U-NEXTで、アラン・ロブ=グリエ「ヨーロッパ横断特急」(1966年)を観る。麻薬の運び屋が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスに乗って、パリからアントワープまでアタッシュケースを運ぶ。…そんな映画を作ろうと、映画監督と関係者ら計三名が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスの客室で話し合っている。

そんな彼らの検討案が元になっている場面、密売人のエリアス(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、露店で鞄を購入し、パリ北駅のロッカー前に立つ男と暗号メッセージを交わし、鞄を交換して特急列車に乗り込むまでの、一連の様子が示される。彼は車内を移動し、関係者三名が話し合っている客室をも通り過ぎる。

映画はもともと、現実の俳優が演技をして、その撮影したフィルムを任意につなぎ合わせて作られている。だから映画がメタ構造の物語を取り扱うなら、たとえば映画構想中のスタッフたちのいる場所に、その構想段階の登場人物が介入してきたとしても、それは映画の撮影においてであれば、何ら驚くべきことではない。

本作はそのことにはおそらく十分自覚的で、本作が目指したことはメタ構造物語というよりは、物語の「登場人物」という不思議な存在について、それをどうにか別の方法と別の視点から取り扱えないかと、それを探る手段としてひとまず、お話そのものの「構想中レイヤー」が設定されたのではないかと考えてみる。

だからこの映画で面白いのは、物語や構造ではなくて、物語や構造を未だ与えられない登場人物の焦りや戸惑い、かすかな狼狽の感じ、これから自分が何をすれば良いのか一瞬先を手探りするような、それは人格への感情移入未満というか、未然の不確かさに関する手触りではないかと思う。

ただし演じる人間を、本当にセリフも与えられないまま撮影現場に投げ出すわけではないはずだ。演じる者は「現実」レベルでは、自分の役割をわかっている。にもかかわらず、そこにはある「支えの無さ」「不安定さ」が現われている気がするのだ。

もしそうなら、現実のアドリブを撮るよりも、「現実」レベルで役者が「支えの無さ」「不安定さ」を感じてない、にもかかわらず、作品によるべなさが漂うことのほうが、凄いと思う。

あるいは、つねに五分前の記憶を無くす人物が主人公の映画でも、同様の感触は得られるのかもしれないけど、その規則をもとに映画を組み立てることが出来てしまうなら、時空そのものは安定している。本作の主人公は、建前としてはマトモ(?)な麻薬の密売人のはずで、だから自分の仕事も段取りもわかっているはずで、始終わかってる風な行動を取る。しかし彼はそれを、ひたすら映画の登場人物の自覚と責任においてやっているだけなのだ。(筒井康隆虚人たち」的なところもあるのか。"今のところまだ何でもない彼は何もしていない。"登場人物。)

もちろん、役割以前の段階に放り出されて戸惑っている映画の登場人物というのは、すでにありふれているとも言えるだろうけど、本作の独自な感触は、登場人物エリアスにも内面があって、それは彼の性的な欲望として常に示される、それが反復されるポルノグラフィー、緊縛された半裸女性のイメージにあるだろう。それによって彼は、構想途中の映画の、未完成な筋書に付き合うことから、何とか脱しようとするかのようだ。