blu-rayで、アルノー・デプレシャン「二十歳の死」(1991年)を観る。フルートの不穏な旋律とともに、映画がはじまる。サスペンス的、ノワール的な雰囲気。この曲がかなり効果的だ。窓際に逆光気味で佇む男の手にするグラスが光を反射している。しかしこのあと何がどうなるのか、しばし戸惑いをもってことの成り行きを見守る。やって来た男が、伸びすぎた木の枝をはらう男に手助けされて、なぜか自分も木に登ろうとする。入浴中のパスカル(マリアンヌ・ドニクール)は突然嘔吐感に襲われ、全裸のまま苦しむ。

二十歳のパトリックが散弾銃で自殺を図り、いまも重篤な状態であることが観る者に知らされ、続いて一家の元へ親戚一同が続々と集まってくる場面が。しかしその人数がすごくて、親戚一同って、ふつうこんなにいます?と思うほどの、この映画が一時間足らずの尺であることを知っているので、こんなにたくさん登場人物が出てきて大丈夫なのかと、容量に対して内容物があふれるのではないかと、やや面食らう。

しかし大まかに、おじさんおばさんの年輩グループと若者グループに分かれて、物語は進むのだ。若者たち、ことに男性たちは、パスカルら女性たちとくらべて、見た目は誰もがそれなりにシャンとした外見なのに、妙に無邪気で子供っぽくて、まるで学生同士のようにじゃれ合い小突き合い、隠したマリファナを楽しんだりする。ボブ(エマニュエル・サランジェ)の連れてきたボブの彼女ローランス(エマニュエル・ドゥヴォス)はボブの両親とも仲良しなので一緒に付いてきたのだけど、自分以外の全員が他所の家の一族でしかも取込み中で、あまりにもアウェイな場所に来てしまったことに気づいて戸惑い、周囲に愛想笑いを浮かべながらも、内心一刻も早くここを去りたいと思ってる。

年配グループと、若者グループ、女性陣、男性陣が、緩やかに交差しながら話が進むのだが、何か劇的に物語が展開されるわけでもなく、ただ彼ら一人一人の違いと、関係の距離感と、語られる言葉から引き出されてくる背景の断片を、観ているこちら側はおぼえている限りのことを記憶に並べて、その有様を見渡すだけだ。しかし各登場人物の立場や性格の描き分けが進むことで、この親族ら一同のバタバタとした様子が、彼ら全員が寝泊まりする家の中や、連なる自動車や、寒そうな冬の景色とも重なり合い、ある触感の気配を醸し出すのを感じる。

若者同士のグダグダした牽制と慣れ合いの行く末は、冬空の下みんなで外套を着たまま始まるサッカーの場面にいたる。あんな下手くそなサッカーがあるかよと言いたくなるような、横一列になって皆でだんごになって、不器用に身体を動かしてボールを蹴って勢い余って地面に転がる。小学生以下のサッカーだけど、ものすごく映画的なサッカーでもある。

年配グループはあまり描き込まれないのに、父親の態度のいかにも父親らしさとか、他のおっさんのおどけた態度とか、若者の視点から見たおっさんの印象だな…と思う。パトリック死去の報を受けた父親が朝を待つように一人で起きている。ついさっき目覚めてベッドのシーツや寝衣が経血で汚れているのに気づき洗浄したばかりのパスカルが階下へ降りてくる(女性が生理でシーツを汚すというのは、デプレシャンにとっていったいどういうことなのか…)。まだ他の者にはパトリックの死を告げてない、朝の七時半になったら告げよう、もう間もなくだねと、父は娘に言う。パスカルは嘆きの表情をたたえて部屋の奥へ姿を消す。

デプレシャンのデビュー作でもあり、1991年の映画とのことで、個人的に感じた印象として本作は80年代末から90年代にかけての時代の空気を、濃厚に含んでいるのではないかなと思った。この年代あたりから、過去への参照に対する感覚が大きく変わった。非常に即物的で、意図も脈絡もなしに、手当たり次第に、引っ張ってくることが出来るようになった。そのとき、シレっと、唐突に、映画だと言って、こういう映画を作った。その引っ張り方に特有の時代感は残るというか、本作もまたその時期だったからこそ、このようなものになったのではと思った。