家事

来週は豊田市、名古屋、掛川、三島と、東海道沿線をめぐる旅行を計画しているので、一日目の夕食をとる店を絞り込む。旅の目的というか楽しみの割合としては豊田の岡﨑乾二郎展が5、掛川ハシビロコウが5、名古屋と三島のごはんがそれぞれ1だ。それだと10越えるけど、そういう割合で考えたい。あと中村佳穂のライブに行きたいとかねてから思っていたのに最近の人気急上昇で12月の新木場が早々に売り切れてしまったので、1月のオリジナル・ラブにゲストでコーネリアスと中村佳穂が出るという公演のチケットを買ったが、これが二枚でけっこう高い。午前中のうちにと思って、久々に靴を磨く。やらないときはいつまでたってもやらないが、やるとそれなりに真剣にやる。磨くというか、靴を間近でしげしげと眺めて、細かい傷やヒビを見て、補修剤で補えるところは補って、それでももう、ああずいぶんくたびれたなあと、ため息をつくような時間を過ごすだけだ。これを月一でやるなら素晴らしいのだが、そんなことはなくて、次はいつになることやらだ。先週は、これも久々に包丁を研いだけど、これだってもっと頻繁にやるべきなのだが、億劫がってなかなかやらない。しかし切れない包丁はほんとうに切れないもので、このまえ玉ねぎの頭を軽く落とそうとしたら、その刃がなかなか入っていかないことには驚いた。おまえ包丁のくせに玉ねぎすら切れないのかよとあきれた。まあそれは何もしない使い手が悪いので、それでようやく研いだのだが。研ぐとそれなりに切れるようになって、そうなるとそれなりにやはり気分のいいものだ。あとシャツのアイロン掛けも久々にやった。アイロン掛けは、それをやりながら音楽を聴いていると、不思議な集中モードに入れるところはいいけど、これを毎週やるのは大変なことだ。毎週やってくれている妻には、頭が上がらないのであります。午後になって、先ほど磨いたうちの、ソールがやばい靴の靴底を貼り替えてもらうために駅前まで行く。昔からそんな値段だったかおぼえてないけど、一足貼り替えだけで、そんなに高かったっけ?と思うほど高い。支払ったら、がっつり体力削られた気分。姪の子の誕生日の贈り物は、さっきウェブで注文したからもう大丈夫。スーパーで今日の食材とともに、ティッシュペーパーと、コーヒーと、玉子と、唐辛子と、あと何か忘れたけど諸々を買う。財布に現金がないのでSUICAで払い、そういえばこのあとセブンイレブンでチケットの代金を払わなければいけないことを思い出して、ATMに行くのは遠回りなのでSUICAにさらに多めにチャージしてコンビニに行ったら、チケット支払いはSUICAだと出来ないとのこと。仕方なくその場のセブン銀行で現金を用意して支払う。なんか引き出しばかりで、ものすごくお金を使った気がする。

Sounds On The Beach

ビーチ・ボーイズの"Girls On The Beach"を聴いていると、ほとんど廃人同然になってしまう。すべての判断能力を奪われ、すべての好悪が、すべての欲望が解体されて、ただ痴呆的なぬるま湯にじっと浸かって薄笑いを浮かべているだけみたいな状態になってしまう。しかしその音を聴いているうちに、やがてふと連想がはたらいて、青臭いクソガキたちの叫び声や喘ぎ声の系譜が思い浮かんできて、それがたまたま、Damnedの「Damned Damned Damned」に直結される。ビーチ・ボーイズから続けて聴いても、さほど違和感をおぼえないのは意外でもあるが当然にも感じる。じつは遥か昔ビーチ・ボーイズの体内にけっこうな割合で含有されていたパンク性が、Damnedにおいて滲み出るかのように現れているのか、逆にイギリスのパンクとは多かれ少なかれ性急な直情性を増幅させただけの、かつてのアメリカ男性コーラスグループのフォーマットに過ぎない、ということなのか、たぶんそれはそのどちらでもあるのだろうし、少なくとも「Damned Damned Damned」はビーチ・ボーイズみたいだと僕は思うし、人が何と言おうがそこは強情にそう思うと云い張りたいところだ。

イギリス音楽は本来自分たちのものじゃない駒を使って自分たちの将棋をしているのが面白いのだと思うが(最近もそう言えるのかどうかは留保が必要だろうが。かつ日本も。)、パンクも今となってはそういう音楽の典型に思える。レゲエの解釈もそうだ。イギリスの職人たちが手掛けた見事な技はいくらでもあり、前後の脈絡は欠いたまま、その場だけで光り輝く凄みは、いつでも魅力的に思える。

話は変わって、部屋でデカい音で聴いてると妻が激怒するので仕方なくイヤホンで聴くのは山下洋輔トリオだ。山下洋輔トリオを聴きたいという身体的枯渇感が久々に戻って来た。一旦そうなるとしつこくそれを求め始めることになる。「Up-To-Date」はずいぶん昔からインポート済みだ。ボリュームをフルテンにして"Duo, introduction"を聴く。やばい。森山威男がやばすぎる。山下洋輔トリオって、ピアノ3、サックス3、ドラム6ではないかと思う。それだと10越えるけど、そういう割合にしたいような感じなのだ。これを聴いて血の気が引き、脈拍が上がり、呼吸が乱れ、鳥肌がおさまらず、目の前が白くなるというのは、いったい何なのかと思う。ズレズレが同期し、併走して、また乱れる。その周期がゆったりしていると思うと、ふいに息継ぎ不可能なほど矢継ぎ早になって、わかりやすい盛り上げをハイハイとやり過ごしながらも、確実に人間の領域を越えそうになる瞬間があって、どうしても目がうつろになり、陶然とする。時間を細切れに文節して文節して、どこまでも際限なく、しかしふいに今に戻り、その前後を非人間的に行き来して土台を揺るがす、その状況への恐怖となぜか裏側に張り付いてる歓喜、ということだろうか。なにしろ確実に、だれも触れない時間のある壁に直接穴が空いてる感触があるというか、取り返しのつかなさが出来事として起きてしまった感がそこにはまざまざとある。たぶんこれはビーチ・ボーイズと融合するものではない。そういうのとは別のことだ。Damnedがやや併走すると考えることもできるし、同じように聴くことも不可能ではないかもしれないが、それともやはり違う。昨今のリズムをいじくりまくってるジャズとR&Bの感覚が、いちばん近いのかもしれない。というか、少なくとも僕はジャズをそういうリズムの冒険としてしかとらえてない気がする。とくにフリージャズを聴くときは完全にそうだ。テクノを聴くときとフリージャズを聴くときは、僕は完全にそうだ。おおざっぱに言えば黒人音楽の解釈の果てにあるジャンルとして、テクノもハウスもフリージャズもある。そうではないと、僕はややつらい。ゆえにフリーはいいけどアヴァンギャルド全般はやや警戒心があって、ジョン・ケージデレク・ベイリーも、聴かないことはないけど親愛の情を感じる部分はあまりないし、テクノだとデトロイト経由じゃないベルリン周辺とかイギリス系にはほぼ疎い。ミニマルでも血の奥底にジャマイカとかアフリカがあるかないかが重要だと思っている。なるほどですね。

オンライン

残念ながら短期で去ることになったゲーム女子と小さな送別会をひらいてお別れした。

ゲーマーは、そのゲームの世界観が好きで、それに賛同する仲間たちとのひとときが好きである。彼女らはSNSを使ってやり取りしながらチームプレイして、戦果を分け合いアイテムを入手し感想を言い合って、お気に入りキャラクターのセリフを語って、好きなイラストを紹介しあい、また翌日にログインする約束を取り交わす。彼女の今にとって、それらの時間がほぼすべてで、それ以外のことに意味も価値も見出せないし、見出す気もあまりない。不満や不安ややりきれなさや悲しさとかはべつにない、よろこびもない、予想外な幸運の到来に期待するわけでもなく、突然ぼやっとした不安にかられて保険の各種商品を調べはじめるようなこともない。会社からは、うるさいことを言われもするし、些細な面倒ごともないではないけど、あまりまともにかかわる気も、気に掛ける気もない。家に帰って、コンビニで買ってきたごはんを食べて、甘いカクテルのお酒を飲みながら、アプリを起動したら仲間がすでにオンラインだ。それを確認して、いくつかのメッセージを打ち込んで、またいつものようにその場所へ行く。

ちなみにIHです。でもうちのIHは火力けっこう強いです。IHは使ってないとき上に物を置けるから便利なんですよ。キッチンむちゃくちゃ狭いんで物置けると助かるんですよ。

僕は結局、この女性と一か月以上ランチの時間を一緒に過ごして、今宵の送別会でお別れしたのだが、これを書いてる今、現時点において彼女はすでに僕のことを忘れてしまったのではないだろうか。明日になれば、もう何事もなかったかのようにその生活は引き続いて、もう彼女にとっては僕の存在していた事実さえ怪しい。もちろん僕も、これを書いてその後しばらくしたら、君を忘れてしまうかもしれないが。

しかし、おそろしいことに、この世に両者とも存在している。

幸福

死にたくなるほどの孤独を感じたことは、たぶん一度もない。あるのかもしれないが、記憶にない。寂しさや人恋しさという感覚を人並み程度には知っているつもりだが、孤独感に苛まれて一晩中涙に暮れた経験もないし、自分自身がそこまで追い詰められてしまうのを、自分自身でじっと見つめ続けたこともない。たぶん僕はそのあたり、深みにハマる手前でそこそこ「上手くやる」小狡い人間であり、収容所において組織化することで生き延びた者たちの仲間かもしれないとも思っている。孤独感というのは死のように、自分にとっては、はかりがたくおそろしいもので、それゆえ死と同じく僕はまだ一度も経験したことがないのかもしれない。他人が、あるいは書物や映画に描かれた人物が、寂しさや孤独にさいなまれているのを知って、感情が動かされることはあるが、つまり自分にとっての孤独とは「かわいそうなな誰か」の在りようということなのだろうか。苦痛の只中にいる人間に、自分自身を「かわいそう」と感じる余裕はなく、それを見ている別の者がそう思い、直視していられずに目を背けたくなる。あるいは、何とかしてあげたいと思う。孤独もそうで、私が孤独であることと、他人が孤独であることは、たぶん結びつかないのだが、それを結びつけて考えないわけにはいかない。

空気を読むとか、多勢に同調するとか、長いものに巻かれるとか、そのたぐいのことは、たぶん生きる上で多少なりとも身に付けておく方が良いのかもしれない処世術である。それは、本来の自分を、適度にあきらめるということでもあるし、自分を他人のように見なしてケアするということでもある。また周囲に流通している価値や感覚や言葉を、私のものとして受け入れることでもある。私がそれを理解して納得していると、私に信じさせるための努力のことでもある。

私が私に信じさせたいもののことを、幸福と呼ぶのかもしれないが、人は往々にして、私が私に信じさせたいものについて、本当はそうじゃないものをそれだと思い込む。そしてそれは、本当はそうじゃないものをそうだと思い込んでいる方が、だいたい滞りなく物事がはこんだりもするから、それはそれで、そんな自分とそんな自分の周囲と上位の誰かにとっては、都合が良いことなのかもしれないのだし、そこそこ上手く自分と折り合いを付けて、そこそこ幸福だと信じながら生きるのが本当の幸福ではないなどと、誰が断言できるのか、むしろ誰もがそうなっちゃえば良いじゃない、という言葉の真贋を判定するのに手掛かりはなく、自分自身で決めるしかない。

でもその悲しみや不幸が、物質的と云いたいくらいの重みと実在感をたたえているのに、私がもつ幸福のイメージはいつでも頼りなくて、しかもなけなしのそれを守りたい気持ちの方が先に強く沸いてしまって、終わらない道がどこまでも続いているのをみて途方に暮れる。だからこそ幸福について話をするのは、とても難しいのだが、そもそも芸術とは幸福について考え、それを実際に手に触れるための、やみくもな挑戦のような行為のはずで、そんなとてつもなく壮大なことをやっているのは、相当わけのわからない人だという事なのだが、しかし本来は誰もが、その試みと無縁じゃないはずなのだ。

数か月前に引用した橋本治の以下の言葉が、僕はほんとうに好きなので、再引用したい。

一歩一歩、知らない間に埋め立てられてって姿を表わした陸地の上に立って、そしてそれでその先を眺めて見ると、それはもう、前とは全然違った基準に立って物事を考えるのとおんなじなんだよね。それはホントにちょっとずつだし、何がどう変わっていくのかもホントのところはよく分からないけども、でもやっぱり、それは妄想の中にいる自分の考えてた未来っていうのとは、やっぱり全然違うものなのね。考えてるようでいて実は、妄想という名の離れ小島の中にいる時人間は、「自分の未来なんかなんにも考えてなかったんだ」って、そのことだけは分かんないでいるの。いくらそれがどうにもならないことでつらいからって、泣いたり喚いたりしたって、妄想の中で考えてる“その先”っていうものは、実は、一番安易でいい加減なものなのね。そんなもの分かってるくせに、でも、それを考えてる自分のいい加減さを認めるのがいやさに、妄想っていうものを強固にしてくのが、大人の世界の恋愛なのね。

(中略)

妄想の元になるようなものを外気にさらして、そのことによって生まれる現実と、海の中に消えてく妄想とを振り分けて、そうやって、ほとんどなんの意味もないような“幸福”っていう新しい領土を踏みしめていくことの方が、恋愛っていう立派な妄想の中に閉じこめられることよりもなんぼか幸福かって思うの。

 

老眼

12月の週末の予定が、ばたばたと決まりつつある。年末が近づいてきたと、それが少し実感されるのだが、妙なことに、今月の後半がこれからやってくるという事実には、あまり実感が沸かない。一、二週間くらい先のことなんか、あれよあれよという間に押し寄せてきて、気付いたらもう、今がそうだったと思うくらいで、来週なんてほとんど未来なんだか現在なんだかが不明瞭なほどだが、一か月先だとさすがに、これから来る時節、近いうちにやってくる未来と、多少のゆとりをもってようやく実感できるような距離感である。老眼で近いものがかえって見えにくくなるようなものか。

感覚

目薬を挿すと、香りがする。とくにサンテFXは、かすかに墨汁を思い出すような香りがよくわかる。鼻から嗅いでないのに、顔の奥から外側へと、香りが抜けてくる感じ。目も鼻も耳も口も、内部でつながっているのがわかる。ハナノアという鼻孔内洗浄液があるけど、あれを使うとき鼻の孔に容器を突っ込んで液体を注ぎ入れて、顔を傾けると片方の鼻から液体が出てくる。しかし顔の角度や呼吸の案配等、多少経験を積まないと上手くいかず、油断すると鼻から飲んだみたいに喉の奥へ行ってしまうし、その液体が目や耳の奥にまで浸潤した感触も感じる。ずいぶん後になってからその液体の香りが、ふわっと鼻孔内に感じられたりもする。

部品とか機能の一部が少しずつダメになっていうというのが老朽化ということで、自らの崩落過程をリアルタイムで観察し続けるのが、中高年的な感覚ということだ。とはいえ、子供の頃より現在の方がよほど状態の良い部位も、ないことはない。僕はアレルギー性鼻炎だの喘息だのアトピーだの、昔はとにかく体の弱い子供で、鼻はいつも調子が悪かったので、もともと香りには鈍感だったはずだが、十年ほど前からずいぶん安定して、鼻炎の症状で悩まされる回数は極端に減ったし、花粉症の季節でもほとんど意識せずに過ごしている。アトピーも喘息も小児時代を過ぎて以降、久しく無縁である。

ただし視力は、昔とくらべたら相当悪くなったと如実に感じる。視力に不足を感じるなんて、生まれてこの方一度もなく、ただし免許更新の際に視力検査がいつもギリギリでヒヤヒヤするので、そのためだけにメガネは所持していたのだけれども、最近はそのメガネを持ち歩かないとさすがにヤバくなってきた。今やメガネ無しで映画や展覧会に行くのはかなりキツイ。ふだんの生活のなかでも、あー見えてないなあ、と思うことがしばしばある。少し薄暗い場所とか、お店の黒板メニューとか、駅の表示パネルとか、きちんと目が動いてなくて、露出もピントも甘い、というのを実感するようになった。

嗅覚や聴覚や味覚とくらべると、視覚はその感覚を感受する身体機関(眼球)がもっとも大掛かりな感じで外部露出しているので、この機械の調子が悪くなれば感覚も減衰するというのが、ひじょうにわかりやすいように思う。鼓膜はスピーカーのコーン紙みたいなものだろうし、舌はよくわからないけど、あれは感覚と欲望が密接に結びついてる感じがする。美味しさというのは脳がそう感じろと指示しているのだろう、まさか舌という一機関が独自に判断しているわけではあるまい。まあそんなことを言い出したら、視覚も聴覚も、脳がそのように解釈せよとの指示に基づいて各機関が稼働しているだけなのだろうが。

感覚を受ける欲望が元のままなのに、機能が衰えるのだとしたら、それは辛いし面白くないことだろうけど、欲望も機能も非同期で勝手に減衰していくのだとしたら、年齢を経るとともに世界の感じ方が逐一変化していくことになるので、それ自体は面白いことなのかもしれないけど、そういうことを面白いとか思う根拠自体もおとろえていくのだろう。そして今の感覚よりも、かつての感覚の記憶の方が、認識の割合として多くなっていく。

とはいえ、そんな何もかもがキレイに減っていくような感じに変化するだろうか。そんな上手いこと行かない気もする。むしろ昔よりも生々しくギラギラと、実も蓋もなくあさましく愚鈍な状態が続くのかもしれない。というか、べつに何も変わらないのかもしれない。そうそう簡単に変わるものではないということを知って、うんざりするのかもしれない。

来たるべきもの

明け方、いやまだ真夜中だったと思うが、僕とある女性がテーブルに向かい合って座っていた。ここはおそらく池袋の北口を出てすぐのビルの二階を上がったところにある古めかしい喫茶店だ。ドアを開けてすぐの二人掛けの席にいた。相手は花柄模様の濃くて渋い色のワンピース、栗色の髪は黒いリボンで飾られている。まつ毛は長く、両方の瞳は瞬きもせず大きく開け放たれていて、薄い唇を固く結んでこわばった表情。たぶんこの人が、のちほど僕を見て、カッとなってその目を血走らせて、怒りに震えて立ち上がり上体を起こす瞬間があって、相手の手に握られた物が光を反射させて、あ、これはヤバいと思って、身の危険を強く感じて「おいおいおい!やめろやめろ、あぶないあぶないあぶない!!」と口走って「わー!」と絶叫して、そこで目が覚める。先日のパンダも、おそらくパンダにもパンダなりの怒りがあったのだし、明け方の彼女もそうだっただろう。何を怒っているのかはわからないが、目の前の相手は、こちらが何を言おうが、どんなに宥めすかそうが、結局は感情の昂ぶりを抑えることができない。何とか言葉を交わして、説得をこころみて、相手の言い分を聞いて、妥協点を見出して、たぎる思いをひとまず元の鞘に収めてもらえないものか、まるで聞く耳をもたない相手が、こちらの態度をみて、ほんの少しでも冷静さを取り戻すことができて、そのまま続けて言葉同士のやり取りに応じないでもない、そんなそぶりを確認できたら、それだけで充分にむくわれる。何をしても応答遮断の門前払いだった相手から、かろうじて対話の糸口を見つけだし、それで相手の物腰にはじめて平常時のリズム感がうまれるのを見て、怒りとは別の感情がその表情に読み取れて、それでようやく平和を取り戻したことが実感される。なんでもないこと、いつもの日常が、こんなにありがたいものだとはなかなか気付かない。そんな風に自分に都合の良い想像ばかりが広がるのだが、でもそれは根拠なき自分勝手な思いに過ぎないのだ。現実はそうではない。回復は見込めない。やはり相手は、態度を変えない。何もかもが徒労だった、無駄だった、状況は絶望的なのだ、僕はそれを黙って見守るほかないし、やがてその相手がこちらに向かってくるのを防ぐことはできない。ただ待つしかない。