病気


病院というのは、「病気」の「私」を治してくれる場所ではなくて、「私」の「病気」を治す、その試みを実施してくれる場所である。病院にとって「病気」というのは、たくさんの「私」から切り離されて独立した、取り組むべきインシデントの対象である。それに対して治療を行うための方法がある、との事なので、「私」はひとまず病院のやり方に協力しなければいけない。協力が不可欠なのだそうだ。(病院は「病気」に対処する事ができる、という事実と、あなたがそれを是とするか否かはあなたの自由だ、という事実を並列させて、必ずどちらか一方を「私」に選ばせる。それを選んだのは貴方だ、という証明が、いわゆる領収書になって、それさえもらっとけば、その後で病院のやる事が大体「経費で落ちる」。)


対処方法としてはこれだけの選択肢がある。それを適用して、結果を待つ。そのような形式全体を理解し、これを是とせよと、患者の私に要求される。これが今の医療の基本である。デジタル製品のSW/HWサポートと概ね同様である。これで直らなければ、それはもう範囲外です。仕様の問題です。経年劣化でどうしようもありません。いずれにせよ、「原因」はすべて「私」から切り離されて受付管理番号を割り当てられたインシデントについての報告である。私はそれを是とするよりほかない。あなたの言ってる説明は、どこも間違っていない。あなたはベストを尽くした。あなたは共同体を構成するメンバーとしてまっとうだ。説明を受けた患者は、説明者を承認して、治癒しなかった病気を抱えて自宅に戻る。


これを受け入れるしか無いのが、現代に生きる者全ての宿命であり、ほんと病気だけはしたくないというのが実感だ。かなしいものだ。ほんとになさけない。。戦場で撃たれて死ぬ兵士とくらべて、我々の方が恵まれていると、本当に言えるのか?ある意味、そのような現代医療の範疇における治療を拒否するというのも、現実的な選択肢として考えるべきかもしれないとさえ思う。自殺という行いが良い事なのか、悪いことなのか、これは僕は今、はっきり明確なことを言えない、正直迷うところなのだが、死に至る病に冒されたとき、現代医療を拒否するようなかたちでの自殺なら、アリではないかとは少しだけ思う。でも、それもまた、こんな言葉で簡単に言えるほど単純な話ではなかろう。ほんとうに病院というのは、生きている事の侘しさの極限を感じさせられる場なのだろうと思う。そういうのは決してよいことではない。今出来ることは、たった今病院に居る人々のことを想像する事くらいでしかない。