銀が泣く


風邪を引く、香を引いた、端歩を突いた、裏を返したのである。逆鱗に触れてしまった。何の?わからない。触れてない。ドアを開けた。そっとである。咳が出て、喉が痛い。ミスを誘われた。一笑に付した。電話が鳴った。出ると隣席の女性である。「体調不良のため休ませてほしい。」お大事にして下さいと伝える。たしか七年前に、僕は世田谷のM駅に立っていた。M駅。プラットホームは何重にも重なった合わせ鏡のようになっていて、電車は一挙に四両も五両もきれいに並行して滑り込んでくるのだった。そのとき、あのプラットホームに立つ自分が突如として大きくイメージアップされてレンダリングされて、今がその七年前になったかのようだった。当時、十月から十二月までの二ヶ月間を、僕は毎朝、あの場所に立っていたはずで、でも今となっては、それがまるで現実じゃなかったみたいだ、というか、現実として今ようやく、そこに立ってるようだ。あれより後にも先にも、あの場所を訪れてないけれども、あれは、ほんとうに実在する場所なのか。午後を過ぎて、再び電話が鳴った。出ると、隣席の女性である。「インフルエンザA型でした。」お大事にして下さいと伝える。上司報告したら、お前も調子悪そうだけど大丈夫なのか?と問われる。大丈夫です。根拠はありませんが。私が調子を崩したのは日曜日です。女性が在席していた月曜日、私においては、その時点ですでに風邪が進行中でした。私の保有する菌は、彼女とは別の出自、別のルーツと目的もつはずですと。しかしその直後から、周囲の僕を見る目はあからさまに変わった。戦禍の跡がまだ生々しく残る一帯を見渡して、僕はこのまま目を伏せてじっと耐えたままで何もかもやり過ごしてしまおうと思って、ただそこにじっとしたままでいることに決めた。