今が一番いい季節かもしれないと外を歩きながら思うことがある。暑さ寒さの丁度良さと、光と影のコントラストの丁度良さだ。いちばんの気候の良さ、それは快適には思われない気候のときに思い浮かべる、身体負荷のほとんどない柔らかで安らぐような季節のイメージで、それがイメージ通りになったのが今で、イメージと事実が一体となっているにもかかわらず、そのことを、それが当たり前のように平然として過ごしている、そもそもイメージと事実に食い違いがあったことを忘れている。その過去の記憶が消失して、今しかない。今しか持たないことのぜいたくさ、歴史的で線的な存在であることを他人事であると思える楽天性、その幸福に自分が気付いてない。そんな自分自身を上位視点からありがたいと感じているような。病気になってはじめて健康な身体の貴重さをかみしめる気持ちを、逆に健康なときから逆算して感じてみようとするような、まわりくどく手の込んだ味わい方で感じている、この今の季節としての今。

PC

自宅のノートPCが、かなり調子悪くなってきた。これが壊れてしまうと、かなりヤバい。公私共に困ったことになる。元々三年前にヤフオクで三万円で落とした中古品だが、三年で調子悪くなってしまうようでは、まさに安かろう悪かろうな買い物になってしまったとも言える。見えないところにいっぱい病気が仕込まれていたのが、三年間通じて次々と顕在化してきたみたいな印象がある。デスクトップ機なら中古でも堅牢で安定して十年くらいは平然と動いてくれるイメージだけど、ノートの中古はやっぱりリスク大きいのか。今会社で使ってるノートPCはとても使いやすくて、これと同機種を自分用に買おうかなと思って価格を調べてみたら、ぎょっとするほど高価格だった。今どきこんな値段を、PCごときに出せるかという感じだ。やっぱ安物でいいや。とにかく完全に壊れてしまう前にバックアップ機を入手しておきたいとは思う。でも億劫だ。金も出したくないし。セットアップもめんどくさいし。昔はPCを買うなんて、胸がワクワクするようなことだったのに、その期待感がこれほどまで地に落ちるなんて想像もしてなかったがなあ。

白ワイン煮

買い忘れはよくあることだが、冷蔵庫にあるのを忘れていて余計に買ってしまうということもよくある。買い忘れよりそっちの方が多いかもしれない。余計に買ってしまう食材がたとえばどんなものかと言えば、生姜、玉ねぎ、長ネギ、レモンなど、薬味として利用するものがほとんどを占める。こういうのは、もし無かったときのことを考えると、ほとんど食事が成り立たないくらい大きなダメージを生じるので、絶対に切らしてはいけないのだが、しかし過剰にストックしておくと、それほど日持ちしないから勿体ないことになりかねない。わりと運用の難しいところがあるのだ。先日などすっかり忘れてレモンを買ったら、それで冷蔵庫のなかに合計6個くらいのレモンが存在することになってしまった。レモンはそう長くはもたない。これはヤバい、食べ物を粗末にしてしまうかもしれないと思っていたら、今夜、妻が夕食で盛大に使用してくれて、ありがとう。

アン

NHKで海外ドラマ『アンという名の少女』を観た。2017年カナダ制作の実写版「赤毛のアン」で、全八回のうちの一回目。台詞とかエピソードとか、ほぼアニメ版「赤毛のアン」の印象から外れてない感じだった。

今回あらためて思ったのは、アンという少女は孤児院から来た子で、この少女もまた無数にいたであろう不幸な境遇の子供たちの中から、幸運にも助かって、自身の人生を自身の力で歩むことを許された一人だった、この物語もまた、そういう物語なのだなということだった。当時、孤児院出身の子供は、多くが派遣先家庭内において、おそらくきわめて厳しい条件下で労働を強制される境遇ではあっただろうし、その後も困難の多い人生を耐えて生きていくのが避けられなかっただろうからだ。

集団の中で、たまたま幸運だった、たまたま才能に恵まれていた、たまたま出会った誰かの慈悲にあずかることができた、もちろん本人の努力や苦難へのあらがいの力のおかげでもあっただろうけど、それでも人一人の力では到底どうしようもない幸運の、そういったことの積み重ねが、アンの物語を生み出しただろうし、物語という形式において、たとえば強制収容所からの生還も、戦場からの生還も、同様に可能になった。その下には、おびただしい数の無数無名の存在があった。それらの思い、無念、存在の事実を、きちんと拾い上げるための一つの手段が、物語だった。

困難な状況を生きのびる、主人公が自らの力で活路をひらいていく物語においては、一方でそれがかなわなかった者、力の足りなかった者たちの影が常に見え隠れしている。潜在下にいつも、そんな声なき者たち、消え去った死者たちがいる。それが前提となる。

枝豆の季節

昨日はアジ(やや身の締まった値段高めなやつ)、今日は小さめのチダイ(安物)を、包丁でさばいて三枚におろした。包丁は僕の場合、経験を積めば積むほど、下手になっていく気がして仕方なく、かなり失望する。ただ少なくともアジはまだマシだったので昨日は刺身で食したけれども、チダイは切り取られて小骨を取って皮をはがした結果が、このみずぼらしい肉片だけしか成果に残らないのかと思うと、我が身がなさけなくなるような思いである。魚の鮮度にも起因するのかもしれないが、やはりどう考えてもこれは技術力不足でしょうね。でも鯛は見た目が悪くても捨てるところは少ない。アラを取っておけば後日の楽しみが増えるというものだ。それにしても、この数か月でいったい何皿ぶんもの、なめろうを作ったことか…。

昨日スーパーで見た秋刀魚は二尾で九八〇円。さすがに手を出す気になれない。もう一軒の店で見たら、一尾三九〇円。まあこんなものか…と思って二尾買い、今年の初ものをいただく。ただよく考えてみると三九〇円なら最初の店よりは安いけど、秋刀魚としてはやはり尋常じゃない値段には違いない。ずっとこんな値段が続くようなら、今年はひとまずこれで食べ納めでもかまわないかもしれぬ。
ちなみにここ最近、我々夫婦の主食は、ほぼ茹でた枝豆に占められていると言っても過言ではないだろう。もちろん何の変哲もない、おもに食事のはじまりで飲むビールに合わせた突き出しというかアミューズとしての、まったく平凡に供される一品ではあるのだが、しかしそれがじつに美味い。今年の枝豆がとくに美味しいのか、最近の自分らが変わらぬそれを今年に限って美味しく感じているのか、よくわからないけどとにかく美味い。豆の香りと塩の効き目だけのシンプルなさっぱり感が、あらためてすばらしい。但し枝豆というのは当然ながら豆類であって意外に食べ応えがあるというか、スーパーで売ってる一袋を茹でて夫婦二人で食べるだけでそれなりに満腹感をもたらすほどのボリュームはあるので、それでその日の夕食計画がくるってしまうことが多く、つまり枝豆を食べてから、その他少しの前菜が片付くと、あらかじめ準備しておいたメインというか〆の料理を食べきることができない、そこに至ることなく夕食が終了してしまうケースが多い。だから結果的に最近の主食が枝豆になっているということなのだが、まあ要するに昔のようにたくさん食べられなくなってきたという話に過ぎないのだが…。

昔、赤塚不二夫の「天才バカボン」の登場人物として、枝豆中毒のヤクザが出てきた記憶があるのだが、気のせいだろうか。最初は怖い雰囲気で登場して交番のおまわりさんを震え上がらせるも、枝豆依存の弱点を見破られ、禁断症状に苦しみながらおまわりさんの取り調べに応じる姿を、子供の頃に親戚の家のコミック本で読んで以来、枝豆にひそむ危険性、あの中毒性にはやはりある種の依存性物質含有の可能性をうたがうべきであると、いまだに心のどこかで思い込んでいるのかもしれない。

それでも季節はそろそろ枝豆も終わり。夜になって窓を少しだけ開けておくと、かなり冷たい風が室内に入ってくる。ちょっと肌寒いくらいだが、閉めたりまた開けたり、適度に調整していると快適だった。涼しさから寒さへの移行もあっという間か。

日日不穏

なぜか突然思い出して、筒井康隆「日日不穏」の文庫を本棚に探したのだが見当たらず、家のどこにあるのかわからない。もしかしたら実家にあって、ここには無いのかもしれない。とりあえず図書館で閉架請求して借りた。一九八四年から一九八六年にかけて雑誌に連載された日記で、刊行は一九八七年。僕がはじめて読んだのは九〇年代初頭くらいか。超多忙をきわめる著者の日々を記録した日記でもあるが、著者宛に届く関係者や知人やファンや身内の私信文面内容がそのまま掲載されていたりもする。次から次へとやってくる仕事の話、芝居や映画の打合せ、パーティー準備、グリーン車、テレビ出演、文壇バー、ホテル、レストラン、買い物、忙しなく凄まじくも華麗な、人気作家の毎日。その折々に、いくつもの短編や連載中の作品名があらわれ、構想され、書き出され、逡巡され一時保留され、ふたたび執筆され、それら作品のどれもがよく知ってるタイトルなので、マジか、あれとこれとあれが、同時並行で書かれていたのか…などと、読んでるこちらは唖然とするばかりなものすごさだ。ちなみに著者は当時五十歳前後。「虚構船団」が話題で、「夢の木坂分岐点」連載中で、日記終盤あたりで「文学部唯野教授」の準備をはじめるくらいの時期。著者の弟が早すぎる死を迎えたことがきっかけで、この連載は終わる。その思いはあえて語らず、さらに多忙の只中を駆け去って行くような本書の終わり方が、はじめて読んだ当時とても印象的だった。その感じをもう一度確かめたくて、いま再読したくなったのかもしれない。

しかし、もちろん筒井康隆はあまたいる作家のなかでも突出した売上ポテンシャルを誇る一人ではあるだろうが、それにしてもさすがにこれは華やか過ぎるし動いてる金の桁が違い過ぎで、あらためてびっくりした。これが八十年代ということなのか。読者サービス精神旺盛なことに納税額とか初版部数とかの数字も具体的に書かれているのだが、もちろん僕はそういった業界についてまるで知らないけれども、それでもこれは、現在の文芸業界界隈ではちょっと想像もつかないようなきらびやかな状況ではないのか。それはバブルとかそういうことでもあるだろうけど、それだけでは説明がつかない。面白い作家が作品を一つ書くと、それを待ちかねている無数の人々がいて、おそろしくたくさんのリアクションやフィードバックがあって、それが波のうねりのように広がっていくことが当たり前の世界で、そうでなければ、これはありえないだろう。短編一つ、エッセイ一つの価値が、今とまるで違うというのか、書く人、載せる人、読む人、それぞれの対象への喰いつきが、激しく強いというのか、なにしろ読むという営みにおいて、昔と今では全然違うような世の中だったのではないか。今ならSNSの中で炎上したり拡散したりするのも、このくらいのエネルギーが動いてるものだろうか。でも今と昔では、基本活力がケタ違いというか、一々お金が動いているというか、お金の動きが太くてわかりやすいというか、基本的な売上額が、なにしろ今とは比較にならないくらい凄いのではないか。売上がでかいというのは、つまり人間の動きが活発ということなのだろう。

しかし「売れている」ことと「世間で話題になってる」ことが必ずしも一致してない状況がおとずれたのが、その後の九〇年代も後半に掛かってからだった気もする。たとえば一九九八年リリースの、宇多田ヒカルのデビューアルバムはものすごい売上枚数だったとされているけど、いったいこの世の中で誰が宇多田ヒカルを聴いているのか不思議に思うような、当時からそれが全然見えない感じがして、それが「国民的に大ヒット」しているというのが、いまいち実感が沸かないような印象があった。あのあたりから「売れている」からと言って「人間の動きが活発」になってるようには見えない、不透明感がより強くなったという感じはあった。

上手い言い方が見つからないが、だとしたらやはり「衰弱」したのかな…と思う。細分化したとか複雑化したということでもあるけど、それも含めてやはり、三十年以上かけてゆっくりと衰弱した。でもそれが望みだったという気分も、あるのだとは思う。これはこれで良かったのだ、こっちの方がよほどまともだと感じる向きも、少なくないだろう。いや、それは単に自分に金がないから、金のある状態について無知すぎる。というだけの事かもしれないが。金があるというのは、ある人にとっては当たり前のことで、それは今も昔も変わらないということに過ぎないのかもしれないが。昔は、お金のある/ないまで、個人の判断で選択可能な事象の一つであるくらいに思えた。金持ちと貧乏は、スタイルの違いだと本気で信じることも不可能ではなかった。そういう愚かな思い込みを維持できなくなってきたことこそが「衰弱」なのだろう。

下手

セザンヌは下手な画家であると、同時代の人々からは散々言われた。今でもそう言う人はいるだろうし、直接口にしないにしても内心でそう感じている人は、少なくないはずだ。

作品において、一見下手に見えるそのような在り方というのは、いつでもひとつの突破口を開くかもしれない、その可能性を秘めた仕掛けであり、常に油断ならない注意点でもある。作品において本来、上手い下手は作品に付随する問題ではなく、観る者固有の経験測に付随した印象の問題である。私にとってこれは下手に見える、それは卑近なたとえかもしれないけど、私にとってこの人は不美人に見える、という感じに近い気がする。これまでの自己内常識から外れていて、かつ自己内常識が世間常識と定期的に同期されているはずという自信みたいなものを揺るがすから、不安で不快になる。美人か不美人かを自分の好みの判断だけにとどめておきたいなら、それで誰にも文句を言われないけど、作品はまた別である。自分はニュートラルだと自分のことを信じているのだけど、意外にそうでもないし無意識に生真面目に世間常識との照らし合わせ確認を怠らなかったりして、そういう頑迷さこそを「あたらしいもの」は正確に突いてくるので、時と場合によってははたと困ったり迷ったりすることもあるわけだ。

わかったとわからないの区分けを考えても意味ないところもある。美味しくないものを美味しいと感じるようになることもあるけど、苦手なものはどうしても苦手だというところもある。わかるけど食えないという例もあるだろうし、わからないけど食べれば美味しいというのもある。心ゆくまで美味しく楽しめるけど、では事後的に言葉で説明しますよと言って、その言葉があきれるほど下手糞なこともある。この下手とセザンヌの下手はまるで別の話なのだが、それもこれも見分けがつかなくなるようだと話はさらにややこしくなる。