絵を観てすごいと思う瞬間、その絵自体は昔から知っていて、もう見慣れているとさえ言えるのに、ふいにそれまで気づくことのなかった新しい何かに目が吸い寄せられる。たまたま発見したのではなく、あえて着目してみた、わかっていると思っている場所をあえて読み直してみた、そのとき、とりたてて感情が呼び起こされることもないはずの、ほんの些細な箇所に過ぎないある部分からはじまる出来事があって、そこから連絡を通じ合おうとする各関係が生じるのを見出す。その観察を続けながら、固定で視線を留まらせておくのを幸福に感じていたりする。

それは新発見とか未知の発掘ではなくて、すでに見ていた何かに今までの自分が、自分起因の態度や関心や注意力や許容度や執着によって、意図的にそれを起動させなかった。絵そのものは以前と何も変わってない。しかしそこには、起動すればしただけの運動が、はじめから用意されている、その寛大さというか寛容さがはじめから準備されている。

だからその絵を、正当な立場や条件にもとづいてきちんと正面から見ているというのではなく、不特定多数を相手にした善意の施しが与えられたので、その片隅に自分も小さくぶら下がっている感じになる。