SOMPO美術館で「ウジェーヌ・ブーダン展」を観る。この画家の歴史的な立ち位置は、じつにスリリングで、バビルソン派からはじまり外光を重視することで、印象派への橋渡しをしたと説明することの出来るような、絶妙な場所で仕事をした、そう納得させられるような作品を多く描いている。

油絵具をどのように扱い、じっさいに目に見える視覚的なものと、画面上の物質的なものとを、いかに折衝させ、どの案配で完了とするのかに、強く執着しているかのような印象がある。いうなれば、写実性のなかにロマン派的なものを呼び込もうとするみたいな、そんな意欲が、やり方の工夫につながっていくということか。

光(波・粒子的に拡散・分散していくもの)への拘りというよりは、光と影の関係を、素早く絵の具の物質性に置き換えて示す速度感、スピードへの拘りを感じる(モネよりはマネに近いような…しかしマネとも似ているようで違う)。

それでいて、空や雲といった一様な「面」に対しては、油絵具というメディウムに固有な絵の具の積み重ねで層の堆積をつくり、半透明層のなかに光の呼吸を促し、視覚効果としての時間的な厚みを丹念に仕込む。このような仕事は、むしろ後の印象派が捨て去ったものだ。(モネの「呼吸方法」は、なぜそれ以前の画家と、あれほどまでに違うのか…)。

いずれにせよ見る力、絵の具を扱う力において、類まれな力量であり、油絵具の特質が充分に発揮されていて、それを見ているだけで満足感を得られるというのは、あたかも楽器がその性能を充分に発揮して音が出ているのを聴いて、それを堪能している満足感に近い。人間の技巧や能力に感心しているのではなくて、物質の結果を、ただ愛でているような感じ。

このような「上手さ」は時代の流れで風化・劣化するところもある。サラサラッと帆船のマストが一筆書きみたいに現される箇所とか、ものによっては、露店に売ってる安っぽい風景画や、後期のダメになったユトリロみたいな俗っぽさに抵触しそうな気配を感じさせるものもあるのだが、それはむしろブーダン的なもの(一般的に知られる、如何にも油彩画の感じ)が、後の世界へ膾炙して通俗化したがゆえの、最初の発明がいつの間にか穴だらけの果物になったような事態だろう。

たぶんもっといい絵も、たくさんあるのかもしれないが、今回の出品作群だけでも、見ごたえはあった。

ブーダンは、水夫の子だったのだな、と思った。タブローだとあまりないけど、素描だと漁師や魚市場で働いてる人々の絵がわりと多い。ブーダンらしからぬ、喧騒や魚介類や潮の匂いを、想像させるところがある。

あと、牛の群れを描いた絵が良かった。牛といえば坂本繁二郎…と思うのは、たぶん僕だけで、坂本繁二郎と言えば馬だろうけど、竹橋の常設で見る坂本繁二郎の絵は牛である。

牛はモチーフとして面白い動物だなと、いつも思う。骨格に対して、すべての肉がだらりとぶら下がってる感じで、牛がいるのを横から見たら、まるで大きなシーツが物干しに掛かってるみたいにも見える。

たくさんの牛が、川のほとりに群れているのは、不思議なかたちが景色の一部をゆっくりと遮っていくかのようで、その有様そのものが面白くて、いつまでも目を離せなくなる。

ブーダンも坂本繁二郎も、牛をよく見ていて、見事にあのかたちを捉えている。だからこそあれだけ絵の具のなす渦の中へ、その形態を溶かし込んでしまえる。溶かし込んでもくっきりとモノの跳ね返りは感じられる。

U-NEXTでライアン・クーグラー「罪人たち」(2025年)を観る。1930年代のアメリカ南部が舞台で、シカゴから戻ってきた黒人兄弟が酒場を開いて、その夜の開店準備に立ち回る。従弟の若者は、じつは素晴らしい腕前のブルース歌手なので、今夜店で演奏を披露することになっている。

本作の基調として奏でられるサウンドはいわゆる"デルタ・ブルース"であり、言うまでもなくやたらとカッコいい。つい大昔の映画…ラルフ・マッチオ主演の"クロスロード"を思い出してしまう…。ただしあれは、いろんな意味で「ひどい」というか「ものすごい」映画だったけど、まさか本作も、それに負けず劣らず、いろいろな意味で「ものすごい」映画であるとは、序盤を見ている限りでは、想像もしなかった。

黒人社会のなかにも、いろいろなやつがいる。立場の強いやつ、弱いやつ、善良な奴、そうでもない奴、またヒスパニックあるいはアジアなど、少数ながら非黒人だっている。その枠内での政治や商取引があり、また家族への思いや恋愛感情がある。ともあれ新規開店した店には、彼らのお気に入りな音楽が鳴り響く。音楽はいっときでも人々を繋ぎ、連帯感を生み出し、その場かぎりだとしても幸福感を醸成させる。音楽の素晴らしさはまずそこにある。

その店を、ふいに三人の白人が訪れ、君らはここにふさわしくない、君らの集まれる店に行けと門前払いされる。しかし彼らは少し離れた場所に座って、ギターを持ち出して三人だけで演奏し歌って楽しんでいるようだ。

彼らが奏でる"カントリー・サウンド"が、ほんのわずかな時間ではあるけど、素晴らしい。不意打ちのように聴こえてくるその曲は、"Wild Mountain Thyme"で、バーズを聴き続けてきた者としては、これをやられてしまうと、心が引き留められずにはいられない。(ついでに書き足すなら"wang dang doodle"とか、めちゃめちゃカッコいいブルースだけど、そもそも自分のようなものがこの曲を知るきっかけは、PJ ハーヴェイによるカバーだ。)

この映画のたくらみは、こういう箇所にくっきりと現れる。どの音楽も、きちんと現わす、それを聴くと、聴いた方は演奏者が「化け物」で「他者」で「敵」だとは思い辛い。同情とかではなく、相手には相手の、倫理や知性や目的があるだろうとの想像が、瞬時に湧き上がってしまう。

とはいえ当時の南部が舞台で、黒人とKKKらとの対立である。そういう映画でありながらこれは、ゾンビ…じゃなくて吸血鬼の映画である。「ものすごい」映画であるとはそういう意味だ。序盤まで見てきたあれは何だっのかと呆気にとられるくらい、まさに木に竹を継いだ感じで、いきなり両目を青く光らせた怖い顔の「ホラーな場面」がいっぱい出てくる。

吸血鬼に嚙まれたら、噛まれた人もニンニクとか太陽光に弱いけど夜は不死身の吸血鬼になってしまう。この映画はどうやら、小屋の外側に吸血鬼がいっぱいやってきて、内側の人たちが応戦する話であるらしい。

ただ、それは戦いでもあるけど「どっちの陣営につくか?」をめぐる逡巡の話でもある。その夜、黒人兄弟の店を手伝っていた中国系の夫婦がいた。夫が吸血鬼に変わり果てて、お前も早くこっちへ来いと誘われる。もし来ないなら、俺たちが留守場してる娘を連れて行くぞとも言われる。奥さんにとっては家族が、何よりも娘が大事で、だから彼女はほとんど半狂乱になり、最後は自殺に近い最期を遂げる。

それは、自身あるいは身内に向けた疑心暗鬼との戦いでもある。誰が吸血鬼で誰がそうでないのかは判然としない。あるいは人間でいるべきなのか、いっそのこと吸血鬼になってしまうべきか、それさえ揺らぐ。

黒人兄弟の兄の方の元奥さんは、吸血鬼になることをきっぱりと拒否し、もし自分がそうなったら心臓に杭を打ち込んでほしいと兄に頼む。これはこれで「生きて辱めを受けぬ」立派な態度であるかもしれない、しかしその立派さとは何か。

自身の手で元妻に手を下した兄は、最終的に「元凶」のKKKの地主とその一味を銃撃戦でやっつけるが、その際に被弾して自身も絶命する。

辛うじて生きのびた従弟の若者は、ブルース歌手としてその後の人生を送ることになるだろう、その彼こそは「バディ・ガイ」だったというのが、本作の一応のオチになってる。

それはともかくやがて時は経ち、一九九二年、年老いたブルース歌手であるバディ・ガイ(本物)が、カウンターで吞んでいたところを、二人の若者が訪ねてくる。それはかつて、吸血鬼と化した弟とその彼女だった。彼ら二人は外見こそ90年代ファッションだけど、あの出来事以来ずっと、年も取らずに今も生きている。

今からでも俺たちの仲間にならないか?との言葉に対して、バディ・ガイは言う。俺はもう充分に生きたよ、そして聞き返す。それよりもあの日の夜は、少なくとも騒ぎになる前までは、人生で最高の時間だったと思わないか?と。そうだな、あの数時間だけ、俺たちは自由だったなと、弟は言う。

マルグリット・デュラスが監督した映画の特集上映が、アンスティチュ・フランセではじまる…という情報は少し前に知ったのだが、チケットは事前に買わないといけないことがわかったそのときはすでに「ラミュジカ」も「破壊しに、と彼女は言う」も(僕が行ける回はすでに)売り切れていて、わりとがっくりきた。気を取り直して、買えるものから数作品を選んで購入。ほとんどが、七月からの上映だ。

まあ、デュラスの映画なんて、ほとんど「修行」というか、「苦行」というか、まるで禅寺に座禅を組みに行くような、一時間か二時間か、狭い座席に固定した身体を軋ませながら、容易には固定値に着地しない絵と音を、ただ浴び続けるようなもの…とも思う。快楽なんだか苦痛なんだか判然としない時間を過ごして、終わったらほっと安堵して、さあ終わった、解放だ、さて何か呑もうかと、思うに決まってる。

でもそういうのが、ごくたまに、数年に一度くらいの頻度で開催されるなら、それはありがたい、ぜひ味わいたいと思うのだから、人って不思議なものだ。

デュラスの小説だって、今読んで、それが新しいわけもないけど、どうだろうか、今読んで、逆に今、そこに何かを掘り起こしていくこと、そこに新鮮さを掴み取ろうとするとき、デュラスはそれを望むところだと、かかって来なさいと、堂々迎えてくれる感じは常にある。

台風が迫りくる日の朝、通勤電車はがら空きだった。いざとなれば世間の人々も、このくらい一斉に在宅勤務またはお休みを取れるのなら、ふだんからもっとその権利を行使すれば良いのにと思う。そのほうが自宅の人も通勤の人も、共にハッピーではないかと。

がら空きの京浜東北線の座席に座って、なぜか居眠りもすることなく本を読んでいた。駅ごとにドアが開くたび雨の音がし、肌寒い湿った空気が車内へなだれこむ。横浜駅までの時間はおそろしく間延びしていた。

雨はなおもはげしく、窓の外は一面グレーに覆われていたけど、夕方になって、いきなり狂ったような「夏の青空」が出現した。と思ったら、鮮やかなオレンジ色を四方のビルに反射させながら、あっという間に日が暮れていく。

そして夜はすでに元通りだった。いつもより早めの時間だったせいか、プールはわりと混んでいた。

たしか去年か一昨年前のことだったと思って、このブログを検索すると、一昨年どころか四年前とか六年前とか、そんなことが珍しくない。すでにそれほど、もはや手の施しようもないくらい、現在から過去への距離感がおかしくなっている、これが年齢を重ねるということだ。

時間としての過去が、生を重ねるにつれて一定の許容量に対して圧縮されるから…というのは、わかりやすい理由の説明だが、それもあるかもしれないけど、単に記憶参照の精度が、加齢によって落ちてるのだと思う。

記憶そのものは参照できていても、付加情報の「今から何年前」という空間感覚を、正しく捉えない。脳が大体あのへんに投げたいと思って狙った箇所に上手く当たってない。

とはいえ計量的な情報などあまり重要ではない、「今から何年前」とかの情報なんて所詮、他人と同期/同調するときにしか使われないのだし、大した問題ではないとも言える。

というか、今後も生を重ねることで、むしろ何十年前も昔が、「まるで昨日のことのように」生々しいリアルな記憶(知覚)としてよみがえる可能性もあるわけだ。

最近は行きも帰りも毎日自転車で、歩いて駅まで行くのが久しぶりだったので、すでにアジサイが旺盛に咲いていることにようやく気づいた。

アジサイはきれいな花だが、日差しを浴びて燦々と輝いてるような花ではない。湿った日陰の薄暗い一画に、ひとかたまりになって、もっさりと咲いている。

澄んだ色のうつくしい色の花で、明るさや華やかさではなく、翳りや落ち着きを持ち味としている、と言えば聞こえは良いが、佇まいはどことなく陰気で、あか抜けたところはない。

じつに様々な形状と色の違いがあり、せいいっぱい張り切って小奇麗にしてる感じは微笑ましいけど、どこか野暮ったいし、わりとよく見かけるし、めずらしくもないから、正直、ありがたみはうすい。

親しみ易いけど、なかば軽視されてる、自分なんて所詮その程度なんだと、本人がよくわかっている、そんなけなげさがある。

U-NEXTで黒沢清「復讐: 運命の訪問者」(1997年)を観る。臆病で気の小さい兄と、粗野で暴力志向的な弟と、片足が悪く杖をつく采配者的な雰囲気の女が、本作の悪役三人衆で、なんか、本気なのかそうでもないのかよくわからない、煮え切らないというか一枚岩でない収まり悪いこのチームの雰囲気が、如何にも黒沢的で、ふと同監督の近作「Cloud クラウド」を思い出す。

あれほど猛烈な銃撃戦はなくて、丈高い草叢の中を、互いに身を潜め合いつつ相手を狙うのだが、もし登場人物全員の発砲数を数えたら、かなりの数にのぼるだろう、それも「Cloud クラウド」を思い出す理由だ。

相手に向けて何発も発砲しているのに、銃弾は意外なほど命中しない、命中したとしても防弾チョッキのおかげで致命傷にいたらない。かと思えば、たまたま防弾チョッキを着ていなかった小日向は、元同僚である哀川の銃弾を受けて死んでしまう。弾が当たるのか当たらないのか、防弾チョッキを着てるのか着てないのか、それはわからないけどとにかく撃つ。銃声は何発も鳴り響く。

しかし哀川の奥さんまで死んでしまうなんて、あまりにも可哀そうな展開だけど、主人公にはっきり復讐の理由があるのは、かえって観てる側が、どこか居心地悪い気にさせられる。イーストウッド演じるアウトローが村人を助ける話のようにはいかない。大義名分ってほどじゃないが、気持ちはわかると言って良いのか、これがわかるということなのかどうか。

そのあたりの「いやな予感」みたいなものが、シリーズ次作以降、いよいよ真正面から取り上げられて、煮詰められていくのだと。