Change


その行為に疑いがないから密度が高まるのである。半信半疑だと、密度というのはなかなかあがらないものだ。ただし半信半疑であることが悪いわけではないとも思うが。いずれにせよ、良いと思ったらとりあえず、そのままひとまず何も考えずにどんどん旅してしまって良いと思うが。仮に失敗したとしても、その日一日の損失が明快になるのだから、却って有効です。ちなみに旅する、とは、トーンの変遷を心の赴くままに展開し続けていく事を言う。それを実践してる最中の判断というのは、もう「絵描き脳」としか言いようのない部分で判断していて、要するにその稼動中プロセスの最終的な処理結果を信じる、というかそれに賭ける、という事です。賭ける、と言っても、そこにロマンチックな夢を見て酔っている状態では駄目で、どちらかというとそれはあきらめる、に近くて、もう既に確定してしまった方向性の中で、いまさら四の五の言わずにひたすら目前の現場仕事に集中してる状態を、賭けた、というのである。(俺は「謙虚」なヤツが嫌いだ。心の中では野心と自己顕示欲に燃えてる癖にそれを隠しやがって外見を取り繕いやがって、と言う人の気持ちもわかるが、謙虚さとは自分で自分の結果が出てない以上仕方がなくそうしているより他ない待機状態なので、それを非難するのは酷だとも思う)


ずっと家に居て、夕方から少し外出。歩き出すと冷たい空気が全身の肌に触れて爽快な気持ちよさだ。その風の冷たさだけで、ほとんど生き返ったかのような気分になる。というか、そのような気分のまま、ずんずん歩いていると、もう今ここから新しい人生といっても過言ではないほど自分がリセットされている。人生は一度きりであるが、考えようによっては、今この時のように、室内にいるときと外の空気に触れたときで、もうとてつもないほどの落差を飛び越えてしまい、まったく新たな気分になりもするのだから、それだけでもさっきの人生は終了していて、今は2回目。といって過言ではない。いや、人生にひとつの差異がそこで生じている、といって過言ではない。それはほんの些細な差異でしかないが、それが大違いなのだ。マティスの切り紙の紙の重なっているところの、色の違いと、物質としての紙の厚みの落差。その肉眼ではほとんど正確に感知できないような些細な差異が決定的なものであるのと同じように、外出時の人生はそれまでの人生とまるで違った地平にあるのだ。一日に一度外出するのであれば、1日に人生が2回あり、そう考えると仮に50年生きた場合体験する人生の総数は36500回にもおよぶ。ほとんど毎度違う人生を生きざるを得ないと思っていた方が良い。