ゲイ

自分の身体を、常に意識せずにはいられないのがゲイで、僕はゲイではないが、しかしその感覚はとても重要なものに感じる。というか、自分が自分の身体につつまれている存在であることを常に意識しないではいられないという意味に限定すれば僕はゲイであるかもしれない。「ノンケ」はそのような感覚をもたない。自分の身体を抽象的なものとしか捉えてないし、ゆえに欲望の先にある肉体をもなかば幻想的なものとして認識する。「ノンケ」は他者を、他者とその肉体との混合物であると捉えることがない。「ノンケ」にとっては自分も他者も大体おおざっぱなイメージでしかない。そのおおざっぱさに向けて本気の全力をあげて突き進み、機械の精巧さと速度をもって移動し、やがて秩序を支える諸力に加わる。その呑気さと悠長さとガサツさと大らかさ、速度と暴力の美。…いや、僕は「ノンケ」のくせに、そんなことを言うのは欺瞞ではないか。僕が何をわかるのか。僕はなんでもわかるのか。そんな筈あるまい。僕はゲイの気持ちもわかるが、僕はおそらくホモフォビアの気持ちもわかる、と言うのか。ホモフォビアが何を恐れ、何に苛立ち、何に激怒し、何に自身のもっとも触れられたくない個所を直に触られたと思い背筋を凍らせるのかがわかる。自分自身としてわかる。また、自分とは違う彼らの弱点を嘲笑したい気持ちにもなろうと思えばなれる。しかしそれは畢竟、自分が何もわかってないということでもある。「ノンケ」というのは、非・当事者ということでもあるだろう。わからないしわかる必要がない立場ということでもあるだろう。それはある意味、幸福なことでもあるだろう。しかしそんな幸福が存在するなんて想像もできない、そんな幸福にあこがれ、魅了されつつ、当事者として別の地平を行く一部の人がいる。彼らもまたゲイではあるだろう。

デッドライン

千葉雅也「デッドライン」を読む。面白かった。この主人公はゲイで、僕はゲイ的な感覚をこれほどはっきりと自らの感覚のように感じ取ったのははじめてのことだ。自分にとってとても重要なことが書かれていると思った。以下にいくつか引用する。

渋谷センター街から横道を入って、井の頭通りのちとせ会館の前に出る。その上にある日焼けサロンに行く。ロッカールームにうようよいる冬でも真っ黒な男たちを見て、なんでこんなイケメンが女と付き合うんだろうと不思議な気持ちになる。こんなイケメンならイケメン同士で付き合えるだろうに。ゲイは数が少ないのだという実感がなかった。街で見かける男のほとんどがノンケだなんて、嘘みたいに感じる。この無数の男たちが女しか好きにならないなんて、僕を騙すための壮大なドッキリなんじゃないかと思う。
 金髪と黒い肌のコントラストが鮮やかな、小柄な男がいる。付きすぎていない筋肉の起伏が、上等な木を使った家具のように美しい。こんなにかわいいのに、つっぱって、男らしく、女を引っぱっていこうとするに違いない。もったいない。バカじゃないのか。抱かれればいいのに。いい男に。

荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ。すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。僕はそういう連中の手前に立っていて、いや、その手前で勃っていて、あの速度で抱かれたいのだ。批判されてしかるべき粗暴な男たちを愚かにも愛してしまう女のように。
 僕は女性になることをすでに遂げている気がする。物理的にメスになるのではなく、潜在的なプロセスとしての女性になること。僕の場合、潜在的に女性になっていて、動物的男性に愛されたいのだが、だがまた、僕自身がその動物的男性になりたい、という欲望がある……

そしてこれも卒業間近だった。〇〇君って好きな人いるの、と女子のグループに聞かれた。その中には好きだった女子もいた。後に同窓会の常連になる由美ちゃんもいた。僕は、結婚するなら由美ちゃんみたいなしっかりした人がいいかもね、と答えた。じゃあ、本当に好きな人は?と聞かれた。そう聞いたのは由美ちゃんだったかもしれない。息が詰まった。いま言わなければもうチャンスはないと思った。だがどう言えばいいのか。僕はあの子の方を見た。そして、
「君だとしたら?」
と言った。
ええ?とはにかんだ。返事はなかった。
だとしたら、というのは、もちろんぼかして言ったのだった。でも、それだけでなく、彼女への欲望自体が「だとしたら」の仮のものだった---としたら、どうだろうか。
 男と女が、越えられない距離を挟んで相手を対象として愛する。それが普通なのだった。その中で強いられて答えた「君だとしたら」から、強いられた男女の距離を削除し、男と女が互いに「なる」ような近さへと入るならば、その台詞の本来の意味は、
 「君が僕だとしたら?」
であるはずだ。

その子に対して性欲があった。
 当時、自分が性器に挿入するというイメージが不明瞭だった。顔、乳房、尻、脚---各部に魅力があったが、性器はよくわからない。ある日こっそり買ったエロ本の写真で、水に濡らしたパンツに毛の生えた女性器が透けているのを見た。親類以外の女性器を見た記憶はそれが最初かもしれない。ぎょっとした。気持ち悪かった。だが、この気持ち悪さがエロさなのだ、とも思った。それで自慰もした。
 彼女への欲望は、彼女をどうしたいということだったのだろう。抱く、というより、その身体に行く、その身体という場にイク、ある距離が間にあって、彼女「に対して(傍点)」射精するのではない。たとえ挿入するのだとしても、変な言い方だが、「挿入側(傍点)」として挿入するのではない。「挿入側として」という分離なしで、彼女の身体への一致として挿入する、のかもしれない。それは、言い換えれば「彼女になる」ことではないだろうか。彼女になって、彼女自身が自らに挿入してイクような状態ではないだろうか。

 

めぞん一刻

高橋留美子めぞん一刻」全15冊をヤフオクで落札して久々に再読。我ながらマンガ読むスピードがじつに遅くてまだ二巻の途中。

僕がこれをはじめて読んだのはいつだったのか?たぶんリアルタイムではなくて、高校生(80年代後半)あたりで読んだのではないか。
二巻の途中、大学に合格した五代が、アルバイトで自転車の荷台に大きな氷を乗せて配達するシーンが出てくる。八十年代前半ってそんな、町の中を氷屋さんが走ってるような時代だったのか…。

そもそも一刻館という住環境が、日本の戦後の長屋時代から延々続いてきた庶民の集合住宅の幻影という感じだが、それでも住民や周辺の人々が醸し出している雰囲気はすでに家父長制以降というか核家族世代以降の感もあり、時代的な古めかしさをあまり感じない。いや男女の恋愛観は古風だし昔っぽいのだけど、それだけではない。おそらくこのチグハグさは狙ったものではなくて、現実の80年代初頭が、本当にこんな感じと言えばこんな感じだったのかも…という気がする。

八十年代なら、世界のすべてが八十年代的なものになるわけでは当然なくてそれ以前のものと混在する。新しいものと古いものが混在するのはいつの時代もそうだろうが、たとえばここ十年での直近の新しさと古さを思い浮かべてみても大して変わらないように感じるというか、全体的にのっぺりしている感じに思うのは、それを考えている今ここが、今だからに過ぎないのか。

80年代初頭における新しさと古さの混在は、古さの方がより一層濃くて新しさを簡単に喰ってしまいそうな力があったように思われるのだが、だからこそ新しさの光り方もひときわ強烈だった気もする。つまり上手く混ざり合ってなくて、その落差が今よりぜんぜん鮮明だったような気がする。それこそが時代っぽさなのかもしれないが、年月が経てば経つほど、全体の印象が淡く消えていって、落差の濃い線くらいしか判別できなくなってくるからそう思うのかもしれない。

坂田一男 捲土重来

東京ステーションギャラリーで「坂田一男 捲土重来」展を観る、本展監修者は岡﨑乾二郎。坂田一男(1889~1956)という画家を、僕ははじめて知った。しかしかなり昔に画家の出身地である岡山県岡山市立美術館にも行った際、常設展示などで観ている可能性が高いけど、その名前に今までおぼえがなかった。作品としては、どこかで観たことあるかも…といった印象で、単体で観たときにやはりどうしても日本のキュビズムに特有の地味さというか、重たくて野暮ったいイメージを感じなくはないのだだが、その画業全体が包括されたような今回の展示を観て、その作品展開にともなう緊張と迫力にはかなり魅了された。やはり一作家の回顧的な展示として観ると面白いし、時系列・制作順の展示がされたときにはじめて見えるものも絵画にはあると思うのだが、ただし坂田一男はそのリニアな時間の流れに作品を位置づけることへの否定(無関心?躊躇?)といった側面もあると、会場内の解説にあった。本展覧会はこの各部屋に掲げられた解説文がじつに面白くて、ふだんの展覧会だとほとんど読まずに素通りするけど今回は作品と共にそれらの解説をも丹念に読み込むことになった。

台風による冠水によって、自身のアトリエが浸水し多数の作品が破損し失われたというエピソードが紹介されていて、画布から絵の具が甚だしく剥落した作品が展示されているのだが、これは冠水後、作家本人が出来る限り修繕した結果らしく、しかもその出来事以降、次作においてわざわざ絵肌の一部へ同じような絵肌の剥落を生じさせ、それも絵の一部と為す、まるで事後的アクシデントの時間を逆行して、あらかじめ作品内に含みこませようとするかのような試みが見られる。

そもそも、坂田一男の作品には年号の表記されたものが少なく、よって制作年を特定するのが難しい作品が多い。また時代が大きく異なるエスキースが同一の紙の裏表に共存していたりと、とにかく作品を時系列的なアーカイブ内にきれいに収まるようなものにしたくない(興味がない)という感じがある。

渡仏中はレジェに師事したとあり、初期の作風は如何にも(1910年代までとは違うある種の洗練と様式化をともなった)「後期キュビズム」といった感があるが、やがてコンポジションに対する独自の考え方と試行が生じ、いくつかの特長的モチーフがあらわれ、坂田一男的スタイルとでも言いたい何かがあらわれてくる。じつは観始めた最初の段階で、これはけっこう難しい絵だ、チューニングが合わせ辛い、いまいち入っていけないかも…などと感じていたのだが、二室目が始まってからの、いくつかの作品に共通する導線的運動を見い出したあたりから作品が見えるようになって、後はひたすらどの絵も面白くなった。

キャンバスの上から下へ、ストンと縦線を入れてしまうことで、絵画はある空間を確保するのだが、同時にその空間以外を閉め出してしまう。絵画にとって線は、ことに上下を刺し貫く線は、それだけでゲームオーバーな最後の行為とも言える。浮遊していたはずのあらゆる可能性が消えて、静止空間が出現する。但しまたここから、異なる出来事を重ねていこうとする試みが絵画だ。異なる相に属するもう一つ別の線を引くことだ。本来共存しないはずの何かが重ね合わされる、その可能性を確実性に変換するのが制作である。

また別の解説においては、その画業が国内外における同時代や後世の画家たち、たとえば坂本繁二郎、山下菊二、モランディ、ド・スタール、ディーベンコーン、ジャスパー・ジョーンズらの仕事の問題意識としっかりと響き合っていることを、それら作家たちの作品展示と共に指摘している。これは日本の中央画壇から終生離れて活動した地方画家が、国内外の美術や文化の動向を情報として入手できた/できないとか、勉強の有無とかそんな話ではなくて、画家が絵画について突き詰めて考えることを徹底すると、国や環境や諸条件を越えて、異なるはずの作品が否応なく同じ要素を共有してしまうことを示しているだろう。いわば互いが互いを知ることなく、結果的に並走状態になるような事態を示しているだろう。

会場規模の割に作品展示数は多く、それはタブローに比してエスキース・素描の展示数に割合が多く割かれているからだと思うが、制作年不明の作品も多いため、全体の印象にすっきりとした感はなくむしろ混沌というか大量の筆致的なざわめきというか解決に至ることのない蠢きのような残像が強く印象に残る。最後まで観ると相当な疲労感だけど、画家としての強靭さ、継続の機関車のようなパワーにはうたれるものがある。解説にあったが、坂田一男が戦前から戦後にかけて、戦争という圧倒的な暴力的破壊に止まることなく、ゆるぎなく仕事を継続できたのは、戦争のもたらす空前絶後の暴力性、そのカタストロフが、もともと絵画を思考する変遷過程に、既に含まれているからではないか、その中心で模索するということが、絵画を思考するということであり、それはかくも力強いものなのだと。この世を生きるうえで抽象やら思想やら哲学やらが、いったい何の役に立つのか、そんな愚問に耳を貸す必要はない、ただ考え抜くこと、それを続けること、たとえ殺されても止まらないことだけをもって答えとすれば良いのだ。会場に並ぶこれらの仕事がその証としての、時代や人間の時間的有限性を越えたまさに"抽象の力"そのものの現前と言えるのではないだろうか。

To-y

上條淳士To-y」全十冊をヤフオクで落札して久々に再読。我ながらマンガ読むスピードがじつに遅くてまだ二巻の途中。

かつて(中学生時代)夢中で読んで以来の再通読だが、思ったよりも来ないというか、さすがにこれはちょっと…と思うところも少なくなくて、わりとすぐに飽きてしまうところもある。まあ、物語はほぼ紋切り型の連続というか、主人公があふれる音楽的才能で頭角をあらわしつつ本当の自分を見出す的な王道の展開で、歌舞伎の見栄っぽく所々でキメるためにおおざっぱな流れが作られているみたいな感じだ。とはいえやはり傑作だと思う個所も多くて、その魅力は度々挿入されるギャグだとか、時代っぽさとか風景とか、または当時の風俗や人間関係やライフスタイルのイメージとかに濃厚だ。たぶん中学生の頃の自分も、そんな細部に惹かれたのだし今になって読んでもそうだ。八十年代的あこがれの一端がここにあるという感じだ。それは金融屋なんかが入ってる雑居ビルの壁に這うヒビとか薄暗い階段とか、その屋上の殺風景な一室が住居で室内にはベッドとオーディオシステムとソファと流し台だけがあるとか、街の埃っぽさとか、日比谷の野外音楽堂のコンクリートの質感だとか、ライブ名が"帝王切開"だったりするところとか、集まってくる人たちのダラッとしたヨレっとした服装だとか、そういう世界全体の雰囲気だ。そんな個々の描写と、イメージ的かっこよさと、物語の流れが、丹念に読んでいくとかなり巧妙に構成されているのがわかる。(すべて敏腕マネージャーの思惑通りにことが進んでいくわけではなく、結果的にはそうなるけど、それまではいろいろな人の様々な思いが交差している。)

パンクという音楽ジャンルは、日本においては1987年のザ・ブルーハーツデビューにおいて一挙にイメージが変わってしまったのだが、「To-y」連載開始時パンクのイメージはまだ「ブルーハーツ以前」だった。主人公の冬威がボーカルを務めるパンク・バンドはその時代の空気において想像されるべきで、逆立てた髪やリストバンドや革ジャンは今やパンクのステロタイプではなくて様々なジャンルに拡散してしまったが、当時はそれでパンク的アイテムとして通用していたところが面白い(もちろん当時から国内のパンクにも様々な地域性、流派性とファッションがあっただろうけど)。とはいえ中学生時の自分がパンクという言葉を受けて、その謎めいたジャンルに対して思い浮かべたのは、いわゆるオイ!パンク的というかハードコア的なやつで、まるで土方のお兄さんが削岩機で道を掘り起こしてるみたいな、狂ったような2ビートをひたすらやってるみたいなイメージだったので(そういう音楽を当時から聴いていたわけではなくてあくまでも何かで齧っただけの一面的なイメージ)、冬威はあんなハンサムでクールなルックスなのに、あんな高血圧の狂人みたいな歌でライブ会場をいっぱいにするんだから、それはさぞかしとてつもない歌手なんだろうと想像していたものだが、たぶんそれはそうじゃなくて、おそらく「To-y」やその周辺のライブ"帝王切開"出演バンドたちはもうちょっと耽美系というか、今でいうヴィジュアル系な人たちの走りだったのだろうか(たぶん"カイエ"のペニシリン・ショックは明らかにそんな感じ、冬威の"GASP"はパンクというよりもやはりスライダースっぽい感じか)。

修理

自室にあるCDプレイヤー二機種のうち、ひとつは読み取り不良、もうひとつは再生音不良で、ふだんは怠惰にApple Musicで聴いているばかりだが、スマホからアンプとスピーカーを通すと出力が小さくてつまらないので、在宅時はCDを再生したいのだが、このままでは再生できない。困った。困ってないで修理するなり新たに買うなり考えれば良いのだが、それが面倒くさい。たぶん修理するべきだが、業者に症状を説明するのが面倒くさい。見積を取るのが面倒くさい。機器を梱包して配送するのも面倒くさい。修理代金がそこそこ行ってしまったら嫌だし、もはや修理不可と言われるのも嫌だ。あー面倒だ、もういっそのことジャンク品としてヤフオクにでも出してしまおうかと思うが、ヤフオクに出品する手間を考えたらそれが一番面倒くさい。ああどうしよう、別にCDプレイヤーなんか無くても困らないけど、でもやっぱりCDプレイヤーから再生した方が、うちの環境では音が全然違って聴き応えがあるのだ。だから土日がくるたびに悩んでいる。平日はほぼ忘れている。そんな頻度だから今まで放置しておけるのだ。あきらかに身体の調子が悪いのに、病院に行くのを億劫がってるのと一緒だ。

素面

夜の十時を過ぎて、久々に一日ぎっしり仕事した感をおぼえつつ会社を出て秋葉原駅へ向かう。するとそれをわかっていたかのような絶妙のタイミングで、御徒町の方で飲んでるE氏から連絡がくる。もう遅いけど、まだ何も食べてないし、ちょっと寄ろうかな、と返信したら、え?来るんですか?こんな時間まで何してたんです?さてはすでにどこかで飲んで帰る途中ですね?と言うので、さっきまで仕事してたんです、と答えて、そういえば僕がそんな発言をするのははじめてかもしれないと思う。だいたい御徒町の店で先に飲んでるその人と会うときに、僕が素面の状態だったことが、もしかすると今まで一度もなかったかもしれない。ところで素面と書いて"しらふ"か。漢字だとどうも雰囲気おかしい。素面という字を"そうめん"と読みたくなるけど、まあいいのか。そんなことを考えながら御徒町から店を目指して歩き、そのうちに考えが何か別の方へ行ったのかなんだか忘れたけど、そのままふつうに、お店に到着してそれに気づかず素通りして歩き去ろうとして、たまたま店の前にいた店長に「あれ?ちょっと、ちょっと…」と、呼び止められて我に返った。わー!ひどい、僕、やばいな!いま、完全にボケーっとしてた。何の目的で歩いてるのか完全に忘れてた、声かけてくれて良かった、助かったわ!と慌てて応えたら、店長やや困惑気味に「いや…あれー?どこ行くのかな??って思って、もしかして俺、試されてる?って思って、どうしようかと思っちゃいましたよ…」と笑っている。なんだか普段の行動の方が、逆に酔っ払ってる人みたいなことになってしまったけど、こちらは今の時点でまだ素面なのだ。それにしても、なんか不自然だ。E氏も店長も、おそらくいつも通りに僕に向けて話かけるのだが、僕はまだ日中の続きにいる感じがあるのだ。だからこのシチュエーションがやけに唐突でどことなく手持無沙汰で、妙な違和感を僕はあなた方に感じている、声に出さず思っている。もっともじつは誰もが、互いにみんなそんなものか。