ボナール(1988)


東京都美術館「ポンピドゥー・センター傑作展」に展示されていたボナールの「浴槽の裸婦」を観ているうちに、自分が十七歳になってしまって、その目でそれを観ているような妄想の中にしばらく浸った。


はじめに褐色系の地味な色を置いて、その上の、光の当たる箇所に明度の高い色を置いてモデリングしていく。明暗を表出させるためではなく色彩を響かせ合うためだが、しかし立体表現も兼ねている。このときの色彩の選択に、ボナールが多く参照された。


講師から、もっと画集を真剣に見ろと言われたのだ。絵の中に、何が起こっているかをよく観てみろと言われた。


バスタブに寄りかかっている裸婦の絵である。頭部の髪の毛の色と、白い壁に挟まれて少しだけ見えている背景の同系色がひとつながりに見えて、画面の上部から背景、頭部、身体、足先へと連なって画面を左右に分かつような構成になっている。構成というより、そのような川の流れ、と言った方が近いかもしれない。なにしろ、そのように絵の中で、何かが流れている。その動きの感じがある。


物質的にも空間的にも別次元にあるはずの画面奥の空間と頭部とが、画面上では一つながりに見えるときに、現実とは違う絵画としての空間が立ち上がっている。目で見る先が、絵の中を溺れるようにめまぐるしく動き回るようになる。足とバスタブの間に落ちる影は生の黒で、奥へ引っ込まずに物質として前に出てくる。床のタイルもカーテンも、奥へ引っ込むべき各要素が画面の上にちりばめられて浮遊しているかのようなのだ。そしてそれらを左右から大きく包み込む白い壁の白さが、雲の柔らかさで圧迫されるような量感として、細かい緒力とせめぎあいながら飛び出てくる。手前にあるべき裸婦の身体が、それが身体であることは確かだと思う以上ではなく、空間の多様な運動を活発にさせるために置かれたきっかけのようで、弓なりに突っ張りつつ、周囲からの影響を受け続けて、収集の付かないほどの光を反射し続けているだけだ。少し後ろを向こうとしているような角度の横顔にあたる光を見て、この顔!ここの学生は、どいつもこいつもこの描き方を真似する。だから僕も真似をする。それは真似をするというよりも、もっと深いところにしっかりと定着してしまっている。それに頼り切っていて、それしか見えてない。絵の具の色彩と硬さ、質感、それらの重なり、混色のはじまる瞬間と乾燥。上手くいってるのかどうかは、後で気づくしかない。ふと我に返って画面を見直すと、思いもよらないような、ふわふわとした柔らかい色調のなかに、たくさんの異なる質が自立的に蠢いていて、偶然が幸運を呼んで、おそろしいくらいに上手くいってしまった箇所ができている。自分の絵が、突如としてあまりにも美しくなってしまって、一気に恍惚と緊張が押し寄せてきて、思わず絵の前に立ち竦む。もう加筆したくなくなって、このままじっとしていたい。しかし午後は長かった。これから長い時間をかけて、目の前のものを結局少しずつ台無しにしていくのだとしたら、まったくいつもの通りの空しい苦役だなと思う。


高校は男子校だったが、狭い場所で、妙に思い込みだけは強くて、そして相当思い詰めている感じの十七歳の高校生で、たぶん僕はあまり面白い子ではなかった。