約束

「約束と違うじゃないか!」との言葉に対して、「あーそうですね…すいません」とこたえるのは、自分は若いときは、たまにやっていた。相手と交わした約束とか、相手が大事に思ってそうなこととか、そういうのを無視したり踏みつけたりしたこともあった。露悪的な、ことさらの態度でそうするのではなくて、ほんとうにそのことの重要性をわかってなくて、そういうことをした。社会人として、人間として、常識としてもちあわせているべき要素を、たぶん欠落させていたところがあった。たぶん若いうちなら、多かれ少なかれ、誰もがそんなものとも言えただろうし、それにしても度を越えたひどさとも言えた。

今、誰かとの約束をやぶるとか、今の自分が、そういうことをするのは、逆にとても難しくなってしまった。うっかり忘れてしまうことはあったとしても、なんとなくうやむやのうちに無かったことにするとか、それで他人からどう思われようが寝ざめの悪さをまるで感じないとか、そういう図太さ、無神経さ、無責任さ、あらゆることに非当事者感覚のまま生活を続けてしまえる力を、今やすっかり失くしてしまった。出来るか出来ないかをあらかじめ見積もって、可能ならやるし不可能なら断る。それで双方干渉なくやる。やれるかやれないか、わからないけど、とりあえず約束だけしてしまって、後で出来なかったらそのままでいいやみたいな発想をちょっと出来ない、そんなことをしたら、相手からの、世間からの、自分自身からの報復が怖い。それだけ何十年か掛かって、僕もすっかり統治された。

約束事とか、けじめとか、に、信じられないくらいだらしなくて、まったく話にならない、もはや相手にするのも無駄みたいな、そうでありながら、底抜けの優しさと慈悲深さをもっている。そういう人間も、この世にはいるだろうと思う。というか、そういう人間こそ、ほんとうに優しくていいヤツなのかもしれない。しかし大多数の人間は、そういうのを目指さない。

人間と犬

保坂和志の「小説的思考塾 vol.4」の配信を観る。それに先立って配布された資料の3「人間と犬は除いて」アガンベンによるドゥルーズ追悼文がとても印象的だった。以下に引用。

「人間と犬は除いて」アガンベンによるドゥルーズ追悼文

彼(ドゥルーズ)はこの概念を説明するため、観想に関するプラトンの理論について述べることからはじめている。「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。どんな存在も観想なのです。そうなのです、動物でさえ、植物でさえ観想なのです(人間と犬は除いて、と彼は付け加えた。彼にしてみれば、人間と犬は、喜びというものを知らない陰鬱な動物なのだ)。私[ドゥルーズのこと] が冗談を言っているのだ、これは冗談だと、みなさんは言うでしょう。そうです。でも、冗談でさえ観想なのです……。
万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素そして塩を観想するわけです。
これこそ、自己享楽というものです。自己享楽というのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。喜びを生産するような、さらには、そうした喜びがこれからも持続するだろうという信頼感を生産するようなあの元素間の収縮のことであり、固有な要件についてのあの観想なのです。そういう喜びがなければ、人は生きていられないでしょう。というのも、心臓が止まってしまうでしょうから。われわれは、小さな喜びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を自分自身のなかに見い出すことです。

 そのような「観想」から「人間と犬」だけが除かれている。人間と犬は「陰鬱」ないきもの。精神分析的なモデルによって仮フィードバックを得ることしかできない、欠落をかかえたいきものが「人間と犬」だというのだとしたら、その陰鬱さと悲しさは、わかる気がする。

ところで千葉雅也「動き過ぎてはいけない」(57頁) によれば、この文章で「人間と犬は除いて」と付け加えたのはアガンベンで、実際のドゥルーズはまた別の言い方をしたらしいが。

それにしても「自分自身の要件を観想する」とは。…物質としての自分をよろこぶ、ほとんど、死に行くこと自体へのよろこびにも置き替えられてしまえそうな、危険なよろこびにも思われる。

保坂和志の知り合いで研究者から医者へ転身した人物がいて、その人が「呼吸」のメカニズムはまだよくわかってない、と言っていたらしい。それに「症状」というものも、まだ正しく定義されてないのだと。

L.Aフード・ダイアリー

三浦哲哉「L.Aフード・ダイアリー」は会社のお昼休みの時間などに、少しずつ読んでいて、まだ半分とちょっとだが相変わらずのいい感じ。料理研究家とは単なるお料理の先生ではなくて、著作を通して食生活やライフスタイル、つまり生きかたやものの考え方を読者へ提示する、いわば「批評」的な在り方を実践する人たちなのだ…というのを、三浦哲哉の前作「食べたくなる本」で教えられたと思うのだが、本作でもL.Aという土地でゼロから食生活を構築しなければならなくなった著者とその家族が、物価高、アパート環境、食材調達の困難など、それこそ江藤淳から続く「アメリカ適者生存」の呪いかと思われるほどの苦難を乗り越えながら、少しずつL.A風土における生活と食の感覚を取得、調整、運用していく。素晴らしいレストランに出会ったあと手に取るのはその店主が書いた書物やL.Aの食を知り尽くしたフード・ライターの著作である。それは旅の見取り図でもあり、たった今経験した得体の知れない面白さをより味わうために力を貸してくれる小さな助力でもある。それを受けて一気に見通しがよくなることもあれば、あらゆる経験がその見取り図の枠内でしか認識できなくなる弊害もありうるし、ガイドの参照を邪道と見なす向きもあるだろうが、書物がある対象についての誰かの解釈であるという前提に立ってそれを紐解くかぎりであれば、私の経験と書物から得た情報がともに豊かなものとして共鳴することは可能だし「L.Aフード・ダイアリー」で試みられていることはそのような実践だろう。ゲリラ・タコスのシェフや、L.Aの著名フードライターであるジョナサン・ゴールドの著作の引用など、この本に引かれる書物の言葉たちはどれもすばらしい。はっと目の覚めるような、新たな何かがはじまるときの興奮をともなうような、これから面白いことがたくさんあることの期待に満ちた、すごく躍動的な言葉たちだ。そしてそんな言葉に促されるうちに、得体の知れない謎でしかなかった街並や雑踏や食品街の景色から、いくつもの魅力を引き出しうる契機があらわれ、L.Aの独自な食文化がじょじょに姿を見せ始める。こういう感じこそ「批評」のスリリングさだと思う。

牛肉

レストランで牛肉の下に大量のフライドポテトが添えてある皿、あれが出てくるといつも大変な思いをする。残したくはないが、食べきったら腹がやぶれるかも…といった苦しみに苛まれながら皿に向かうことになる。家で牛肉を食べるなら付け合わせるのは葉物野菜である。ジャガイモはきついが、葉物ならあればあるほどいい。ベビーリーフ、ルッコラ、クレソンを大量に買ってきて、大皿に溢れるくらい山盛りに盛り付ける。安い牛肉を買って塩胡椒し、あらかじめ香付けしたオリーブ油を敷いたフライパンで加熱する。加熱中は真剣にその様子を伺い、油の音に耳を澄まし、肉の内部で何が起こっているのかについて最大限の想像力をはたらかせる。それは肉への感情移入であり、もし自分が肉なら今どれほど熱を許容しているかを、肉すなわち我が身として考える。そしてここぞというときにトングをもって肉を裏返し、あらわれた焼き色を一瞥して期待を胸に秘めつつさらに待つ。ほとんど時間をおくことなく火を止めて、フライパン自体をコンロから外して少し置いた後、俎板にのせて包丁でカットし、いよいよとばかりに断面を確認する。思い描いたイメージにほぼ近い色合いを見て、歓喜の嗚咽を上げおお神様とつぶやき空を仰ぐ。フライパンに残った肉汁と適度に切り分けた牛肉を野菜を敷き詰めたさっきの皿に乗せる。赤ワインを空けて、ナイフとフォークを振り回して食す。野菜の苦みと塩分とスパイスの香りにからみ合う肉の焼き具合を、ほぼ絶妙だと自分では思うが、それでも柔らかさに欠ける安い肉を咀嚼するのはそれなりに大変で、しかしむしろそこがいい。これぞ牛肉だ。

墨香

墨汁の香りは、昔から好きだった。子供のころ、僕は字を書くのが昔から上手くなくて、硬筆でも毛筆でも苦手だったのだが、しかし毛筆だけは、硯に墨を入れて準備をするあの儀式めいた感じだけは好きだった。墨を磨ったことなんて一度もなく、毎回墨汁を使うだけだが、そこに強い儀式性とか様式性を感じた理由はおそらくあの香りだろう。香、匂いというものの、過去の記憶を呼び覚まさせる力はすごいものだと思う。今では墨汁をあつかう機会などまったくないけれども、ああ、この香りがなつかしい、好きだと思わせてくれるのは目薬を挿したとき。あれはどんな香料成分なのか知らないけど、目の奥から鼻にかけて、すーっとさわやかな墨のような香りが駆け抜けるのを感じる。あとは、ある種の赤ワインからも、それに近い香りを感じることがある。

ブルーノート・レコード

あまりちゃんと見てるわけでもなく再生していたAmazon Primeブルーノート・レコード ジャズを超えて」で、ブルーノート・レコード創設者であるアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフはともにドイツ出身で、30年代にナチス政権下をのがれてニューヨークにやってきて、かの地でインディペンデントなレーベルを立ち上げたのだということを、はじめて知った。そうか、あれは、ある意味、異邦人による「解釈」だったのかと、虚をつかれる思いにとらわれた。でもよく考えてみれば、それはそうなのだ。ジャズという音楽がそもそも、そのような要素を多分にもっているのだと、あらためて納得する話だ。レーベル創設から間もないころ、まだ無名のセロニアス・モンクに対してアルフレッド・ライオンは幾多のレコーディングを試みアルバムをリリースするも、同レーベルにおいてついにモンクは一枚のヒット・レコードを出すこともできなかった。モンクの音楽はその後、広く深く受け入れられていくけれど、本作品に紹介される古い映像と音声に残っているモンクの演奏を聴くと、当時それが、とてつもなく無謀なチャレンジだったのだということを、ある種の迫力をもって受け止めさせられる。こんな異様な音楽をやる人間がいて、さらにそれを世間に知らしめようとする別の人間がいたということ、傍から見ればほとんど滑稽ですらあったのかもしれないそのチャレンジの果敢さ、その志の高さ。もちろん当人たちはそれが高い志だなんてみじんも思ってないに違いない。ただそれが良いものだと感じているだけだ。

この妻

テレビドラマを観ながら、うちの奥さんだって当然ながら、僕と結婚していない人生もありえただろうなあ…などと思った。僕と結婚してない、つまり他の男性の妻である可能性。あるいは独身である可能性。あるいは…色々なさまざまな可能性、があったはず。

自分自身のことなら、色々と想像もするだろうし、「この私」とはそういう想像をするために都合の良い単位のことではないかとさえ思うけど、自分のごく近くにいる人物の、そんな可能性を思い浮かべる機会は意外に少ないものかもしれない。自分が不在のときの妻とか、自分が死んだ後の妻とか、それならまだ想像しやすいのかもしれないが、はじめから自分の妻ではない、自分とは無関係な女性として。あるいは年賀状のやり取りだけは続いてる程度の知り合いとして。この人を、そういう人だと考えてみるのは。