リニューアルした神保町の三省堂書店にはじめて行った。適当に書棚を見ていて、岩波文庫で復刊したいくつかの本から小川環樹「唐詩概説」というのを、なんとなく買ってみた。
モーツァルトやバッハが、宮廷に仕える音楽家だったのと同じく、唐時代の有名詩人たちは、官界に仕えていた。時の権力者が、その詩を読み、楽しみ、さらなる発展を望んだから、唐詩の可能性は大きく花開いたとされる。
民族にとっての詩とは何か。唐の人々にとって、かつての漢の時代あるいは秦の時代、あるいは南北朝の争いは、一世代を越えた遠い過去から引き継がれてきた、無数の人々による記憶の束で、それは歴史の成分であり、さらに詩という形式を呼び起し、詩は詩の役割を担う。
散文と韻文は、それぞれの役割をもつ。ただどちらも記憶の束を収納する器であるのは共通だ。詩の作者が過去を思い起こすとき、あらわれるのは彼個人だけでなく彼を含めた「我々の過去」である。ここにはじまって民族も国家もようやく根拠をもつ。
いまから千年以上も前に、すでに国家の興亡があり、戦争があり、家族と別れがあり、季節が巡っていた。そのようなことのいっさいが、詩のモチーフだった、というより人間の生きる時間にそういった枠組みが建て付けられたと同時に、はじめて詩も生じた、ということで、パレスチナの詩人が言ったのも、そのような意味においてだろうか。
ともあれ、まだ序盤ではあるけれど、掲載の詩を読む。まずは漢字から推測し、それをたしかめようとして下の訓読文を読む。俳句もそうだが、唐詩もほぼ絵、あるいは配置である。意味や解釈はむしろ余計で、それ以前で言葉の喚起するものを、ひたすら無言で味わい、慈しむべきに思われ、これらはそれを引き起こす仕組みとして千年以上を経過した今も、こうして残されている。
しかしこれを味わい慈しむというとき、それはかつて誰かが、これを読んで感じ取ったことと同じなのか違うのか、そこはわからない。「我々」の根底にも「絵」はあるのか、過去とはつまり、景色ということか。ぼくにとってこれは、ぼくのなつかしさと言えるのだろうか。