DVDで森田芳光家族ゲーム」(1983年)を観る。きわめて演劇的に図式的に、虚構性を隠さない視点をもって、当時の世間一般に流通する家庭のイメージを示し、そこに異物的な家庭教師を放り込んで、生じる出来事を作品とする。その方法が見事に上手くハマったという映画なのだと思う。

そして今や、過去視点でしか観ることのできない映画だとも思う。当時の社会で共有されていた、たとえば金属バット両親殺害事件がもたらしたものが、この作品の基底には気分として流れているのだし、それを知った上で観ざるを得ないし(金属バットという言葉が父親の口から発される)、逆に今これを観て、ノスタルジー抜きで、当時と同じ何かを感じ取ることは難しい。今このように「家庭」をテーマ(問題)にするのは、もはや不可能だろう。

しかし松田優作はやはり松田優作なのだった。いつもの松田優作なのだけど、この演技だけで映画が持ってしまうのだからすごい。松田優作に指導される中三男子は宮川一朗太だが、この適度に感情を抑えた、素直なのか斜に構えてるのかわからないような態度も作品世界にハマっていて、伊丹十三由紀さおりの両親も含め、出てくるみんなが集団催眠的に共犯関係ですよという空気を醸し出す。

伊丹十三の悪いところが出てる映画でもあるなと思う。父親を演じる伊丹十三…って感じが、激しく匂う。家族全員横並びの食卓アイデアはともかく、食べ物をぐしゃぐしゃ弄ぶとか、クローズアップした料理を口で直接舐めたりとか、ああいう振る舞いや演出は如何にも伊丹十三的な感じだ(伊丹十三のテイストが演出に入ってるかは知らないが)。

志望校を変更をさせたくない中学担任教師の態度の悪さはやけに印象的だった。今ならすごく問題になりそう。

ロケ地は豊洲とか勝どきあたりらしい。四十年前は、こんなだったのだなとも思うし、ここに撮影された景色は、今やもう無いだろうけど、だからと言って別に、まあ今も昔も一緒か、とも思う。でも、こういう映画が作られることは、今後もはや考えにくいだろうなとも思う。

Blu-ray北野武「3-4×10月」(1990年)を観る。じつは、はじめて観たと思ったが、たぶんそんなことない。ところどころ記憶に残存している。ずいぶん昔だろうけど一度観ているようだ。

カタギの世界を生きるとは、暇を持て余して部室にたむろする高校生のような時間を日々過ごすということだろうか。ふいに一緒に旅行する恋人のような相手が出来たり、先輩に怒られたりからかわれたり庇われたり、良く知らないやつが誰かと揉めてるところを通り過ぎたり、弱い奴が強い奴に殴りかかって逆にぼこぼこにされたり、そんな感じの毎日が、今この生活だと言って良いだろうか。そうは思えない気もするけど、そうかもしれないし、そうであればいいとも思う。

組織に属するのは、それなりに大変なことで、強い仲間意識とか、厳しい上下関係とか、仲間を守るとか、かたきを討つとか、そういった要素で自分を鼓舞して、共感したり感動したりして、掟にしたがうことの価値を確かめる。それはそれで、楽しくなくはない、そうやって、生きがいとかやりがいとかを、掘り越してやっているのだとも言える。

元ヤクザの井口薫仁は、カタギの今と昔の、どちらをも行き来可能、と本人は思っていたのだろうけど、それは読みが甘かったようで、昔の子分らとのやり取りの末に、大けがをする羽目になる。井口はともかく、ただの若者である小野昌彦や飯塚実にとって、ヤクザの世界など計り知れないものだ。しかし暇を持て余して部室にたむろする高校生のようでもある彼らは、先輩の仇は討たねばならないと感じるから、ひとまず「任侠」のセオリーにしたがうかのようにして、銃火器の入手を試みるべく、沖縄のヤクザの元を訪ねることになる。

本作のビートたけしが演じるヤクザは、沖縄という場も含めて「ソナチネ」のプロトタイプでもあるだろうけど「ソナチネ」よりはやや幼稚で子供じみている。渡嘉敷の指を無理やり切断し、女の頭を百回くらい叩き、足蹴にして、女にゴムボールを百回くらい投げつけ、悪ふざけのような、八つ当たりのような、まさに幼児のように己の行為の許容されるのを見ている。

それは死ぬ前の悪あがき、自暴自棄の一種かもしれないが、そうではなくて彼は彼なりの考えがあるのかもしれない(俺は俺でいろいろ考えてるんだよ、とふざけて笑いながら渡嘉敷を相手に同性愛的愛撫に浸る)。とはいえ、彼の内面や行動の理由を探りたくはならないし、それを匂わせる何かが、画面内のどこかにあるわけでもない。彼は彼であり、許すも許さぬもなく、行為だけがある。そのような人物を傍らで見ていることしかできない。それは表情に怒りや決意などの感情をいっさいあらわさず、ゆえに彼の内面動機や思いを読み取ることができない主演の小野昌彦のとらえ方も同様である。

だから「任侠」にはならず、仇討ちや復讐の枠にもあてはまらず、何もかもが夢のように過ぎ去っていくところが、この映画は、やはり部室の高校生のうたた寝で見た夢のようでもあるのだ。目が覚めると、凄惨で衝撃的な出来事はすでに硝煙とともに消え失せていて、残ったのはトイレを出て草野球のグラウンドへ駆け戻っていく時間の一瞬、あるいは沖縄の砂浜に過ごしていた時間の一瞬、もしくはアイスキャンデーを口にした一瞬、もうそれだけしか覚えてなかったみたいだ。

人身事故で、走行中の電車が突然一時運転見合わせとか、徐行運転になるとかで、帰宅通勤の途中、もう夜遅くだというのに、到着時間が大幅に遅れることはたまにある。

そうなったとき、電車の乗客のうち誰かは、予期せぬ事態に苛立ち、焦り、ため息をつき、ずるずると延びる帰宅予定時間を思い、こうなった身の不運を嘆きもする。その一方で、とくに不平も不満もなく、平常心の人もいる。このあとの予定のあるなしや、心もちの余裕や、もともとの性格にもよる。

苛立ち、焦る乗客の誰かは、人身事故という言葉の向こう側にいるはずの、被害者とされるこの事態を引き起こした誰かを、想像で思い描きもする。もちろんそんなことを一切思い浮かべない人もいる。

たとえば「バタフライ効果」という言葉における蝶の羽ばたきと、人身事故の被害者を引き比べたとき、その「効果」のなんという違いかと思う。「人身事故効果」は、我々電車の乗客と、人身事故の被害者とを、あまりにも迅速に、何の留保もなく直結し過ぎだと思う。蝶の羽ばたきが、いきなり私の頬に風を送ることはないはずなのに、人身事故の被害者はまるで、いきなり私の帰宅を遅らせるがために、その身体に傷を受けたかのようではないか。もちろんそれは、間違いのはずだ。あなたと私が、それほどまでに直結しているわけではないはずだ。

良い作品になりつつあるという感触を強く感じながら制作している、そんな夢を見ていた。

切り刻まれ、折り重ねられた紙片が、所々剥離しながらも、支持体の上に貼りつきインパクトのあるテクスチャーで迫ってくる。非常に好ましい混沌の度合い、未整理ながら豊かな奥行きが生まれつつあり、このまま良い波に乗っていける確かな予感を得ている。

まるで相手の玉を詰める手筋まで読めた将棋盤のように、目の前のイメージがすでに魅惑的なので、胸の高鳴りをおぼえる。肝心な局面ではあるのだが、そのプレッシャーに呑まれるのが自分の悪い癖というか、しっかりと腹を括れてないのが自分の弱さであるのもよくわかっている。

自分ひとりの手柄に、強欲すぎるのだと思う。いちばん大事なのは技術でもなければセンスでもなく、人としてのマトモさと、落ち着きと、他人を慮れるだけの心の余裕だ。

ゆとりは大事、経済的にも精神的にも。それを思いながら画面を凝視している。手前に布団が敷いてあって、ひとまず横になろうかと思うが、さっきから気管支炎のように喉の奥で響くものがあり、やけに息苦しくて、このまま横になっても眠れそうにない。

山拓央のNote(https://note.com/aoymtko/n/n0a0018098591)「死者の時間と他者の時間」を読み、ある小説を読み終えて感無量…みたいな気持になる。結末にたどりつくまでの流れが、うつくしいのだと思う。

同時に、死がいつか無へ移行することの厳粛をも思う。死ですらまだ人間の側にあり、無の手前で「まだ生きている」とまで言ったら言い過ぎだろうけど、たとえば自分が、妻よりも長く生きるというのは、それだけ妻を無へ、出来るだけ近づけないということでもあるだろう。

たとえば幽霊という題材は、死から無への移行間で生じるトラブルとその対処をめぐるフィクションとも言えるのかもしれない。

それにしても、生とは今この時間のことだが、端的にこれはなぜ、肉体の痛みを感じ取るためだけに与えらえた時間ではないのか?などとカフカ風に問いたくもなる。

荒木経惟が撮影した上野駅前の写真。不忍口を出てすぐの上野松竹デパートだが、見ると思わず目をむくというか、ぎょっとさせられる。かの有名な東京の上野駅前であるとは信じがたい景観であり、しかし同時に、あ、なつかしい、昔はたしかにこうだったわ、という思いも同時に浮かび上がってくる。

あのあたりに成人映画の看板がひしめいていたのは、僕の記憶が確かならば、僕が大学生の90年代初頭あたりまではこんな感じだったように思うのだが…。その後いつの間にか、ポルノではなく一般映画の看板が並ぶようになった。しかし街頭に掲げられたポルノ映画のポスターや看板というもの自体、あの頃はどの街でも見かけたもので、当時は珍しくもなんともなかった。それだけ成人映画館も多くて、知らない街をはじめて訪れると、たいてい駅周辺のどこかにはあった気がする。

それにしてもこのような景色を実際に通り過ぎつつ、自分がそういう時代を生きてきたという事実にいまさら驚かされる。まさか、こんなだっけ、こんな非常識な景色を横目にかつては歩いていたのだっけ、と思って、自分が何時代の人間かを一瞬見失いそうになる。

https://imaonline.jp/imapedia/nobuyoshi-araki/

U-NEXTで、ジャック・ドワイヨン「少年とピストル」(1990年)を観る。きびきびとした話の運び方が素晴らしい。説明なしに、出来事だけでぐいぐいと進んでいく。主人公の不良少年がいて、ふだんから少年を気にかけている…というか素行を監視してる刑事がいる。刑事はおそらくいつものように、少年に話しかける。なぜ昼間からこんな場所をうろついてるのか、学校へ行かないのか、少年は適当な嘘でごまかす。じつは店舗に押し入り拳銃で脅して500フランを奪ったばかりだ。この金をもってはじめて存在を知った姉に会いに行こうとしている。ここで刑事に捕まるわけにはいかないから、再び銃を取り出して車中の刑事を脅す。目的を告げ、姉のところまで運転を命じる。刑事はやむなくそれに従う。こうして二人の移動がはじまる。移動は途中から、姉も加わった三人体制となる。

これは、いったいどうなってしまうのか…という思いに駆られて、画面を見続けるだけみたいなことになる。少年の思いとか、浅はかさとか、理不尽さとか、刑事の詰めの甘さとか、お人よしで優しいところとか、組織人としての凡庸さとか、いやでも保護者的な立場を担ってしまう感じとか、姉の激情型な性格とか、思い込みの激しさとか、相手の弱みややさしさにつけこもうとする目敏さとか、やけに理知的というか言葉で物事や他人の考えを的確に示す論理的なところとか、でもどこか純朴にも見えるところとか、そういった各要素が複雑に絡み合って、この虚構であるはずのやり取りを、冷静な距離を置いた視点で見ることができなくなり、観る者であると同時に、場の当事者の一人として状況へ関わるしかなくなっていく。

たとえば「北野映画」において、拳銃が相手に突き付けられている以上、相手は身動きも抵抗もできないし、ほとんど死んだも同然だ(その弾が本人に当たらず他の誰かを絶命させることもあるが、それはそれだ)。

しかし本作で少年、あるいは少年の姉は、必ずしも始終刑事に拳銃を突き付けているわけではない。拳銃は中盤から車のバックシートの奥に、ほとんど忘れ去られたかのように放り出されたままだったりもする。かと思うとこの刑事もどこまでも迂闊な人なので、ひょいと所持拳銃を姉に奪われてしまったりもする。

この映画の世界では、拳銃の効果や銃に可能になるはずの制約力が驚くほど弱くて、たぶんそういう強迫的なものではない理由で物事は進んでいく。突き付けられた拳銃というところから始まったはずの物事を進めていく要因が、一見目立たぬように、しかし目まぐるしく変換されていき、二者あるいは三者の約束が、果たされたり破られたりして、それによって関係そのものがうごめくような変容を見せる。だからこそ非常にもやもやするし、ときには何かもっと良い成り行きもあるはずでは?とイライラしたりもする。しかし、こうでしかなかった、それ以外はありえなかったのだという納得もある。この忸怩たる感じは、どこまでも決定論的な「北野映画」にはありえないものだ。途中、姉はあろうことか二人を待たせ一人海水浴するのだが、この水浴も「北野映画」には、ありそうなようで、ありえないものだと思う(どちらの方が良いとか悪いとかの話ではなく)。