夜の雨

土曜日の夜だったか、寝るまでの時間、窓を開けたら風が入ってきて、レースのカーテンが大きく持ち上がり丸く膨らんで、すぐに吸い込まれて網戸にぴったりとへばりついた。部屋を風が、波のように行き来しているのだった。気温は肌に涼しく快適に感じられた。ただし空の向こうで時折ライトが点いたように光った。こんな真夜中に稲光かと思ったが、真夜中だろうが真昼だろうが稲光が光ることはある。雷の音はしなかった、もしくは聴こえなかった。数分に一度くらいの間隔で、稲光だけくりかえしていた。本の続きを読んでいて、ふと気づいたら足を三か所、蚊にやられていた。しまった、部屋に入ってきたのかと思って、棚の奥を探していると妻が起きてきた。蚊がいると言ったら、私も刺されたみたいと言う。見つけた蚊取り線香に、火をつけた。薄灰色の煙が、身をくねらせながらゆっくりとのぼり、久しぶりの香りが部屋に漂う。線香の皿を足元に置いて、読書に戻った。煙くて、少し離した場所に置き直した。煙の動きを行く末を、少しの間じっと見ていた。しかしこんな煙で、蚊が死ぬものだるろうかと、蚊がこれを吸って死に至るのだろうかと、いつも不思議に思う。いつの間にか稲光は止んでいる。このあと未明に、ふたたび雨になるらしい。風も勢いが衰えないまま、一帯が風雨にあらわれて、朝になればちょっとした台風明けの朝みたいな様相になるとまでは、その時点では予想できない。

ウズベキスタン・台北・イギリス

黒沢清「旅のおわり世界のはじまり」(2019年)をDVDで観る。ウズベキスタンでのオールロケ作品とは予想外で驚いた。主人公はスタッフとともに海外を取材中のテレビレポーターで、けっこう内向的で非社交的な感じ、周りのスタッフもわりと冷たくて他人に無関心で、明るさも楽しさもマスコミ的キャリア的華やかさも無くて、海外生活の孤独と不安を彼女一人で背負ってる感じ。ふと一人で思い立つようにバスを乗り継いで彼女はウズベキスタンの町を彷徨う。目的も意図もはっきりしないまま彷徨った先で、彼女は何かを見つけて、それが仕事のきっかけになったり、彼女の思いをある種のかたちに繋ぐきっかけになったりもするのだが、それが素敵で晴れやかな展開になるのではなくて、むしろ厄介事につながったりもして、後半で警察のお世話になるあたりの、ほとんど社会性欠落に近いような行動の成り行きとか、最後は日本にも色々災いが生じてそれに取り乱したりとか、色々と終始イマイチなのだが、そんなことで悩み苦しむ主人公の彼女の内側の問題とか妄想から歌唱シーンへ展開するとか、かなり前田敦子扮する主人公の個人性を尊重した作品になっていて、ウズベキスタンの風景は力強く魅力的だがそれはあくまでもそういう背景としてだけある感じだ。前田敦子という人は歌もそつなく上手に歌えてすごい。しかし僕もまさにそうだけど、外国語を話すことが出来ず、こころ塞いだままで外国に居ることの寄る辺なさ、つまらなさ、閉塞感、疑心暗鬼の被害妄想感が、この主人公は全開といった感じで、そういうとき日本語を解する通訳の男性の頼もしさは救いのようだし、警察官の大人が子供に諭すような説教の内容もしょんぼりとうなだれて聴き入るばかりだ。日本人は他国人から見たらとても子供っぽく見えるのだろうし、前田敦子もそう見えるだろう。でも最後はちょっと元気になって前向きになれました。

続いて昨日観た「慶州」と同じA PEOPLEの配信で、ホアン・シー「台北暮色」(2017年)を観る。これも去年以来の再見。集合住宅、高速道理の架線下、水溜まり…ほとんど足立区というか、いや足立区よりはメリハリの利いたきれいな近代的都市だし、おそらく商業活動も人口も多いと思うが、インフラというか人々を取り巻く空間の構造は、すくなくとも撮影された場所の感じは、やけに我が住まいの足立区や葛飾区に似ているように思った。三人の若者が出てくる、それぞれバラバラに、三人のうち二人はそれなりに同じ時間を共有するけど、さして何ということもない、ただの数日間のできごとというだけだ。「慶州」にしろ「台北」にしろ、その場を映画にすることに意味があるのだと、制作者側がつよく信じていることがたしかに感じられる。だから「慶州」にしろ「台北」にしろ、どちらも風景が主要登場人物の一人と言っても過言ではない。風景というよりも、制作者側が感じている「今これ」をあらわす、そのための試行だ。本作については、取り立てて驚くほど新たしい試みがなされているわけではないかもしれないが、このような映画を気に入らないでいるのは難しいと言いたいようなものになっているとも思う。それは今回の再見でも変わらない。

続いてDVDでアルフォンソ・キュアロントゥモロー・ワールド」(2006年)を観る。有名な作品だが初見だ。見終えて納得した。なるほどこれはある意味、当時あるいはそれ以降の映画様式を代表する作品だし今も充分にアクチュアルだと思った。近未来のイギリスが舞台で、世界中の人間が生殖(妊娠)能力を失い、ゆるやかに滅亡へ近づいている。人口減少をうけ経済産業は失調し、各国は利益を確保するため難移民の厳しい排除を進めており、街中はこれがロンドンかと思うほど荒廃しており、人種間民族間の緊張はこれ以上ないほど進んでおり、テロも日常茶飯事と、まるで現在進行形の世界をやや極端ながらほぼ正確な方向性で予言したような話だ。そんな世界で主人公は殺された活動家の奥さん経由で、妊娠した黒人女性と出会うことになり、この母子を守るために奮闘するというお話で、僕はキュアロン作品は「ROMA」(2018年)は観ているのだが、やっぱり出産、この作家にとって出産というテーマが反復されてることを感じ、さらに物事の成り行きを横移動の絵巻物のように見せるやり方にも共通するものがあると感じた。というか「ROMA」は「トゥモロー・ワールド」をあらためて自分の出自に絡めた方式で語り直した感もあるかもしれないとも思った。

運転する車の窓の外から、おびただしい数の暴徒が迫りくる。あるいは逮捕された難民が並ばされて、警察官や軍隊が隊列を為していて、袋に詰められて横にされた死体が並ばされていて、逃走しようとする一群がいて、射撃の構えを取る一群がいる。車が走り去ることによって、それらの光景が流れ去って行く。あるいは主人公の背後を必死に付きまとうようなカメラは、向かう先に軍の隊列があり、敵も味方も混在したまま銃弾の飛び交い瓦礫が飛び散り人が絶命する廃墟があり、瀕死の男がいて、泣く母親がいて、血飛沫が上がる、それらの一部始終を延々と撮影し続ける。群衆が画面を横切るとき、最新型のアンゲロプロスかよ、、とも感じる、よくもまあこんなのを作ったもんだね…と思わず口に出してしまうほどだ。物語そのものはちょっと単純すぎるというか、古い友人夫婦とか助産婦のおばさんとか、あまりにも話のコマでしかないところは物足りないのだが、本作においてそれは本質的な瑕疵にならないだろう。

とはいえあの悲惨な最期を迎えた友人と奥さん、ああいう隠れ家のような自宅でひっそりと、それこそ自分の好きな(イギリス産の)音楽だけを聴きながら余生を過ごしたい…と、あんな世の中ならだれもが願うだろうし、ことに自分のような年齢になってしまえば、それ以外考えられないだろう。その結果悲劇的な終局が我が身を待つのだとしても、それはそれだと考えても、おかしくないかもしれない…

慶州 ヒョンとユニ

A PEOPLE作品5本、1,800円で3か月間見放題! http://www.uplink.co.jp/cloud/features/2693/ で、チャン・リュル「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」(2014年)を再見。去年吉祥寺の映画館で、はじまった直後に寝落ちして中途半端にしか観てなかった映画で、このたびようやくきちんと最初から最後まで観ることができた。とても良かった。記憶をめぐる映画、できごとの不確かさ、記憶の頼りなさ、現実と非現実の曖昧な境目…といった主題はありがちかもしれないが、それを中心とするのではなくあくまでも慶州という場があり、存在する登場人物たちはあくまでも風景の中にいる人たちで、その風景全体を越えることはないが、風景全体はもしかすると誰か、たとえば主人公の男性の頭の中に存在するのかもしれない。その身体と記憶の、受け身ながら自己本位な存在感そのものの中にすっぽり入りこんでしまったかのような、ひたすら自分にとって都合よく心地よい夢をえんえん見続けているようだ。観終わった後も、いつまでも各場面を記憶から呼び出して、ずっと思い浮かべていたいような作品。

北京大学の教授であるヒョンは、友人の死をきっかけに、かつてその友人を含めた三人で訪れたことのある慶州のお茶屋を再訪しようと、かの地をおとずれる。そのお茶屋の主人として働いているのがユニだ。ヒョンとユニは主人と客の関係として、その茶屋での時間を過ごす。

ヒョンは北京大学の教授で、若くてカッコいいのでかなり女性からモテるようだが、妙にボケっとしていて、なんか変な、どこか間の抜けた印象をあたえる人物だ。観光案内書の女の子はヒョンがカッコいいので嬉しそうに店に来たヒョンを迎え入れるし、お茶屋の客である日本人の中年女性二人はヒョンがカッコいいので、ぜひ一緒に写真を撮らせてほしいと依頼する。ヒョンは黙っていても勝手に女性が寄ってきてチヤホヤされるような男性で、しかしヒョンはその自覚が薄いというかそのことをとくにとくに何とも思ってなくて、テンションの高い相手をいつも軽く驚いたように見返すだけだ。基本は一人で、ひたすらぼんやりしている。気まぐれに元彼女(というかおそらく適当に遊んだかつての自分の生徒)を慶州まで呼び寄せてみるけど、彼女は過去のヒョンの仕打ちに未だに酷く怒っていて、ものすごく気まずい時間を二人で過ごすことになって、怒り嘆き悲しむ相手をヒョンはなすすべもなく困惑気味に見守るだけだ。ヒョンの奥さんからは、独りで留守番しているのが寂しいとメールが来る。

七年前に友人たちと訪れた、その茶店の壁には「春画」が描かれていた。その絵をもういちど見たい、確かめたいというその思いで、再びここを訪れたのだとヒョンはユニに告げる。ユニは三年ほど前にこの茶店の主人になった。その春画は、上から壁紙を貼って隠してしまったという。

死んだ友人の奥さんは浮気していたらしいとの噂がある。冒頭の葬式のシーン、その奥さんはきりっとした顔でヒョンに挨拶をする。また慶州の茶室で、ヒョンは奥さんと相対する、あるいはヒョンが奥さんの幻影をみる。二人で向かいあってる。ヒョンはおそらく奥さんを思い浮かべている。

慶州という町は韓国のどんな場所なのかまったく知らないが、国有遺産に指定されてるような、大きくて立派な古墳がある。長距離特急みたいな列車が停車するくらいには栄えた、緑のうつくしい町という印象だ。何よりも晴れた日の日差しがきれいで、自然の木々の緑がきれいだ。夜の古墳、夜景、公共住宅の灯り。まったく何の変哲もない、それこそ日本の景色だと言われても信じてしまいそうな景色だが、それでいてなぜかうつくしい。

ユニは友人たちとの飲み会にヒョンを誘う。慶州の大学教授に絡まれたり、おそらくユニを慕っている友人で刑事の男から強く反発心をぶつけられたりもするが、ヒョンは困惑しつつただやり過ごすだけだ。そんなヒョンをユニは自分の部屋まで誘い、この部屋に泊まれと言う。

飲み会の前から、なぜユニはあれほど態度や表情が変わってしまうのか。それはヒョンが、かつて死別した夫を思わせる、とくに耳のかたちが似ていることに気付いたからなのか、しかしそうじゃない、そんな明確な理由があるわけではない気もする。この映画の後半において、ユニは鬱症状かと思うほどに内省的だ。そしてかすかな力でヒョンを誘惑しているように思われる。照明を消した、薄赤い間接照明だけになった部屋で、ソファに並んで座る二人。期待するわけではないが、何かあればけして拒まないだろう、やがてユニは寝室へ向かい、ヒョンはリビングのソファーで眠るが、ユニは寝室のドアを少しだけ開けておく。少しの隙間から、ヒョンがいる部屋の灯りが見えている。しかし灯りは消える。やがて朝がくる。

翌朝、ヒョンは前日に元彼女が診てもらったはずの占い小屋へ出向く。しかしそこにいたはずの老人はすでにいない。若い女性占い師は、老人がここにいたのはもう何年も前のことだと言う。おどろいたヒョンは雑木林の向こうにある川岸へ向かう。かつて壊れたはずの石橋が、その跡が残っているか、あるいはその石橋そのものがもしかして今も健在かを、確かめようとしているのかどうか。

七年前に、友人三人で茶屋を訪れた場面が回想される。そのとき茶を給仕してくれているのは、ユニではないか。だとしたら今も昔もこの茶店の主人はユニだろうか。

最初に出てきた親子連れも、バイクの暴走族も、それぞれ二回ずつ登場する。死んだ友人の奥さんもそうだし、まるで現実ではなく過去の記憶から再来しているかのようにも思える。怒ってすぐ帰ってしまった元彼女だって、怪しいと言えば怪しい。

春画は、男女が叢にしゃがみこんで抱き合っている様子が描かれている。尻を丸出しにした女が羞恥の表情でふりかえっている。女を支える男は、女の下半身が叢に触れるのを手で妨げているらしい。死んだ友人が、この男が俺だと言う。ヒョンは、この女が俺かもしれないと言う。

記憶にあること、昨日までの出来事、そうだと思っていたこと、何もかもが怪しい気もするが、とくにそうでもないとも言える。そもそも最初から不自然だ、あんなお茶屋が実際にあるかよ…とも思う。

ウロコ

先週の店に行って、お裾分けいただいた鰺と鯖のお礼を言う。しかしあれだけの切り身を一日か二日で食べきるのは大変なことだし、そんな一気食いみたいな食べ方をしては勿体ないので、ふだんの下処理にせよ今回みたいな棚ぼたのいただき物にせよ、保存方法を検討しなければいけない。食品を真空状態に密閉できる器具、真空パック機、いわゆるシーラー。値段はそれほどでもない。これで良さそうだ。これがあれば、冷蔵庫である程度保存できるし、自分で干物をつくることができるのだ。これはすごいことだ。

甘鯛を買ってきて煮付けに。煮付けだから、ウロコとエラを取るだけ。で、先週買ったウロコ落としを、はじめて使った。鯛のウロコは、すごい。固い半透明のチップが猛烈ないきおいで落ちて流しに散らばる。これは大変だ、片付けと掃除を考えると、この手の魚はたしかに面倒くさいとは思った。

表情

ものんくる 無観客配信LIVE「LIVE FROM NIHONMONO LOUNGE」を観た。ドラムは打ち込み、これまでとは少し違ったアレンジ、音数控えめ、楽曲の骨格がより浮き出たようなシンプルな印象、そんなバックトラックに乗るボーカル吉田沙良の、なぜかちょっと煤けたような、不思議にささくれだったようなざらついた存在感、全体的に新鮮な感触。

演奏の映像を観るというのは大抵の場合、歌う人の歌を聴きながら、歌う人の顔の表情を見るということである(カメラが歌い手に寄るなら)。大昔にジミヘンのライブ映像を片っ端から買っては観ている時期があって、そうなると日々、昼も夜もジミヘンの顔ばかり観ることになる。68年のブラックプールのジミ、69年ウッドストックのジミ、70年ワイト島のジミ、それぞれの演奏の違いにぴったり貼りつくようにして、それぞれのジミの表情が思い浮かぶ。それはそのときの歌い手本人の気分のようなものとして放射され、受け止める音になにがしかの影響をおよぼす気がする。ご機嫌な顔をしているから演奏も少しご機嫌に聴こえる、といったような単純な話でもあるだろうが、それだけでなく、むしろ浮かぬ顔のご機嫌斜めな表情で、自分のパフォーマンスにけして満足できてなさそうな表情でありながら、かえって端正で余計なものをあきらめてしまったかのような、それがある種のこざっぱり感をたたえた音に聴こえたりもする。いずれにせよ同じ歌い手の歌に連続して付き合うというのは、その表情の変化に付き合ってることに近くて、彼らの気分の変わり方を一方的に受け入れているだけ、みたいなことでもあるかもしれない。

娯楽作品

たとえば、ナチスが諸外国やユダヤ人から奪った金品、美術品、宝飾品、家具調度品、その他が、幾つもの倉庫に積み上げられている。毎日のようにトラックがやって来て荷物を下ろしていく。それらが何十両もの貨物列車にぎっしりと積み込まれる。貨物車は延々と繋がって端の車両は遠すぎて目に見えないほど。客車には三段ベッド、特別列車には伯爵の家族が乗ってる。列車の周りには敗残兵やゴロツキ・チンピラ共がうようよしている。機関車がゆっくりと動き出すと、列車の各連結部は悲鳴のような軋みを上げ、限界まで延びて、その重荷に耐える。鈍重な速度で列車が動き出す。人々が群がる。特別車両の窓は叩き割られる。人が飛び乗ったり飛び降りたりする。もう政府は無い。したがって目的もない。いや、まだ政府はある。機能している。何かが崩れていく、何かが消失しつつある。自分が立っていたはずの地面が揺らぐのを感じている。崩落しつつある。そのありさまを見ている。疲労し、神経を消耗させている自分を、もう一人の自分が他人事のように見ている。

崩落、消失、これまでの何かが失われていく過程、死の過程、終わりへの道、そういったイメージの典型的なやつ。かつ、金銀財宝がどっさりと詰まった場所、宝の山、欲望の中心、それに群がる者と、それを守ろうとする者の攻防。そういったイメージの典型的なやつ。

戦争による情勢変動で失われるもの。国家、政府、偉い連中が処刑される、国民、文化、文明、共同体、人々がそれまで信じてきたもの。また秩序、風紀も乱れてなし崩しになる。暴動、混乱、警察も軍もボロボロになる。社会的善悪もリセットされる。財産も資産もなくなる、商品もなくなる、貨幣価値も、有価証券も、罪も罰も無効になる。暴力の抑止力がなくなる。上も下もなくなる。

火が焚かれ煙がのぼる、ガソリンが零れる、機械の動く作動音がする、人々が並ぶ、泥濘に油がぎらつく、肉の焼ける匂いが漂う、ものの煮える匂いが悪臭と混ざり合う、群衆の黒々とした蠢き、

つまりそれが、最強に面白い娯楽作品ということで、二十世紀という時代の娯楽。そのもっともポピュラーで典型的な面白さの在り方だろうか。このようなドタバタとしたエピソードの積み重ねを、もしかして百年後や二百年後は、その面白味が次第に薄れて、やがてまったくわからなくなってしまうのだろうか。かつての作品が現代においてそうであるように。

黄金列車

佐藤亜紀「黄金列車」を読み始めてしまった。1944年、ハンガリー帝国の官僚バログはナチスハンガリーに貯蔵する物資を列車でベルリンまで運ぶ役割を請け負う。この時代のこの舞台設定、もはや超の付く娯楽作というよりほかない感じで、やたらと面白くて、時間のあるたびにひたすら読み耽ってしまう。「スイングしなけりゃ…」もそうだったが、まず確固たる映画的なイメージ、想像だけでほぼ細部まできっちりと出来上がっている映画が脳内にあって、それを土台にして文字に起こしたものがこれらの小説作品ではないのかという感じがする。しかしもしかするとそれは逆かもしれなくて、こういう小説作品が昔からたくさん書かれたことで、スパイやミステリーや鉄道やナチス憲兵や警察なんかの出てくる映画作品の土台も出来たのかもしれない。二十世紀の歴史は概ね陰鬱で悲惨だけど、二十世紀の歴史を題材にしたフィクションにも二十世紀自体に匹敵するくらいの歴史が(フィクションの歴史として)積み重なってしまったということだろうか。そしてそれは少なくとも今を生きている我々にとって、あまりにも美味しく味わい深い滋味をもつ何かだ。

主人公バログとそれを取り巻く人々がいて、バログの過去が回想され奥さんがいて友人夫婦がいる。現在と回想にまったく継ぎ目がない書き方がなされているのだが、奥さんが出てくればそれは回想だとわかるのでぜんぜん混乱しない。現在系の進行も、何の前触れもなく場面が変わったことが、登場人物名の唐突なカットインであらわされたり、こういうところもすごく映画っぽい感じがする。


…通勤電車が目的地に着いたので、本を閉じて鞄にしまって、改札を出て歩き出す。前後に人がいて、僕の前には若い女性が歩いている。若い女性らしい服装と髪型だからそう思うのだが、後ろ姿だけで顔を見たわけではない。鞄を持つ手を見ると、ぎゅっと力を込めた指と手の甲が薄い皮膚の上に、はっきりとわかる太い血管が浮き出ていて、その手は若い女性にみえないが、それでもこの人はおそらく若い。そしてさっきまで読んでいた小説の雰囲気に近い何かを、その鞄をしっかりと持つ手から、かすかに感じ取っている。