風呂の蛇口が壊れて栓がきちんと締まらず、お湯が止まらなくなった。温泉かけ流し状態である。水が出ないのは困るが、止まらないのも同じくらい困る。仕方がないので、外の元栓を締めたら止まった。

これだともちろん、家のなかの全ての水供給が止まったままだ。ほぼ生活不能、このままでは、やって行けないことになる。至急修理を請いたいところだが、運悪く日曜日の夕方なので管理会社に電話しても不通である。なすすべないので、今日はあきらめて、むしろいつか来るべき災害時のリハーサルだと思って、浴槽に溜めた水を有効活用し、諸事取り行う。

思えばここも古いマンションで、築何十年とかで、我々が住んでからも相当な時間が経過した。ちなみにこのブログをはじめたのは2006年6月頃で、ここに引っ越したのはたしか同年11月である。まじか、いったい何年経つんだ…と、なんかやってることも生活も、ほとんど何も変わらぬうちに、時間ばかりが過ぎる。おそろしいことだ…などと書きながら、べつにおそろしいとも思ってなくて、ただ漫然と水のように、気づいたらそれだけ時間が経っているという感じ。

まあ、水回りはさすがに劣化してくるものだろうが、でもうちはなぜか、不思議なほど電化製品が壊れない。テレビも冷蔵庫も二十年以上壊れてないはず。洗濯機は音がうるさい(と妻が言う)から、数年前に買い替えたけど、壊れたわけではなかったはず。家具や調度品も変わらないので、室内の景色が昔も今もそのまま。本棚には当たり前のように十年とか二十年以上前からの「未読本」も多数ある。すべてがこの調子だから、時間が止まっているとは言わないがその流れは緩慢で、それは二人の住人も同じで…と思いたいがどうか。そこは自覚の問題か。

整形外科で診察とリハビリ。順調に快復している、とのこと。同じ薬が、さらに二週間分処方され、経過観察となる。

久々の店で、イタリア野菜惣菜盛り合わせ、芽キャベツのローストに牡蠣ソース、茹でジャガイモにホタルイカソース、そして生桜海老のパスタ。

ワインはすべて自然派。白とオレンジを、さっぱりから濃厚まで、皿ごとにグラスで。〆にグラッパで。

帰ってから新玉ねぎ薄切りとタコのマリネ。これはいつでも美味しい。再び呑む。

DVDで豊田四郎「駅前旅館」(1958年)を観る。かつては上野にも、おそらくはその他の都内の多くの都市にも地方にも、今とは比較にならないほど多くの旅館があり、番頭が駅前や店先で客の呼び込みをし、周辺の同業者や商人や、怪しげなチンピラまがいの客引きらによる共同体があった。旅行会社のツアーコンダクターは旅館主や関係者らと公私に渡って付き合いがあり、仲居の女性も始終男性らの眼に晒されていた。

調子のいいフランキー堺や、舌先三寸な森繁久彌や、いかにも面白い雰囲気に満ちた感じの伴淳三郎の、いかにもコメディといった感じで、賑やかでバタバタとあわただしい話の運びで、しかし今の目で観ても上滑りすることなく、なかなか面白く感じられるのは、ブレーキもリミットも効かない勢いで突っ走る「貸間あり」のような狂騒的スピード感ではなく、普通の映画に近いというのもあるけど、なにしろ森繁久彌が良いのだと思う。森繁久彌ってやはり多彩で上手いなと思う。まだ無名に近かった頃の渥美清も、森繁久彌を尊敬したのだろう。

森繁久彌淡島千景の、この二人はくっつくだろうと予想できるような親密さがあり、その一方でフランキー堺と三井美奈との、あれよあれよという間にくっついてしまう若い関係がある。その三井美奈が朝、眠っている森繁の寝室(というかわずかな隙間みたいなスペース)に入ってきて、窓を開けてハタキでばたばたするとか、淡島千景のやってる居酒屋で酔客らを相手にしてる感じとか、そういう些細な、何でもない日常の描写が一々自分は感じ入ってしまう。ああこういうのいいなあ…と、こういう距離感で営まれてる日々こそ、昔だなあと、それが上野というあの場所のことでもあったのだなあ、と。そんな感慨に耽らせてくれる、

森繁久彌は古風な番頭であり、気になっていた女と再会したのに、相手のちょっとした言動にへそを曲げたり、舌先三寸で軽薄なようでいて、じつはプライド高く頑固なやつである。旅館の主人と女将は、今どきならほっといても修学旅行だの団体だのの予約が入るので、もはや番頭の舌先三寸の「技術スキル」なんて必要ない、商売の仕方も時代も変わったのだし、もう彼は用済みであると、薄々感じている。森繁は旅館を後にし、上野の地をも離れることになるだろう。彼を追ってきた淡島千景と田舎へ都落ちみたいな、良かったようなそうでもないような、単なる笑いではない少しのほろ苦さを感じさせつつ、最後は上野駅から吐き出されてくるたくさんの人々を捉えたラストショットで終わる。

グリフィス「東への道」のクライマックスの流氷場面。氷に伏せている、哀れで美しいリリアン・ギッシュ、冷たい氷の上に身体を横たえて、髪や腕が水に浸かっていて、おそらくその体温も気力も、冷たい川へみるみるうちに吸い取られているのではないか。瀕死のオフィーリアのような、想像するだけでも痛ましい状況。

彼女を乗せた氷が、川をゆっくりと流れていく。そこへ登場するのは、ビシッとかっこいい二枚目のリチャード・バーセルメスである。探しあてたリリアン・ギッシュの有様に驚き、そのあと岸辺でやや逡巡し、早く助けに行けと観る者を一瞬イライラさせ、しかし次の場面では人が変わったように勇ましくも割れた流氷の上を見事にぴょんぴょんと飛び移りながらリリアン・ギッシュのもとを目指す。おお!さすがだ!がんばれ、と一心に見つめるしかしその先には轟々と音立てて滝が待ち構えており(無声映画だが)、なんだそれは、ひどいな、そんなのアリか、万事休す、リミットが迫る。

もはや瀬戸際。これ、もうダメじゃないの、どうみても無理ではないかと、一瞬思わせた次のカットで、男性が女性の元へたどり着き、同じ氷の上にいる。あわや危機一髪、男性は女性を抱きかかえ、やがて二人は無事、岸辺にまで辿り着く。

これはフィクションで、この面白さは緻密に組み上げられたもので、だからその細部を一々思い出して楽しむことができる。こういう面白さはしかし、以後のテレビの登場によって役割を奪われたとも言えるだろう。ハラハラドキドキをやらせたら、テレビにはかなわない。もちろんテレビがスリルに満ちたすごいフィクションをたくさん作れるというわけではない。

たとえば、大相撲の優勝決定戦がテレビ中継されている。歴史的な初優勝を成し遂げるかもしれない、ひとりの力士の姿。彼は英雄になるか否かの瀬戸際にいる。スポーツ選手のここ一番、待ったなしの決定的な成功/失敗の瞬間を、我々はテレビで目撃する。

中継こそテレビであり、現実の一瞬先、何が起こるかわからない。リリアン・ギッシュは演技をしているわけだが、優勝決定戦に臨む力士は演技者ではない。どちらが勝つかは、やってみないとわからない。助かるか助からないか、そのスリルはいつでも供給される。しかもそれは演技ではなく、フィクションでもない。

俳優がテレビに出ないというのは、大事なことかもしれない。氷上のリリアン・ギッシュは「風雲!たけし城」に出演していたわけではない。そのことは、ほんとうに良かった。

僕はもちろんカラオケは好きではなくて、なぜかと言うと歌うことが楽しくない、自分に自分の歌う声が聴こえてくるのを、楽しむことができない、だから自分自身はまったく歌わないし、お前も歌えと言われて一々拒否するのも面倒くさいし、カラオケ店内は狭くて居心地が悪いし、そもそもカラオケ店の看板が下品で醜悪だし、料理も飲み物もまるで美味しくなさそうだし、さらに一緒に行った同席の人の歌声が耳障りだったり、やかましかったり、選曲が自分の嫌いな部類の曲ばかりだったりすると、ますますうんざりして、気が滅入って、行き場のない怒りさえ湧いてくる。

そういう理由で、カラオケに行くのを僕は拒否するのだが、ただ他人の歌を聴くのが一切すべてダメなわけではない。耳をそばだてたくなるような歌を歌う人も、いることはいると思ってる。たとえば単純に客観的に、歌唱力のある人の歌なら、それなりに聴けるのかもしれないが、ただしそれも曲によるので、嫌いな曲を朗々とやられたらむしろ最悪だ。しかもカラオケで歌われそうな歌で嫌いじゃない曲を他人が選択する可能性は少なそうだ。

上手い下手ではなくて、僕が聴きたくなるような歌を歌う人は、どちらかと言えば男性より女性に多くて、たとえばの話だが、それもあまり歌の上手くない人が、付き合いで仕方なく歌ってるような、選曲は、なぜか一昔前のややスローな曲で、それをかなり危なっかしい、頼りない音程で、字幕の歌詞を追いつつ、楽しむ気もなく、あくまでも義務的に、まるで仕事や家事をするときのような態度で歌ってるような。音程は高音域でとくに危うくなり、ときには泣いたような声になる。こういう歌い手の歌に、なにか得体のしれぬ抒情を感じ、あ、このまま聴いていたい、となる。

つまらない歌が、装われた抑揚の歌声に乗ることで、なぜか耳を捕らえる。はかなくて、刹那的で、かすかな感傷を含んだ、この状況すべての下らなさとバカらしさを、そのまま包んで肯定してしまうような、もうこのまま、ごちゃごちゃと考えなくてもかまわないと、甘くあきらめさせてくれるような、そういう歌に聴こえてくる。そこまでだと言い過ぎだけど、同行する相手がそういう歌い手なら、僕も付き合うのにやぶさかではない。

自分の運転する車が、たくさんの車と一緒に、コース上を走っている。

長いストレートコースを、かなりの高速で走っているのだが、他車もほぼ同じ速度で走っているので、お互いの位置関係はかすかにしか変動しない。まるで全車が静止しているような、凪いだ海の上を、皆が微動もせず浮かんでいるようでもある。

やがて後ろから近付いてきた車が、ゆっくりと自車の横に並ぶ。そのままじわりじわりと前に出て、やがて自分のすぐ前をふさぐように、車体後部をこちらに見せつける。

自分はそれをしげしげと眺める。消灯したテールランプと、ガスを排出するマフラーの口と、高速回転するタイヤが、煤や汚れに塗れながら、こちらを見返している。

自動車を前から見ると、人の顔みたいに見えるけど、車を後ろから見ると、見てはいけない、たとえば女性のスカートの中を細部まで凝視してるような気がする。

毎朝、髭を剃るときに、首と肩の痛みに耐えねばならない。なぜ髭剃りすると痛むのか不思議に思ったのだけど、鏡の前で顎下を見るため上を向くときに痛むのだ。これまで無意識にやってきた動きなので、痛む理由がわからなかったのだけど、頭を後ろに反らすから痛い、そういうことだった。髭剃りする人は必ず一日に一度、目線はそのままにして上を向くのだ。

五十肩は肩や腕の動きによって痛みが増したり減ったりする。じっとしていれば痛くないけど、腕を一定の高さ以上に上げると痛い。たとえばボトルを持ち上げてグラスに注ぐという動作が、たいへん苦痛だったりする。

しかし神経痛は五十肩と違って、じっとしていても痛い。動かすとむしろ痛みが紛れるが、痛いことは痛い。どこが痛いのかを示すのも難しい。日によって、あるいは状態によって、痛みの箇所も変化する。痛みの中心が、気まぐれに二の腕を上下してるような感じだ。

肩や腕や首の角度のどこかに、痛みをあまり生じないフラットスポットがあるようで、それを常に探している。あ、今、あまり痛くない、ならば今この状態での、腕と肩の位置がフラットスポットのはずだと、そう思うのだが、同じ姿勢をしたつもりでも今度は痛かったりするので、なかなか発見が難しい。

おそらく快復するにしたがって、そんなことも忘れてしまうだろう。忘れてしまうとはつまり、肩や腕や首の全可動域がフラットスポットになるということだ。そしてフラットスポットという言葉そのものを忘れる。そんな愚かな考えをひたすら巡らせていた日々のことも、けろっと忘れてしまうのだろう。