ビデオゲームは昔の一時期だけ、それなりに遊んだこともあるけど、今はまるでやらなくなった。家に(友人から譲ってもらった…)プレステ4はあるのだが、それはもっぱら配信の映画を見るか、youtubeを見るか、blu-rayを見るか、その用途で使うだけでゲームはやってない。それ以前に、機器を操作する際の、あのゲームコントローラを両手で持ってる恰好が、我ながらどうにもしっくり来ない。そういうポーズをしてる自分に馴染めないところがある。コントローラーを両手で握りしめてるというだけで、何か妙に能動的な入力が期待されてるみたいな、自分がその気にさせられてるような感じがして、つい手を離したくなる。なので机上に置いて、ふつうのリモコンみたいに指で押して操作している。キーボードを繋げば済むことだけど、それはしてない。

昔はキーボードでPCゲームを器用にプレイする人がいた。あるいは、フィンガードラムパッドはドラム演奏の新たな身体の使い方と言えるかもしれない。身体のほうが目的に合わせると、予想外な面白いことになるけど、身体と目的のあいだに介在する道具が中途半端にものわかりのいい恰好だと、かえってぎこちなくなるというか、なんかズレてると言いたくなる。ゲームしない人が言うのもおかしな話だが。

観葉植物の生い茂り方を、そのまま長いことじっと見つめてしまって、意外なほど時間が過ぎてしまう。そういう人はぼくだけでなく、観葉植物を所持している人なら、おそらく誰でもそうだ。

幹から伸びる細い枝はなぜその場所から生えたのか、なぜその長さになり、そこからこの大きさで葉を広げたのか、なぜ隣り合う葉同士が、もう少し適度な距離を保たなかったのか、なぜある一画にだけ密度が高くなり、そうでない箇所には隙間があるのか、全体的になぜこのような形状を為し、その後どのように変化を続けるのか。

と、言葉で書いたら嘘である。ほんとうはそんな「疑問形」など、一切ない。そもそも植物を見るのに、言葉を使わない。言葉以前の時間を過ごしている。言葉以前の時間が、長く延び広がっていくことから、逃れられなくなる感じに近い。

言葉はとにかく断続的に過ぎる。いちいちぶつ切りにした、静止画の繰り返しでしかない。芸のないやり方だという自覚さえあまりない。言葉は、言葉の外側があることを知らないし、知ったとしても自分では言いあらわすことができない。

葉を見る、枝を見る、それらの関係というか連動というか、全体的な流れというか、在りようというか、そういうのを見る、見るわけではない、特定の感覚器官の問題ではなく、それと一緒になる、付き合う、寄り添う、話を聴く、聴かないし言葉でもないので、始まりも終わりもない、そこへ同調する、離れるまでは離れない。

部屋の植物を前に、ためらうこともなく誰もがやってることだ。

白ならともかく赤ワインは、開けたその日にボトル一本を飲み干すことはほとんどなくて、大抵の場合はグラス数杯分くらい余る。後日飲み切ることもあれば、そのまま日数が経過してしまうこともある。日が経つほど飲む気が失せるけど、捨てる気にもなれず、仕方なしにいつか料理酒として使うために置いておくことになる。

そんなお酒が溜まってくると、費消するために今日は赤ワイン煮込みを作ろうとなる。この暑い最中にそんな料理を作るのかというところだが、必要に駆られたときこそが機会である。圧力鍋さえあれば手間も時間も大して必要なし、何を煮込むかは、その日のスーパーの売り場次第である。

めずらしいことに牛すじ、あと骨付き豚もあった。これを買いネットで出てきた適当なレシピの通りにやったら、あれ?と意外に思うくらい、なんかおかしいぞ?と思うくらい、予想に反してとても上手に出来た。すごい、手作りで、こんなうまく出来るものか。やや高揚する。料理酒ストックも思惑どおりに消えて、おおむね上手くいった。こういうのは珍しいことだ。でもあらためて、これを作るためにわざわざ料理用の赤ワインを買うか?と言ったら、それはしないのだよなあ。

U-NEXTで、ヴィム・ヴェンダースゴールキーパーの不安」(1971年)を観る。初見。これが長編一作目とのことだけど、この時点でもうすでに充分に、ヴェンダース的な時間の流れと空間の移動が、完成していたのを知る。何がどうといいう以前に、人でもなく風景でもなく、漂うこの感触だけでもうOKなのだ。

主人公はサッカー選手だが、サッカーをやってる場面はほぼない。試合中でも彼がちゃんと参加してるように見えない、そのくせ審判に文句を言って退場になる。以降、彼はサッカー選手というよりも、ただ無目的にそのへんをふらついてる謎の男になる。ひたすら彷徨い続ける存在として、映画館にたむろし、ビールを飲み、バスに乗り、終点の国境沿いの居酒屋近辺をただふらつくだけだ。

ほとんど思い付きみたいに、何となく気が向いたからみたいな様子で、一夜を共にした行きずりの女を明け方に殺す。その気掛かりは、あとで新聞記事などを読んで確かめる様子でわかる。それにしても彼の今いる場所は、そしてこの先は、どこまでも茫漠としている。

サッカー選手は海外遠征もするから、彼の所持金にはアメリカ紙幣やコインも紛れ込んでる。アメリカはドイツの田舎町にも色濃く、主にポップ・ミュージックとして染み込んでいる。どの店にもジュークボックスがあり、複雑な機構をもってシングル盤がプレーヤーに載せられて、針が落とされて、音楽がはじまる。音楽は空気を震わせ、あたりに満ちる。しかしそれだけだ。

電話ボックス内の電話は壊れているし、居酒屋にたむろするのは村の連中ばかり。居酒屋を経営する古い友人の女とその小さな娘の元へまるで居候のように住み着いて、新聞にはマメに目を通しながら、ただ日々をやり過ごす。

追い込まれているのか、先の見通しや希望があるのか、彼には彼の考えがあるのか、それはわからない。立ったり座ったり、歩き回ったり、何かを手に持ってそのまま置いたり、やたらと落ち着かない。不敵な表情で時折笑みを浮かべながらも、彼には何の思惑もないし、おそらく展望もない。物事の裏の裏をかく、サッカーにおける判断の要を信じてはいるのかもしれないが…。

のちに「都会のアリス」などで主演を務めるリュディガー・フォーグラーが脇役で出ている。この人物のふにゃふにゃ感こそ以後、ヴェンダース的な彷徨いを担うべく本作の主人公から引き継がれることになる役割に必要な、彼ならではの資質なのだろうと思う。

日本映画専門チャンネルで、五十嵐耕平「SUPER HAPPY FOREVER」(2024年)を観る。とても周到に考えられた、秀逸な脚本の面白い映画だけど、こういう秀逸さは過去にもどこかで見たことのあるような、よく出来た映画だと簡単に感想を言えてしまうような感じでもある。前半に出てくるさまざまなアイテムが、ひとつひとつ後半で律義に回収されていくのを見ていると、最初に決めた狙いに対して真面目な作りだなとは思うのだが、でもこれをやるために、奥さんははじめから死んだ人の設定だし、出会ったその日は携帯電話を未所持でないと物語の都合上ダメだったのだと。しかも結婚とそれ以後の生活と奥さんの死そのものは描かれてなく、残された主人公の夫の喪失感も奥さんの死と同様に本作の前提としてあって、そういう事前設定が、なんだかモヤるのだよなと。後半の夫と奥さんとの出会いがやけに生々しく、良い感じで描かれるので、後半のそれと前半とが、アンバランスに感じてしまう。

「SUPER HAPPY FOREVER」とはつまり主人公の友人が最近ハマッてるおそらく新興宗教のことだろうが、この友人がそういうのにハマってるのを、主人公は快く思ってないのだが、友人が彼にかけるアドバイスは「お前は物質にとらわれている、でも現実は物質のみではない、現実はひとつじゃないんだ」と、それなりのロジックで、主人公にはまったく響かないけど、その言葉自体にはある種の説得力があるように感じられる。偶然出会った信者の女二人の、如何にも視野狭くて独善的な、新興宗教と言えばこんな感じみたいな態度が、主人公を苛つかせるのだが、友人はそういうタイプではなくて、彼の傍らで方丈記の一節を諳んじたりもし、生活と信心のバランスに歪みは感じられず、だからこそ主人公の彼に対しても献身的で心遣いを絶やさないだけの余裕があり、失意の彼の力になりたいという思いには、何の下心もなさそうだ。しかし主人公は宗教の力を借りている友人を、最後に怒らせることになる。

この映画にはおそらく、けっしてスピ系な救済ではなく、失われたはずの何かがこことは別の時空や別の世界に、確固として存在していることこそを救済と考えたい、そのような意味合いを込めているのだとも思う、ではあるのだが、こう書くと、それは理屈ではあるけど、それだけだなあ…と自分で書いてそう思う。

ロケ地は下田とか伊東らしいけど、とにかく晴天の好天の外の光が最高に素晴らしく、またホテルの部屋の窓から差し込んで登場人物らの片側をふわっと明るく浮かび上がらせる自然光も素晴らしい。けっこう波が高い砂浜もうつくしいし、とにかく光のきれいさに終始満たされているところがひたすら気持ちいい。

U-NEXTでジャン・ユスターシュ「わるい仲間」(1963年)を観る。定職もなさそうな、お金もなさそうな、若い男二人が、パリの街をふらふらとほっつき歩いて、ビール飲んで、女をナンパして、それでも何がどうということもなく、何をしたいのか何が嫌なのかもはっきりしないまま、男二人で無意味につるんで、成り行き任せにダラダラと時間をつぶす、大雑把に括ればそういうことで、そういう感じがこの時代に、このようにして映画であらわされていることに、へーっと驚いた。

ロケ撮影されたパリの街並み。たぶん何の事前準備もなくゲリラ的に撮られているのではと思う。シナリオがあって役者の演じる物語ではあるけど、その時その場で撮られているという感触が、やけに生々しい。雑踏や人気のない通りや立ち並ぶ店構えは、今この空気と質感を、そのままを何の過飾もなく捉えているだけのようで、そのことが物語として演じられているはずの層と、ぴったり合わさっていない。

主人公の男二人は何のとりえもなく目的も展望もなく、日々をやり過ごしながら、やけに内弁慶な互いをかばい合って、互いを甘やかすだけのような、等するに何とも冴えない、しかし世の大多数にあてはまる平凡な若者たちだし、ナンパされた女も離婚・失職したばかりで生活に窮する年増の子持ち女で、せっかく三人組が成立したのに、なんとも華のない感じなのだが、若者の日々なんてこんなものだよねというリアリティは、今も昔も不変なのだなあ…と、かえって意外な感じに思った。

少し前に、業務でRPAが一部導入されたとき、自動で動作しているPCを見た周囲のメンバーはそれに人の名前を与え、〇子は偉いなあ、よく働くなあとPCを擬人化して呼び、たまにアクシデントで処理が滞ったりすると、すみません〇子がおかしいですちょっと来てくださいなどとこちらを呼ぶ。与えた目的に向かって勝手に動くものを見ると、人はそれを擬人化したくなる。一方的に感情を移入することで、出来事把握の形式を、自分に納得させやすいものにする。周囲の人やRPA、それぞれとの信頼関係をもって仕事が進んでいるのだと考えるためのお膳立てでもある。

最近だとちょっとしたツール作成や開発に、AIは当然のように用いられる。AIもまた利用者にとっては、強い擬人化の欲望をかきたてる存在だ。調べ物で数日やり取りをするだけで、ユーザーとAIはほとんど共犯関係みたいな、親密で気の置けない間柄になる、と少なくともユーザーは感じてしまう。これまでの一方的な感情移入ではない、双方向での折衝やすり合わせ、折り合い付けの感触をおぼえ、その積み重ねを共有してきたとの思いがある。

こういうものが発達するとは、表層的にはつまり情緒面での進化の凄さだとつくづく思う。盤石な「人間関係」がもう実現しているとわかる。おそろしいことだけど、死ぬまでずっとAIと付き合うだけで、それははやほぼ完全な幸福を手に入れたも同然と予感される。