生まれて初めてのことだが、香水を買った。自分用ではなく贈りものとして。

その際、試しに自分の手首に少量塗布して馴染ませるということをした。それはほんのわずかな、これならおそらく誰も気づかないと思われるほどささやかな香りに感じられたのだが、その日帰宅して自宅で夕食のとき、すでに入浴を済ませたあとにもかかわらず、皿や箸を手にするたび、ことあるごとに香りが届くので、これはちょっとさすがに、食事時には香水が不向きというか妨害であるのは本当のことだなと思った。

今日ではなく数日後に贈呈するつもりなのだが、いまこの香りがすぐそばの相手に届きはしないかと、もしバレたらフライングで今日渡すことになるかもしれないと思った。

翌朝になったら、手首を鼻に近づけるとかすかにわかる程度に香りは薄れていた。このくらいが、ちょうど良いのではとも思った。

ホタルイカの豊漁はけっこうだが、近所のスーパーだけの問題かもしれないけど、今年は枝豆の出荷が例年より遅くないか。茹でたばかりの枝豆をビールとともに食すのは、毎度のことながら季節の到来をはっきりと確かめることのできる重大なイベントである。例年ならすでにいくつもの品種が食品売り場の一角を占めているはずなのに、まさか今年は不作とか、そのようなことがないのを願う。

あとはカツオのことも心配している。最寄りスーパー鮮魚売り場の現状に一抹の不安をおぼえる。今年の千葉県産のカツオは、いつ頃出回りますでしょうか。

降る日でも、晴れの日でも、部屋の窓を開けて、室内に風を呼び込みつつ、注がれたビールのグラスが曇るのを見て、茹でた枝豆から昇る湯気を眺めて、刻んだ青葱と生姜、薄切りの玉葱に茗荷(にんにく不要派)、準備は万全ですので、あとはどうか新鮮なカツオが手に入りますように。

今年はホタルイカが豊漁らしく、お店で見かけるホタルイカは、大きくて身もふっくらしていて、たしかにホタルイカの当たり年かもねと思うし、我が家の食卓にものぼるのだが、あらためて考えるにホタルイカというのは、いくら立派な身といっても、せいぜい数センチの個体であるけど、あの小さな身体の中に、脳も内臓器官も神経も筋肉も含まれている。生物でもあり、食物でもある。

すでにボイルされているホタルイカは非・生物だが、各器官はそのまま身体の秩序をおおまかにとどめている。たんぱく質だの脂質だのミネラル分だのを、器官ごとに備えている。

ホタルイカを食べて美味しいというのは、この各器官それぞれの成り立ちの違いが、ホタルイカとして一つに組み合わさっていて、その結果を美味しいと言っている。何を言いたいのかと言うと、このサイズの内側に、腕や頭部や内臓などの器官の違いが、そのまま味の違いとして表現され、それが口中に広がる、そのことがすごい、すごいと思いませんか?と、言いたい。

だって生きるために身体に内包された各器官の役割が、そのまま味の違いになるだなんて、そう感じさせること自体が、どこかでホタルイカ同様に、自分も生物=食物であることと、遠くでつながる。

そのことを美味しさによって、その向こう側に発見させようとしている。自分よりはるかに巨大な口が開いているのに気づかせようとしている。

映画「オッペンハイマー」は、観たほうがいいのかな…とは思うのだが、何となくあの、たぶん相変わらずな、いかにもクリストファー・ノーラン的な、とりつくしまのない時間の推移を眺めるだけみたいな、壮大な書割りがひたすら流れていくような映画なのでは…と勝手に想像している。

たしか前作「テネット」公開時も、同じように、何となく気が進まないと思ったまま、結局スルーしてしまったのだった。「テネット」と違って「オッペンハイマー」は史実を取り扱っているけど、ならば「ダンケルク」が、やはり史実をモチーフにした映画だったけれども、あれもじつに不思議な、人を戸惑わせるようなところのある映画だった。

やはり良くも悪くも、映画っぽいコクというか味付けが薄いのだと思う。だから中華料理なのにあまりガツンと来ないというか、いや、勝手に中華料理だと思った自分が悪くて、じつは今どきな創作料理の店だったという感じか。だからなるほど、これはこれで悪くないけど、また食べたいかと言えばどうだろうと。同じ店でもメニューにある違う料理なら、また違うのではないか、いやどうだろう…と。

RYOZAN PARK巣鴨で【古谷利裕 連続講座 アラカワ+ギンズを通して観る「近代絵画」】。以下内容メモより自分なりに考えたことの備忘です。まず二十世紀初頭の芸術家の多くが、主に十九世紀に活躍した科学者の言説(相対性理論はもうちょっと後)をもとに「四次元」に対する興味を高めていた。その概念とは、絵画における知覚の拡張の可能性を下支えしてくれる新しい何かだった。

ハイパーキューブで考える。ハイパーキューブとは、三次元における立方体を「W軸」(三次元の外)へ並行移動させたように見える。立方体が斜め後ろにズレて、元の姿と二重に重なり合ったような状態である。

三次元における立方体とは、六枚の正方形で出来ている。つまり二次元要素が六つだ。ハイパーキューブは、八つの立方体で出来ている。つまり三次元要素が八つだ。

ところで立方体を平面で切断した場合、形は四パターンありうる(三角形、四角形、五角形、六角形)。つまり二次元世界の住人は、我々にとっての立方体を、上記四パターンのいずれかで知覚していると類推できる。だとすれば、三次元世界の我々は立方体を、ハイパーキューブを切断した場合に出来るパターンの一つとして知覚していると類推できる。

四次元を三次元化するために回転と切断を用いる。回転するごとに切断候補である平面の様相は移り変わっていくのを、任意の位置で切断が行われるとする。ここでの切断とは、高次元の連続体を一つ下の次元で切断することである。それは大量生産品の金太郎飴的な切断=レディメイドでもあり、高次元の連続体を帰納的に類推するための操作でもある。

ただしここでの出現は物体そのものではなく鋳型のようなものである。それは物体ではなくて、n-1次元に現れる映像・鏡である。そして切断面=高次元を類推させる鋳型、n-1次元によって、必然的に失われる厚みのことが、おそらくはデュシャンによってアンフラマンスと呼ばれた何かである。

デュシャンは、かつては運動を直接(未来派的、キュビズム的に)表現したが、じょじょに「運動の可能性を内包する切断」を試みるようになる。小さなナイフを握ることで、ナイフの全面の感触を一度に得られるとデュシャンは言う。それは愛の行為、性行為をも連想させる。それがデュシャンにとっての四次元(性欲に支えらえた認識、知覚)を予感させる手触りであるだろう。

ところで、アラカワ+ギンズは、四次元から三次元、二次元…という段階的階層構造そのものを疑っている。彼らにとっては、次元=ディメンションであり、ディメンションは「でたらめの無茶苦茶」にある。

ティントレット「スザンナと長老たち」を様々な角度から「中性化」していく試みとして、たとえばサイズ、視線、触覚、質、行動理由、欲望、もっとたくさんの、さまざまな要素から、物語の起動する前にそれらを取り外して解体する。欲望の解体、主観性の中性化を試みる。

(視線に対する中性化の試行は--思考の位相がまるで違うとはいえ--マネの問題(中心や視線方向の欠如による絵の目的の失調、辿り着かない物語)を思い出させると思った。)

また身体の部分における各要素(頭、首、胸、腕…)が、それとは別のものに分岐していく様をとらえた作品においては、ある空虚(ブランク)から、人体の要素と環境の要素が、それぞれ分岐して生成されることが示されている。

「空虚が≪私≫を鋳直すように、私も空虚を手探りする。」…と、アラカワ+ギンズは言う。

≪私≫ははじめから空虚(ブランク)と不可分で、たまたま結果的に分岐した片方として、空虚(ブランク)も含み込んだ上での≪私≫である。「カントールの塵」のごとく、サイズを問わず(スケールの基準をもたないので、大きさをもたない)、同構造であり、内側にブランクを含み、常に外的/内的である。

(そして、そのような空虚(ブランク)を含む存在(人間、身体)に対して、彼らはきわめて強迫的であり、意味で埋める意欲がある。それを未然や可能性のままに置きっぱなしにできる鷹揚さは、あまり感じられない、と。)

「意味のメカニズム」で、真空管(マグネトロン)をモチーフにしていると思われる作品については、それが真空管であるという話に、僕は驚いた。大発見…というか、それは今まで誰も指摘していないのではないか…と。それこそデュシャンのチョコレート摩砕機の発展した、電子的最新バージョンのような、ある時間を経て、ふたつの作品がそんな風に響き合っていたのかと…。

しかし、今さらながら「意味のメカニズム」の、意匠としてのカッコよさはすごい。今回のように、読み解くことの面白さが全開なのはいつもの古谷利裕講座ならではだが、たとえばそこに読み取るべきものなどないと仮定して、それはそういう「美しいだけの作品」だとして、単にボケっと眺めているだけでも、それは少なくとも、グラフィックとして非常に美しくすぐれたものである。(僕が所持しているのは1988年西部美術館での「意味のメカニズム」展図録である。これを観たわけではなく、後になって図録だけ買ったのである。)

それはデザイン的に優れているということでもあるが、それだけではなくこの美的な「意味不明」を、いくら見つめても決してわからないであろう何らかの器として、そのまま一応「鑑賞」が成り立ってしまうということ、それが肝心な気がする。

(文字・言語が書き込まれているなら、それは読まれてしまうだろうが、その意味が、かならず破綻するのであれば、なおさら。)

(意味の破綻、論理構造の外を示しているのだという意味を受け取るとは何か。それを解さないことのほうが、意味の破綻を受け取ることに近くはないか。)

アラカワの作品の購入者は、とくに80年代から90年代にかけて沢山いたのかもしれないが、その作品がもたらす「意味内容」というか「何かを言いたげ」でありながらも、あの硬質な被膜で人の気を冷たく弾き返すかのようなあのイメージを、どのように受け取ったのか。作品売買は必ずしも「私は必ず受け取ります」という誓いの証しではないだろうが、それでもそこで受け取られた何かが、そのときどうなり、今はどうなっているのか、それは、同じ人間として想像できることなのか、何かちょっと不思議な気がする。

(作品の売買において、作家は購入者に対して、とくに過大な期待はないし、作品が購入されたことにより、問題が一歩解決に近づいたわけでもない。それこそ経済活動の一環として、同次元間での既定のやり取りに過ぎない。が、それに全く「意味がない」わけでもなくて、それは購入者とか個人単位への期待というよりは、それらを含む大きな未然の何かに対して、何らかの期待は芽生えるはずだ。)

差別は、ある明確な行為実績をともなわない限りにおいては、犯罪ではない。このことは意外に忘れられがちだ。誰それは差別主義者であるか否かを、あたかも誰それが法に抵触しているか否かのように語りがちだ。

たとえば犯罪なら、ことに軽犯罪、公共施設とか、交通ルールとか、そういうことへの違反行為なら、それを規定するルールを考えて、すれすれでOKとか、一線踏み越えたらアウトとか、自分なりに判断できる。堂々と、気をつけていられる。それを守ろうとか、ちょっと踏み越えようとか、そう考えること自体が社会性の範疇にある。

しかし差別そのものは取り締まれないし、差別しないように気を付けようと考えることは不可能である。差別は行為ではない。差別にはかたちがないし、目に見えない。差別を、これと名指すことができない。

だから、これはすれすれでOKとか、一線踏み越えたらアウトとか、そういう考え方をしている私は、すでに何かを踏み越えてしまっている。それは、そんな私を、外的な何がどう許してくれたとしても、それに関係なく、私はすでにアウトだ。

で、私がアウトなら、それが何だというのか。そんなことは、すでにわかっていたことではないか。

こうして毎日何かを書いていることが嫌になる理由があるとしたら、それは自分が充分に主観的でもなければ充分に客観的でもなく、アウトであることに無意識である、その中途半端さを無反省に続けていることへの嫌悪感もあるのだろうと思う。

そしてなおもこうして書いてやり過ごすことの性懲りもなさというのがある。とはいえ、これは「より良い人間になるためのエクササイズ」とかではないので、それは仕方がないことである。

ただ、何事かを訴えてくる人物を前にしたとき、それは私の立つ境界線の位置や、社会性の範疇で考えるべきことではなく、むしろ、場合によっては、私が反社会的であることすら求められていると解釈すべき事態もありうる。現実に対する無知が、もっとも重い罪であるというなら、それはありうる。すでに私はアウトである。

それはルールの共有化ですらない。何事かを訴えてくるあなたと私とで、きちんと妥協案を探りましょう。そのことに誠意をもって対処しますよ、ということですらない。相手は決して納得しない。彼と同じトイレで糞をし、彼と同じ釜の飯を食う、それを私と彼の家族で、これまでそうであったかのように、一緒に暮らす。世界中の彼と私が、そうならないかぎり、彼の訴えは永遠に続く。当然のことだ。私自身が今を明け渡さないかぎり、彼はあきらめない。それは私にとって合理的ではないし、説明可能な領域を越える。しかし、そういうことなのだ。

2008年にNHKで放送されたテレビ録画より、チェルフィッチュ「フリータイム」を観る。ものすごく久しぶりに、チェルフィッチュを観た。当時、六本木のSuper Deluxeで実際に観たのが、放映されたこの日の舞台だったのかはわからないが。

喋ってることと身体の動きは、こうしてこの世に生きてきた以上、先天的にちぐはぐなもので、それらを統合させた私自身の表現にできないという感覚、かつそれが出来ている人間は所詮その制度下の者たちなのだから、いよいよ私たちは腹を括って、彼らとはまったく別の通信手段をもたねばならないという、ある危機感をもとにした切迫意識を、よくぞここまで具体的に見せてくれたものだよなと、その凄さにあらためて驚いた。

まず、映画ではこれは不可能だよな、と思う。映画は登場人物を映し出す。映し出された側がどう思おうが、その人は登場人物であり、彼に関する問題に付き合う構えを観ている側は準備する。

演劇は、ことにこの舞台のような場においては、ああしてばらばらと数人がステージ状の各地に点在して、おもむろに誰かが喋りだすというとき、映画の物語構造がスタートするのと同等な何かが動き出すようには到底思えない。それをシレっとそのようなフリをしてくれるのが、一般的な演劇なのだろうけど、チェルフィッチュはそうではない。

ファミレスで、毎朝セットでいくらだかのメニューを注文するという人物が誰で、その店の店員が誰なのかを、この演劇のなかで特定する必要はなく、だからここには切実な何かがありながらも、舞台に立つ役者全員が非当事者という感触もある。作品全体で、そのような人物がこの世界にいるのだというレポートのようでもある。これは第三者的立ち位置の確保で我が身の安全を確保しつつ出来事を語るということではなく、語ること自体への強い配慮、当事者への慮りを語りのなかに含ませたいという思いからではないかと想像する。そのような配慮が、演劇にも必要であると言ってるようにも感じる。

語り手の分散化は、責任の分散化でもあり、何らかの問題回避でもあるかもしれない。しかし、いやそれはそうではないと、これは生きるための戦略であり、その試行なのだと考えたら、それもそうだと思う。

とはいえラストで唐突に、ファミレスでの三十分がときには永遠に等しくもなるという言葉が出てくることには、やや驚くし、それでいいのか…と思いもする。その結論で「闘いに勝利」できるのかしら、と。まあたしかに、朝の出勤前に、ファミレスで三十分読書してたとして、ある箇所に「永遠」を感じてしまうこともあるだろうけど。つまりはそういうことを言ってるのだろうけど…。