グリフィス「東への道」のクライマックスの流氷場面。氷に伏せている、哀れで美しいリリアン・ギッシュ、冷たい氷の上に身体を横たえて、髪や腕が水に浸かっていて、おそらくその体温も気力も、冷たい川へみるみるうちに吸い取られているのではないか。瀕死のオフィーリアのような、想像するだけでも痛ましい状況。

彼女を乗せた氷が、川をゆっくりと流れていく。そこへ登場するのは、ビシッとかっこいい二枚目のリチャード・バーセルメスである。探しあてたリリアン・ギッシュの有様に驚き、そのあと岸辺でやや逡巡し、早く助けに行けと観る者を一瞬イライラさせ、しかし次の場面では人が変わったように勇ましくも割れた流氷の上を見事にぴょんぴょんと飛び移りながらリリアン・ギッシュのもとを目指す。おお!さすがだ!がんばれ、と一心に見つめるしかしその先には轟々と音立てて滝が待ち構えており(無声映画だが)、なんだそれは、ひどいな、そんなのアリか、万事休す、リミットが迫る。

もはや瀬戸際。これ、もうダメじゃないの、どうみても無理ではないかと、一瞬思わせた次のカットで、男性が女性の元へたどり着き、同じ氷の上にいる。あわや危機一髪、男性は女性を抱きかかえ、やがて二人は無事、岸辺にまで辿り着く。

これはフィクションで、この面白さは緻密に組み上げられたもので、だからその細部を一々思い出して楽しむことができる。こういう面白さはしかし、以後のテレビの登場によって役割を奪われたとも言えるだろう。ハラハラドキドキをやらせたら、テレビにはかなわない。もちろんテレビがスリルに満ちたすごいフィクションをたくさん作れるというわけではない。

たとえば、大相撲の優勝決定戦がテレビ中継されている。歴史的な初優勝を成し遂げるかもしれない、ひとりの力士の姿。彼は英雄になるか否かの瀬戸際にいる。スポーツ選手のここ一番、待ったなしの決定的な成功/失敗の瞬間を、我々はテレビで目撃する。

中継こそテレビであり、現実の一瞬先、何が起こるかわからない。リリアン・ギッシュは演技をしているわけだが、優勝決定戦に臨む力士は演技者ではない。どちらが勝つかは、やってみないとわからない。助かるか助からないか、そのスリルはいつでも供給される。しかもそれは演技ではなく、フィクションでもない。

俳優がテレビに出ないというのは、大事なことかもしれない。氷上のリリアン・ギッシュは「風雲!たけし城」に出演していたわけではない。そのことは、ほんとうに良かった。