日記(Nikki)


学生のときに美術を学んで、その後も絵を描くという事から完全には離れられず今日までやってきましたが、20代後半で美術とは無縁な企業に就職もしましたし、その後結婚もしまして、現在も会社員でありながら、まだ絵も描いていて、そういう生活でもう36才なのですが、去年からこの「はてな」というウェブサービスのブログに毎日何か文章も書いている訳です。美術をやるというのは、「できるだけ良い絵を描く」事でもありますし、同時に「良いものに敏感に反応する」事でもあると思っています。なので、ここに何かを毎日書くというのは、主に後者の努力の一環としてやっています。


「良いもの」というのは実は、なかなか曲者でして、世間で「良い」とされているものの良さをちゃんと感じるというのは、結構難しいのです。「良いものは理屈じゃないのだ。それを心で感じ取れば良い」というのは真実ですが、…これは体質とか性格にもよるのだと思いますが、人は「これは良いものだ」と思いつつ、実は結構「自分の中で良いものに定義済み」の事物に、機械的に反応してるだけだったりする事が往々にしてあるように思います。少なくとも私にはそういうところが大いにありますね。だから自分のその悪癖に対していつでも不安を感じているし、それが無意識のうちに出てこないよう、なるべく注意深くしているんです。…いや別に本質が何であろうが、自分が良いと思ったものをいっぱい愛でていれば幸せなんだからそれでいいじゃん。という考え方も、もっともなんですがね!…それを「それじゃ嫌だ何か間違ってる」と思うのは、何かまた別の外的要因というか思い込みが介在してる可能性も否めませんが…。


で、そんな風に不安定な自分自身の判断力を使い続ける事自体も辛いのです。そのポテンシャルが自分で疑わしくて不安に耐えられない。とても自分にそんな能力があるとは思えないんですよね。だから、もっと安定した外部の価値基準に合わせてしまいたい、大きくて頼もしい何かと自分を同一化させて安心したい、という気持ちも抗いがたくあります。やっぱりたった一人で何の後ろ盾も指針もなく、自分だけの価値基準を磨き続けるというのは、言葉で言うのは簡単ですけど実際は至難の業ですし不安極まりないですし、そういう孤独な城壁に閉じこもっているばかりでなく、やっぱり誰かと関わって褒められたり貶されたりして剥き身の外部に接したりする経験も絶対に必要なのですが、でも、だからといって自分と何となくウマが合う居心地の良い交友関係の中に自分の価値基準を溶かし込んでしまうとか、世間的に通りの良い組織に従属して、その中のヒエラルキーに自分の価値基準を配置してしまうとか、そういうのはまずい。そういう場というのは、自らが責任主体であるべき判断の代行をやってくれるので、これだと如何にもわかってる雰囲気の集団の中で、もっともらしいポーズを保ちながら、それなりに美術について考えたり楽しんだりできる場が保証されるので、ある意味便利なのですが、しかしそれだとやはり私は、何か違うんじゃなかろうか、と思うのです。だからその誘惑に抗う事も、すごく大事です。…いや、人間なんて弱いので、こういう事は実際無意識のうちに起こり得るのです。というか、まあこれも体質とか性格に依存するのでしょうけど。もちろん私は弱いタイプなんですそういうのに。だから余計警戒してる訳です。


美術作家でありながらウェブ上に何か文章を書き残しておられる方々というのが、私だけでなく沢山いらっしゃる訳ですが、そういう方々とは私が知る限りとにかくもっともらしい雰囲気や上辺だけでわかったような感触には異常に敏感に拒否反応を示しそうな方が多く、そういう雰囲気を徹底的に嫌うという感じで、場の和やかさとか空気とかは二の次で、なるべく覚醒している状態を望むような傾向の人が多いように感じられます。でも私などもそれはとても正しいと感じますし、ほとんど目を覚まされるような思いにさせられますし、こちらも見習って頑張りたいと思うのですが、でも私のちからでは所詮「鈍感さ」と「判断責任を外部依存する弱さ」の両端を行ったり来たりしているだけといったような体たらくで、かなり恥ずかしい有様ではありますが、まあそういう危なっかしいロープの上で不恰好でも何とか自分なりにバランスを保ちつつやっていくためには、やはり自分自身のトレーニングが必要です。だからこうして書き続ける事で「良いものに敏感に反応する」事になるべく緊張感を持つようにしているのです。


実際、自分が今、何をわかっているのか、何をわかっていないのか、何を知るべきか、何を避けるべきか、について探りながら、こういう事を延々公開しながら書き続けるというのは、わざわざ自分の至らなさを晒してるだけ、という事に他ならない訳ですから、やはりみっともない事です。はっきり云えば私など毎日のように自分が書いた事自体のみっともなさや至らなさに苦しめられるのです。大げさではなく、朝目が醒めるやいなや、昨晩自分が書いたことが蘇ってきて恥ずかしさに思わず飛び起きたり、至らなさをくどくど考え込みいつまでも嫌悪に責め苛まれるほどです。まあそれもまた修行だろうと思っていますが。


…まあしかし、私以外の他のどなたかがこの文章や過去に書き散らしてきたものなんかを一部でも仮に読んで下さっているのだとしたら、それは何とも恐ろしいと云うか、物好きというかやや呆れるというか…いずれにせよ大変ありがたくも勿体無い事です。。…というか、わざわざ云うまでも無い事ですがこのブログのアクセス数は極めて少ないのです。けれども数の多い少ないではなく、ここにアクセスを下さる方々が確かに実在するという事実は私にとってほとんど感動的です。ほとんど「もう私は皆様に支えられて生きてます」と云いたいくらいだ…ちなみに、コメント欄とかを空けない積極的な理由はあまり無いのですが、実際、書き始めて半年くらいはコメント欄空けていたのですが、やがて閉じました。それ以来クローズドな世界でやってます。…もちろん自分の言葉にリアルタイムで生の反応が返ってきたり、異なる意見やときには批判をもらったりするなら、それはとても苛烈で有意義な経験かもしれませんが、でも今のところ自分の中だけで色々考えたり苦しんだりするだけで、かなり精一杯でして、まあ前述のような目的で書いていると、いただいたコメントに応答するというのが、たぶん自分の中で上手く折り合いがつかないというか、自分の言葉全部を制御できなさそうだなあ、と思っているので、一応自分だけの世界で閉じてやっています。