健康

健康診断というのは、診断の時間よりも待ってる時間の方が長いものなので、その間は読書になるわけで、本日は橋本治「美男へのレッスン」を読んでいた。この本、埼玉の実家にあるんだけど、久々に読みたくなって電子で買ってしまった。しかし橋本治は膨大な量の著作があるけど、僕はなんかこの年齢になってやっとこの作家の言おうとしていることを、本当に自分のこととして、けっこう切実な何かとして受け入れることができるようになったと最近ひしひし感じる。今はほんとうに何を読んでも一々刺さる。逆に二十代のとき「美男へのレッスン」を読んでも完全に無駄だったような気がする。きっと何もわからなかったに違いないと思う。だってここに書かれているのは美男とは何かを認識する必要がある人についてで、当時の僕はそんなことを知る必要がいっさい無かったのだから、つまり当時の僕は社会性というものをまったく意識してないし必要としてなかったし、その枠内における自分の場所とか立場とか、もしあるのだとすれば役割とか責任とか、そういういっさいを知る気がなかったし、したがって他者をおもんばかる意味も必然性もまるで考える気のない愚者そのものだったのだから。まあそれはそれで幸福で言うこと無いけっこうな話なのだけれども、でも、それにしてもやはり僕は、あまりにも成長が遅すぎた。呑気過ぎた。ここまで来て、ここまで年齢を重ねてから、ようやくわかってきた気がする。ただ誤解を避けるために付け加えれば、精神分析とかもそうだろうけど、それは自分が社会的にどうだからこんな責任感をもって役割を果たしていかなければ、という意味では全然なくて、そういう認識が世界を回してるんだという仕組みを知るということなのだが。しかし…いや、そんなこともないかもしれない、ほんとうにわかってんのかな…とも思う。なんか視点が変わってないというか、緊張感ないというか、どうもヘラヘラしてるんだよね。危機感ていうか覚悟感ゼロで、そんなことでいいのだろうか。いいのだろうか?って現にここにこうして書いちゃうところが、なんか軽いんですよねあなたは。

健康診断の結果はまあ良好だった。肺活量が向上したのを褒められて浮かれた子供のように喜んでる。

非酔

一年に一日だけ禁酒する日があって、それが今日である。なぜなら明日が健康診断だからだ。会社を出て、軽くお蕎麦を食べて、プール行って泳いで、着替えて水を飲んで、それで帰宅した。シラフでいると、これで本当に今日という日が終わるのかがわからなくなってくる。だって、何も変わらないじゃん、そのままの、むきだしの、ふてぶてしくゴロっとした、物のような時間が、そこにあるだけじゃん…と思って、やや途方に暮れる。と思ったら上野で飲んでる人たちからやたらとラインのメッセージが来て、泥酔者たちが送ってくるメッセージというのは本当にたちが悪い。ほとんどふざけて図に乗ってる小学生以下である。そうかお酒を飲まない人々はいつも普段こんな気持ちでいるんだな、と今日はわかって勉強になった。

ヘプバーン・マティーニ

この季節だからとくにそうなのだけれど、マティーニが美味しい。ベルモットとジンを氷に入れて適当に混ぜて作ったいいかげんなもので、そのまま他人に勧める気はないけれども、少なくとも自分だけはそれで美味しい。マティーニなんてバーで飲むから美味いんだろうと思っていたけど、結局どんな酒だろうが自室でゆっくり飲んでいるのが一番美味いのかもしれない。いや、美味いとか不味いとかの味覚の話ではなく、それを飲みながら何となく過ごすあるひとまとまりの時間を、快適なのだと言った方がよいのかもしれない。

就寝一時間前くらいからの、開けた窓から夜の外のかすかな音が聴こえてくるのを聞きながら、少し冷えた風が入ってきて身体にあたるのを黙って感じ続けている時間が、なかなか悪くないというだけのことかもしれない。

あと一時間したら眠ろう。窓を開けると、夜の早い時間だと、わりと隣とか近くの家のテレビの音なんかが聴こえてくることもあるけど、さすがにこんな遅くだと外は静かだ。まだ肌寒いとは言えないけれどもやや冷たくなった風が窓から入ってきて、蒸し暑さと夜の涼しさがまだら状になっている。これって夏の終わりの、今だけのやつだな。

夜の開けた窓からかすかに聴こえてくる音。そろそろ就寝する一時間前の自室。焚いた線香の先から身をくねらせて昇る煙。窓から入ってきて身体の半分を冷やす風。ベルモットとジンを氷に入れて適当に混ぜたやつの、冷えたグラスに付く細かい水滴。

ビリー・ワイルダーオードリー・ヘプバーンについて語る。「この娘は、女性の胸のふくらみを過去のものにしてしまうでしょう」

新しい女性のイメージ、それは女性=少女で、常に永遠に少女であるということ、ただし少女そのものではなく、常に永遠に女性を目指す、完成した女性に憧れ続ける存在であるということ。

あるひとまとまりの、どうしようもなさのなかに留まることが、必ずしも嫌ではない、自分を甘く許してしまって、見放してしまって、あなたはきっと、私のことを忘れる、私はあなたの記憶から消える、私はそれを知って、それをみとめる、あきらめの中に、今日の私はこうしてじっとしている、お願いだから、もう少しだけこのまま一人にさせてほしい。

毎晩作ってるマティーニが美味しい。少なくとも自分だけはそれでいい。早くそれを準備したくて、夕食を早々に切り上げたくなる。マティーニなんてバーで飲むから美味いんだろうと思っていたけど、結局どんな酒だろうが、自室でゆっくり飲んでいるのが一番美味いのかもしれない。

"戦争と平和"ではじめて舞踏会に参加したロシア貴族の娘を演じた彼女のセリフ。「私、退屈そうに見える?」「どうして?」「だって、退屈そうな顔をしてたら、誰も私が初めてだとは思わないでしょう?」世間知らずの子供だと思われないように毅然と振舞う、そのためにギュッと緊張して、真剣なまなざしで周囲を見張ってる。高揚は抑えて、でもあくまでも場慣れした女の態度で、余裕を見せて、そんな自分の宙吊り状態を懸命に支えている。

彼女はこのあと、どれだけ経験を重ね年齢を重ねても、常に永遠にこのひたむきな「女(になろうとする女)」を続けた。きゅっと小さな口元を結んで、大きな目を動かしている。あの可憐な姿に惹かれない男はただのバカだ。

いや、美味いとか不味いとかの味覚の話ではなく、それを飲みながら何となく過ごすあるひとまとまりの時間が、なかなか悪くないというだけのことかもしれない。


(オードリー・ヘプバーンについては橋本治「虹のヲルゴオル」を参考にしました。)

水曜ランチ

「それ、からあげ定食でしょ。」

「からあげより天ぷらの方が好きだな。」

「天ぷらってごはんのおかずになります?」

「僕、ごはん食べないし。」

「ああそうか。」

「私は天ぷらよりからあげがすきだな。」

「からあげと竜田揚げならどっちが好き?」

「迷いますねえ、竜田揚げも好き。」

「最近いろんな味があるじゃないですか、僕はキムチ味がすきです。」

「キムチ味のからあげなんてあるの?」

「あります。タレがキムチ味なんです。」

「へー、キムチも色々美味しいのもそうでもないのもあるよね。」

「そうですね、でも僕キムチそのものはそんなに好きじゃないんです。」

「なんだよそれ。」

「私キムチよりカクテキが好きです。」

「あーカクテキの方が食べやすい。辛くないし。」

「たしかに。」

「キムチとカクテキならどっちが好き?」

「私もカクテキ。」

「そうなの、じゃあ、あのさあ韓国のアレ、なんだっけ三色の漬物。」

「ナムル、ナムル。」

「そうそう、ナムルって緑と茶色と黄色あるじゃん。」

「なにそれ。」

「だから、モヤシと何かと何か。」

「あの緑色って何?」

「たぶんホウレンソウじゃない?」

「そうなの?」

「わかんない、たぶん。」

「モヤシとホウレンソウと、あと何だっけ、ニンジンだっけ。」

「ニンジンもあるし、別のもあったかも。」

「あれで、どれが一番好き?」

「私モヤシ。」

「おれも!」

「モヤシだけでいいよね。」

「いやあ、僕モヤシの豆のところがあまり好きじゃなくて。」

「あそこが美味いんじゃん。」

「モヤシだけを皿いっぱい食べたいね。」

「モヤシはスーパーで安いし買ってきて湯がいて塩コショウ酢でさっと味付けしたら美味いですよ。」

「おお、美味そうだな。アレでしょ、二郎系とかのラーメンにのってる野菜も、そんな風に湯がいてるだけでしょ。」

「そうですね。」

「二郎みたいなラーメン食べたことある?」

「あります私一度だけ。すごいわくわくしてお店行ってテンション上がって、でもすごい量で全然ダメでした。」

「それでもういいやってなったの?」

「はい、もう二度と行かないって思いました。」

「僕ラーメンはもう何年も食べてないわ。」

「何年もですか?それはすごい。」

「ふだんは平日の夜とかでも食べるの?」

「ぜんぜん食べますよ。」

「すげえなあ。」

「でも私この前台湾ラーメン食べた話しましたっけ?」

「ああ、聞いた。」

「俺聞いてない。」

「食べたらもうすごい辛いんですよ、最後めまいがしてふらふらになりました。」

「辛いものはねえ、でも食べたくなるよねえ。」

「僕も十年以上前は週四回で極辛カレー食べてたけど、今はもう無理。」

「週四回ですか!」

「週五回行くとさすがにお店の人から(こいつバカだろ)って思われそうだから。」

「週四で充分にバカって思われてますって。」

「週一でも思われるんじゃないですか?」

「週一で通ってる客なんて死ぬほどいっぱいいるから。」

「そうなんですか?」

「そりゃそうだよ、土日なんか行列で入れないんだから、その店。」

「えーみんな頭がおかしい。」

「でもああいう食べ物はもしかすると何か中毒するものが入ってるのかもね。」

「スパイスとか依存物質っぽいよね」

「絶対そうですよ。」

「でもラーメンもそうだと思うけどなあ。」

「ラーメンも同じ店の同じラーメンばっかり何杯でも食べて平気な人っているよね。」

「僕は絶対だめ。同じもの二日続けて食べるなんてありえない。」

「えー?でも煮物とか二日目が美味いじゃん。」

「そうですよ、それに作りすぎたら余るじゃないですか。」

「僕は絶対に余らないように作りますから。」

「余らないようにって難しいよね、食材が無駄になりがち。」

「そう、だから冷凍庫ですぐ凍らせて。」

「冷凍庫ってすぐに食べ物のお墓みたいになっちゃう。

「冷凍庫は凍らせるだけだからまあいいんですけど、冷蔵庫の中が何があったかすぐにわかんなくなる。」

「そうそう、うちら夫婦なんか二人揃って全然わかってなくていっつも余計なもの買うの。」

「それわかる。」

「だって日曜日に作った煮物が昨日の夜やっと全部なくなったんだから。」

「そうなりますよねえ。」

「でもさあ、もう何百回も何千回も家でごはん作って、いまだに適量ってのがわかんないの。」

「作るとどうしても作りすぎますよね。」

「そうなんだよね。この前の日曜もさあ、夕方四時くらいから夕食はじめてさあ。」

「四時からごはん!早いですね。」

「ああ、そうか、朝しか食べないから夕食が早いのか。」

「そうなの、でも食べようとした半分も行かずに満腹になっちゃって、時計みたらまだ四時半くらいだったの。」

「えー、でもそのあと夜になったらおなか空くでしょ?」

「そうでもない、おなか空いてもガマンする。酒は飲むけど。」

「私そんなの絶対ガマンできないわ。」

「できるよたぶん。でも夜に寝ちゃうことがあるのよ。そっちの方がダメ。」

「でもバタッと寝ちゃうのって気持ちいいですよね。」

「そうなんだけど、日曜の夜の七時か八時に寝ちゃって、十時や十一時に目が覚めると最悪だよ、その夜はもうまともに眠れないから。」

「ああー、眠れないままで最悪の月曜日の朝になる。」

「そうなの、ものすごい寝不足で出勤することになる。そういうことってしょっちゅうだよ。」

「ああ、だからこの前の月曜もぼけぼけの顔してはったんですねえ。」

「それは君もでしょ。いっつも月曜日テンションだだ下がりでしょ君は。」

「はい、日曜日なんか最近私、朝くらいから、ああー明日会社かっ…て憂鬱になります。」

「それわかるけど、最近自分そういうこと感じなくなってきた。」

「わかる。年のせいか、月曜日が嫌だとか、土曜日が待ち遠しいとか、そういう気持ち減ってきたよね。」

「そうですよねえ。」

「金曜日の夜とか、ぜんぜんときめかないのよ最近。」

「そんな風になっちゃうんですか?私なんかもう金曜の夜になったら夏休みが来たくらいテンション上がってますけど。」

「わかるけど、もう何十回も何百回もそれを繰り返してるうちに、平日も休日も落差感じなくなってきちゃった感じ。」

「ですよね。年もそんなに違いがない。」

「金曜の夜なのにさあ、なんでこんなに普通の気分なんだろ?って不思議に思うくらい普通に帰っちゃうからなあ。」

「そうなんですか、それは寂しいじゃないですか。」

「まあその方が楽と言えば楽なんだけどね。」

「今日が水曜日でしょ?だから今日あたりに思い浮べる金曜日の夜が、一番キラキラしてる感じだな。」

「それで金曜日になったら、いつもと変わらないぜんぜん普通の夜って。」

「そんなのつまんないですねえ。」

「つまんない、つまんない。」

 

あ、声を出してみて、はじめてわかった。細くて高い、女だ、これが、私の声なんだ。

三人の女

橋本治的な恋愛モデルの構造を例示的に書くとこうではないか。(「恋愛論」と「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ後編」を参考に)

 

未だに甘えることを許されている子供としての男性「彼」。親や実家に資産があるとか一方的に愛情を注ぎ込まれたとかそういうことではなくて、要するに、きちんと送り出されてない人。甘えを断念する必要がなかった人。だから年齢だけ大人になっても、子は愛情から解き放たれた実感を持ってないし、親も子が自らの手を離れていったという実感を持ってなくて、そんな儀礼を通過してないから、おそらく今でもそのままの時間が続いている。

 

そんな彼の知り合いとして、次のような三人の女性がいる。

 

一人目のAさんは、彼と趣味の傾向が似ているのでとても仲良く話ができるし、彼の良い点や考え方について彼女なりの深い理解を示してくれている。また彼から見てもAさんは聡明で知的であり、生活のあらゆる局面に対する姿勢や取り組みの姿勢がうつくしく、まっすぐな向上心をもった健やかさがあって、彼はそんな彼女を好ましく思っているし尊敬もしている。

 

二人目のBさんは、彼の得意分野である趣味の領域に以前から強い憧れをいだいており、できれば彼からその話をもっと聞きたい、もっとその世界に触れたいと思っている。Bさんは若くて美しい、おそらく彼が知る女性の中でも飛びぬけて美人である。そしてBさんは知ることへの興味が旺盛で、新たな知識を得ることに積極的な人だ。彼は時折Bさんと話をしながら、彼女の若さに満ちた好奇心を眩しく思う。

 

三人目のCさんは、彼が日常的に気安く話をする相手で、二人はとても仲がいい。いつも雑談が大いに盛り上がるけど、それはおそらくCさんが無類の聞き上手だからだ。意外なことにCさんと彼は、趣味も話題も共通する部分がほぼ無いし、これまでの生き方や考え方や、物事の捉え方もかなり違う。とても凡庸で保守的な女性、とCさんのことを彼は思うのだが、ユーモアの感覚を共有する相手としてのCさんは自分と抜群に相性が良いとも感じている。二人で話しているときの面白さは他に類を見ない、できれば彼女といつまでも話をしていたい、と彼は思っている。

 

タイプの違う三人の女性と接するなかで、甘えることを許されている子供である彼が、では誰にもっとも魅了されるのか?と言えば、それは他ならぬCさんということになる。なぜなら、AさんとBさんは、彼にとって自分の世界の範疇にいる人で、Cさんだけが「謎」であるから。すなわち得体の知れない他人という「謎」。

 

三人の女のうち、彼のことを一番理解してないし必要ともしてないのがCさんなのだ(と、彼は思っている)。彼に自分なりの理解を示すAさん、彼に未知への期待を見込んで必要とするBさんは両者共に、未だに甘えることを許されている子供としての彼を、文字通り許す存在だが、Cさんだけは彼を理解せず必要ともせず、関心の外側に日常的な交遊の相手とだけ見なしている、それなのにCさんは、彼の目の前でこの上なく楽しそうに笑い、彼とのひとときを楽しんでいるように、彼には見えるのである。そんな女性は彼にとって巨大な「謎」である。

 

未だに甘えることを許されている子供としての彼は、なぜこの女性が私と親密でありながら、この私に価値を見出さず、すなわちこの私に"あなたの欲望"をあらわさず、私に対して「謎」のままでいられるのか、その理由がわからない。今そこにある親密さの内実と理由がわからない。

 

ゆえに彼は不明に苦しみながら、Cさんに魅了されることになる。

首都圏

朝六時前に起きて、テレビの台風に関するニュースを見ると、昨日のJR発表に続くようにして、首都圏の各社鉄道もかなりの路線が運転見合わせになっていた。しかし我が住まいの足立区から横浜方面へのルートで、僕が使えるいくつかのパターンのうちの一つに一縷の可能性が見込まれたので、少し早めに家を出た。

 

外はまだかなりの強風と雨で、昔フジロックの準備で買った未使用のレインコートがはじめて役に立った。フードを手で抑えつつ、風の方向へ身体を傾けながら歩く。身体前面を覆う黒い生地を、無数の雨の玉が丸いガラス粒のようにびっしりと付着してはすべって転がり落ちていくのを見ながら駅へ向かった。

 

千代田線で渋谷まで来て、ここから東横線の回復を待つにあたって、いつものことだけれども、こういうとき(だけ)ツイッターはものすごく役に立つ。渋谷駅の電光掲示板がまだ何も映し出してない時点で運転再開の情報を複数キャッチできたのですぐホームへ移動、目の前にすべり込んできたわりとガラガラの電車に乗り込むことができた(ここ超幸運)。

 

会社には二十分遅れで到着。人の混乱に出くわさずむしろ閑散とした構内や車内を座席に座って来れたのでむしろ普段並みかそれ以上にスムーズな通勤だったけれども、各鉄道の午後を過ぎても一向に収拾がつかない混乱状態を見てると、通勤距離から鑑みるに自分は単なる幸運だったのだと、たまたま運が良くて助かっただけなのだということを思い知った。一歩間違えれば延々何時間も死の行軍に加わってしまって何ら不思議じゃなかった。

 

夜は通常運行でふつうに帰宅できた。

 

帰りに三つ葉を買ってきてと言われて、スーパーに寄って三つ葉を手に取り、レジで会計した。帰宅して買ったものを渡したら「これ芹だよ」と言われて、あ!と思った。これが芹であることは、僕も最初からわかっていたはず。芹と三つ葉の違いくらいわかる。というか、店の中で手に持ったそれを眺めながら「これ、芹だな」と、言葉以前の段階で認識していたはず。しかしなぜか、それを三つ葉として、そのまま買ってしまったのだ。それが芹であるという認識と、三つ葉を買ったという認識が、ふつうに共存できてしまった。

 

プログラミング的には、連携する二つの条件式に矛盾がある可能性が疑われるわけだが、一度組んだプログラムがその後変わってしまうことはないわけだから、式自体は正しいはず。だったらインプットされたデータの問題か。三つ葉と芹の組み合わせに何らかのリスクがあるのだろうか。

 

あるいは低気圧のせいか。

晩夏

朝から真夏の青空と弾力を感じるほどの積乱雲、窓の外が膨大な光に満ちている。それでも台風が近付いており今日の天気が崩れることは間違いないから、早めに買い物してこようと午前中のうちに近所へ買出し。帰宅三十分後くらいに突如として空が暗くなり激しく雨が降り出す。ベランダを開けていると跳ね返った飛沫が足元や膝まで届く。向かいの家々の屋根に猛烈な勢いで雨の粒が落下し、はげしい音とともに跳ね返り、飛沫をあげて、濛々と水煙を立ち昇らせ、視界のほぼ半分くらいまで白く曇って広がる。やがて音が弱まり、あっという間に雨が上がって、今までがまるで嘘のように空が明るくなって日差しが差して、雨でずぶ濡れになっているすべての事物を照らし出すので、水分がまた一気に蒸発して空気の状態が変わっていく。

 

季節としての夏には、誰もが魅了される。これほどの自然現象や気象のダイナミズムを体感できる季節は、やはり夏だけだろうなあと思う。四季折々の水墨画における茫漠とした湿度につつまれた夏の図、あとはこの光の量。

 

夏が終わるのはつまらないことだ。たとえば夏が終わると、女性の服装が薄着でなくなるのがつまらない。そんな男の意見、若い女の、むきだしの肩や、サンダルをひっかけただけの素足、それらを景色の中に見ることができなくてつまらない、そんな言葉さえ、この季節だけの固有性を含んでいて、路面に跳ね返る通り雨や、そそり立つ積乱雲の景色がうしなわれるのを惜しむのと変わらないことに感じられたりもする。

 

そういえば昨日、上野公園内にも芸大生たちが出店を出していてTシャツだの自作小物だのを展示即売していたのだが、みんな可愛いというか、大学生ってこんなに幼い少年少女だったっけとあらためて思った。暑いのに大変だろうけど、みんなお店屋さんごっこが楽しそうで、まるで募金を集めてる中学生とまなざしが変わらないではないか。・・・こっちは暑いから早くビールが飲みたいだけの人。ビールを求めて上野の森美術館脇の階段を降りて人混みにまぎれこむ。交差点で信号が青に変わるのを待つたくさんの人々老若男女、あまりの暑さに誰もが苦渋に歪んだ表情をしている。そんな群像を見て、なぜかちょっと笑いそうになった。

 

最近は橋本治の「桃尻娘」を少しずつ読んでいるのだが、けっこう長くてなかなか読み終わらない。しかしこの小説、登場人物ではやはり榊原玲奈がとても素晴らしくて、というか僕にとっては、この15歳か16歳の桃尻語の少女の言葉はほとんど幸田文の言葉と地続きで読めてしまうというか、はっきり言って橋本治幸田文とあまり変わらない位置にいるというか、むしろ地続きの仕事をした作家とも言えるのかもしれないなあ・・・などと、聞く人が聞いたら「??」となるようなことを思いながら読んでいるところだ。また、具体的にどこがとは言えないのだが、東京が舞台であることの磁力を始終感じているような気がする。東京の小説だなと思う。

 

磯崎憲一郎「日本蒙昧前史」第三回(文學界2019年10月号)を読んだ。「予期せぬ事態が起きたとき、自分に原因があると考える、その自己中心的な態度こそが不遜なのだ」という言葉が胸に刺さる・・・。