何だっけ、今日一日で、ぼやっとあった、あの事を、今ざっと数分で書いて、それで終われれば、いちばん効率的、のはずが、もう、あの事を思い出せない。今日一日かけて、ぼやっとあったわけだから、今日の約一日分のぼやっとしたかたまりである筈なのだが、現時点でそれが、まるごとない。それが、一日かけて、その一日の成分のはずが、現時点でそれをもはや既にコネクトできない自分がいた。今の時点で、一日の印象などというものが存在せず、それをあると思ったとしたら、ほんの数秒で一日を反芻してそう思えていて、つまりそのときの一日とはせいぜい数秒のことだ。それを過去の一日としておぼえておいても、何の意味があるだろうか。しかし逆に、過去の一日を一日分おぼえておけたとして、それにも、何の意味があるだろうか。時間の上に乗せることでしか過去を再生できないところに、まず制約があって。しかし、時間をかけずに過去に触れる事ができるのか。現在の時間を過去に見立てて消費するのではなく、過去を過去のままに、また別の仕方で再生するという、現在の一秒も使わずに、過去を思い出す、というか、そのまま過去を生きているという。そのためには、何の手がかりも無いまま、過去を手探りで切り開いていくようなことになる。真っ暗の闇の先に、知った何かがあるというこの倒錯的な感触。