心とか、斜めに傾いだ腰骨と臀部、下腹部のやわらかな曲線だとか、二の腕や胸部のゆたかな肉付きを見ているはずだ。

 

朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唱ふ船人
大伴家持(718-785)

先日夜、浅草橋のあたりをふらふらしていたせいか、これを読んで誰かの川沿いを散歩しながら見ている景色を思い浮かべた。射水川というのは東京ではないかもしれないけど、とにかく川沿いの生活があって、人がいて、舟が行き、人の声がしているような。

ところが、作者は大伴家持で、これは万葉集の歌だと知って大いに面喰う。何に驚くって、せいぜい明治か昭和初期あたりかな、と根拠もなく思っていたその景色が、奈良時代だったことにである。

じぶんに詩歌の素養や経験が乏しいせいだが、「折々のうた」を読み進めていると、ほとんどそういう驚きの連続である。昭和半ばの句が紹介されて、その次には万葉集が、その次には江戸時代で、次は古今和歌集からといった具合で、時代の行き来がはげしすぎて、まあ節操の無いこと夥しい。

いや、それだけ遥かなる時空を行き来しているにもかかわらず、人の見る景色、そこでの感興の在りようが、今も昔もあまり変わってない、そのことのほうが驚きだ。

帰宅して夕食を摂りつつテレビをつけたら、日本映画専門チャンネルで、身に覚えのある…もとい、ある気掛かり…もとい、何となく記憶にある、いくつかのショットが眼の前を通り過ぎた。

うわ…「台風クラブ」だ、と思った。これは、このまま観てたら死んでしまうというか、明日の朝に支障が出るので、ひとまず少しだけ見てやめようと思う。

しかしその場面は、この後どうなり、次にこの場面へと、我ながら、いまだによくおぼえているのだった。はじめて観たのは中学生のときで、映画監督の名も知らず、出演者に興味があるわけでもなく、今思えば、なぜこれを観にひとりで映画館へ行ったのか謎だが、ただ何となく、わけのわからない異様さのようなものを期待したというか、手っ取り早く言えば、勘で観に行ったのだ。そしてそれは、それなりの満足というか、それなりの異物感、歪感をともなって、自分の身の内に、今も残ってはいるのだと思う。

欲望に対する戸惑いとまさぐり、友人同士での愛撫など、思春期をむかえた女性(女子も少女も言葉としてぴったりこない)の、自分の外から突然やってくる「性」に、なすすべなく翻弄される有様が、誤魔化すことなく正面から果敢に捉えられていて、そうか、そうだったのかと、ある感慨をもった。

それはまだ性別さえ未分化にさえ見える彼女らの、痛ましいほどに剥き出しな身体によって表現されていて、それは性的というより、異族による呪術的な儀式を見ているようなヤバさを感じさせるのだ。

それに較べて男子たち、いやほとんどタバコをくわえた幼児にしか見えない彼らの、何というあどけなさ、子供っぽさか。そのくせ理科室での授業中、女子の背中にいきなり薬品を浴びせかける、この如何にもな唐突さと、被害者女子の凄まじい悲鳴(その声がひっくり返っていて、まるでひとり、のたうちながら爆笑しているようにも聴こえる)。

こうして誰もが、少しずつ波長を乱し始めて、それは気圧や気温や空模様の異変が原因であるわけではないにしても、まるで天候の異変を彼ら彼女らが自分自身で表現しているかのようにも感じられ、いずれにせよ教室の真ん中に突っ立った三浦友和が生徒らに問う。お前ら、なんか変だぞ、どうして、こうなっちゃうんだ?…と。

そこまで見て、テレビを消した。

再生装置のボリュームを上げれば音が大きくなり、アクセルをより踏み見込めば、自動車のスピードが上がる。

マニュアル車であれば、アクセルとブレーキのほかにクラッチがある。クラッチが切れているなら、アクセルを踏み込んでもスピードが上がるどころか、その車は駆動力を失う。

再生装置には、なぜクラッチがないのか。ボリュームを上げれば音が大きくなる、その中間に、何かもうひとつ噛ませるべきではないか。

馬鹿なことを言ってるのはわかっている。とにかく音自体は鳴り続けるとせよ。エンジンが回転を続けるように。

音を再生/停止する、のではなく、再生し続けている音に、クラッチを使って近づきたい。ゆっくりとクラッチをつなぐことで、じょじょにサウンド再生が始まる。このつなぐ行為そのものが、聴くということだ。

リスナーも演奏に加わるとか、それで音楽が完成するとか、そういう話ではない。単に「聴く」という行為が、そのような仕組みによるものであったなら、というだけのことだ。

音楽を聴くというより、音楽を得るために、最低限必要な取り組みということだ。自動車運転が、内燃機関がもたらす駆動力への、ドライバーなりのアプローチであるように。(音楽再生も自動車の運転も、いまはオートマティックに過ぎるのだ。)

小さな雑居ビルの一室で仕事をしていて、ちょっと休憩で外へ出る。ビルを出るといきなりおもて通りになる、取引先の巨大ビルの大げさに豪華なロビーじゃなくて、ビルの外はすぐに人の歩く道、という感じがいい。

道路の向こう側を渡るにも、人通りは多いし信号は遠いし時間掛かるから歩道橋しかない。古びて幅の狭い、何となく不安にさせるような歩道橋の階段を昇って橋の中間くらいまで来ると、足下の薄い床板が上下にふわふわ跳ねるのがわかる。下は自動車がひっきりなしに行き来していて、もし落ちたら即死だろうが、この橋の上は人の喧騒から少しだけ遠ざかることの出来る場所でもある。子供が公園の遊具で、高いところにじっとしていたいようなものだ。

神田川って、秋葉原のあたりはまるで下水溝みたいだけど、浅草橋のあたりまで来ると墨田川に合流する手前で、ぐっと川らしくなって、屋形船の発着場も見かける。歩くほど川の存在感が強くなる。昔はこのあたりが、東京の中心部だっただろう。すくなくとも戦前までは。