千の扉


柴崎友香「千の扉」を読んでいて、まだ半分くらいまでしか読んでないのだが、どことなく戦時下パリの状況を描いたノンフィクションの「パリは燃えているか」に似ていると思ったりもする。様々な人の様々なエピソードが、まるで偶然の微かなリンクを辿るようにして、ほとんど無軌道にあっちへ跳びこっちへ跳びしながら、どこまでも無計画につながっていくような感じだからだろうか。あのこととそのことはたぶん無関係で、そのことが在っても無くても、あのことには影響がない、と断言することは、たぶんできない。もちろん何かの関係があったとか影響を与えたと断言することもできない。しかしすべては単に共存し、同じ時間上にあらわれて消えるのだ。それらの気の遠くなるようなくりかえし、同時多発、消失が起こり続ける。それこそが当時のパリだったし、「千の扉」の、その瞬間だった。その舞台となっている団地はその間取りや外観が、かつて過去の時間、別の場所に、ほぼ同じ様相で存在していたかのような姿で存在してあり、そこで暮らす人々の関係や事件も、まるでかつて起こったことの反復のようでもあり、人がそこで時間を過ごすことの呆れるくらい同じような変化の過程でもあり、しかしその同じようでありながら、しかし確実にどこかが違う記憶をめぐって、登場人物たちは空間のなかを動きまわり、時間すらさかのぼり、過去の出来事は現在と並列され、ほんの隣での出来事であるかのように描かれる。


主人公の女性は39歳で、夫は少し年下、義理の祖父は80半ばで骨折して退院後は義理の父親と母親の家で静養していて、母親の子供時代の同級生も、夫の同級生もその妹もその団地に暮らしている。夫が子供時代にたまたま見た特撮ヒーロードラマの撮影現場にいた若い俳優と女優、公園のベンチにずっと座っているおじさんも出てくる。人々は自分の見えているものしか見えないし、自分の考えのなかでしか他人の考えを読めないし、想像の範囲には限界がある。団地の間取りはどの部屋もほとんど同じ(微妙な違いはあるようだが)はずなのに、隣人の暮らしはまるでわからない。とはいえお茶をご馳走になって、その家に仏壇があることを知ったりすることもあるが、あまり不審な行動ばかり取っていたら怪しまれてしまう。彼らの持ち時間、つまり生きてきた時間の中で堆積された記憶の量がそれぞれ違い、接する部分もあったりなかったり、食い違っているところや誤解しているところもあり、いずれにせよそれはそれ、一つ一つの窓は閉じている。手探り同士で、前も後ろも左右も何もわからないまま進むようなものだ。そこで何を対象にして、何を語るのか。ある空間の中に不特定多数の現象が生じていて、ランダムサンプリングのように適当なエピソードをピックアップして語ると、その空間と時間に起きた出来事の全体をざっくり説明したことになるだろうか。いや、そもそもその空間と時間に起きた出来事の全体には、思い出された過去も含まれるから、それも入れたらむしろ全容の定義自体ができない。不思議なのは、何もかもが、すべてが、実際に起こっている/起こったことだということ。起こってない事は、無い。これはほとんど、気が遠くなるような話だ。そこに、何か素晴らしい奇跡が起こって、心と心が通じ合うとか、あなたの考えていることがわかるとか、そういうことはきっと無いだろう。しかし、だから絶望的だというわけでもない。不思議なのは、そこに絶望的だと悲観したくなるのとは違う、何か明るい期待の要素が、たしかにあることだ。それが何なのか、それを考え、それをめぐって努力することに対して肯定的でありたいし、その力に加わりたい、ということなのです。