RYOZAN PARK巣鴨で【古谷利裕 連続講座 アラカワ+ギンズを通して観る「近代絵画」】。以下内容メモより自分なりに考えたことの備忘です。まず二十世紀初頭の芸術家の多くが、主に十九世紀に活躍した科学者の言説(相対性理論はもうちょっと後)をもとに「四次元」に対する興味を高めていた。その概念とは、絵画における知覚の拡張の可能性を下支えしてくれる新しい何かだった。
ハイパーキューブで考える。ハイパーキューブとは、三次元における立方体を「W軸」(三次元の外)へ並行移動させたように見える。立方体が斜め後ろにズレて、元の姿と二重に重なり合ったような状態である。
三次元における立方体とは、六枚の正方形で出来ている。つまり二次元要素が六つだ。ハイパーキューブは、八つの立方体で出来ている。つまり三次元要素が八つだ。
ところで立方体を平面で切断した場合、形は四パターンありうる(三角形、四角形、五角形、六角形)。つまり二次元世界の住人は、我々にとっての立方体を、上記四パターンのいずれかで知覚していると類推できる。だとすれば、三次元世界の我々は立方体を、ハイパーキューブを切断した場合に出来るパターンの一つとして知覚していると類推できる。
四次元を三次元化するために回転と切断を用いる。回転するごとに切断候補である平面の様相は移り変わっていくのを、任意の位置で切断が行われるとする。ここでの切断とは、高次元の連続体を一つ下の次元で切断することである。それは大量生産品の金太郎飴的な切断=レディメイドでもあり、高次元の連続体を帰納的に類推するための操作でもある。
ただしここでの出現は物体そのものではなく鋳型のようなものである。それは物体ではなくて、n-1次元に現れる映像・鏡である。そして切断面=高次元を類推させる鋳型、n-1次元によって、必然的に失われる厚みのことが、おそらくはデュシャンによってアンフラマンスと呼ばれた何かである。
デュシャンは、かつては運動を直接(未来派的、キュビズム的に)表現したが、じょじょに「運動の可能性を内包する切断」を試みるようになる。小さなナイフを握ることで、ナイフの全面の感触を一度に得られるとデュシャンは言う。それは愛の行為、性行為をも連想させる。それがデュシャンにとっての四次元(性欲に支えらえた認識、知覚)を予感させる手触りであるだろう。
ところで、アラカワ+ギンズは、四次元から三次元、二次元…という段階的階層構造そのものを疑っている。彼らにとっては、次元=ディメンションであり、ディメンションは「でたらめの無茶苦茶」にある。
ティントレット「スザンナと長老たち」を様々な角度から「中性化」していく試みとして、たとえばサイズ、視線、触覚、質、行動理由、欲望、もっとたくさんの、さまざまな要素から、物語の起動する前にそれらを取り外して解体する。欲望の解体、主観性の中性化を試みる。
(視線に対する中性化の試行は--思考の位相がまるで違うとはいえ--マネの問題(中心や視線方向の欠如による絵の目的の失調、辿り着かない物語)を思い出させると思った。)
また身体の部分における各要素(頭、首、胸、腕…)が、それとは別のものに分岐していく様をとらえた作品においては、ある空虚(ブランク)から、人体の要素と環境の要素が、それぞれ分岐して生成されることが示されている。
「空虚が≪私≫を鋳直すように、私も空虚を手探りする。」…と、アラカワ+ギンズは言う。
≪私≫ははじめから空虚(ブランク)と不可分で、たまたま結果的に分岐した片方として、空虚(ブランク)も含み込んだ上での≪私≫である。「カントールの塵」のごとく、サイズを問わず(スケールの基準をもたないので、大きさをもたない)、同構造であり、内側にブランクを含み、常に外的/内的である。
(そして、そのような空虚(ブランク)を含む存在(人間、身体)に対して、彼らはきわめて強迫的であり、意味で埋める意欲がある。それを未然や可能性のままに置きっぱなしにできる鷹揚さは、あまり感じられない、と。)
「意味のメカニズム」で、真空管(マグネトロン)をモチーフにしていると思われる作品については、それが真空管であるという話に、僕は驚いた。大発見…というか、それは今まで誰も指摘していないのではないか…と。それこそデュシャンのチョコレート摩砕機の発展した、電子的最新バージョンのような、ある時間を経て、ふたつの作品がそんな風に響き合っていたのかと…。
しかし、今さらながら「意味のメカニズム」の、意匠としてのカッコよさはすごい。今回のように、読み解くことの面白さが全開なのはいつもの古谷利裕講座ならではだが、たとえばそこに読み取るべきものなどないと仮定して、それはそういう「美しいだけの作品」だとして、単にボケっと眺めているだけでも、それは少なくとも、グラフィックとして非常に美しくすぐれたものである。(僕が所持しているのは1988年西部美術館での「意味のメカニズム」展図録である。これを観たわけではなく、後になって図録だけ買ったのである。)
それはデザイン的に優れているということでもあるが、それだけではなくこの美的な「意味不明」を、いくら見つめても決してわからないであろう何らかの器として、そのまま一応「鑑賞」が成り立ってしまうということ、それが肝心な気がする。
(文字・言語が書き込まれているなら、それは読まれてしまうだろうが、その意味が、かならず破綻するのであれば、なおさら。)
(意味の破綻、論理構造の外を示しているのだという意味を受け取るとは何か。それを解さないことのほうが、意味の破綻を受け取ることに近くはないか。)
アラカワの作品の購入者は、とくに80年代から90年代にかけて沢山いたのかもしれないが、その作品がもたらす「意味内容」というか「何かを言いたげ」でありながらも、あの硬質な被膜で人の気を冷たく弾き返すかのようなあのイメージを、どのように受け取ったのか。作品売買は必ずしも「私は必ず受け取ります」という誓いの証しではないだろうが、それでもそこで受け取られた何かが、そのときどうなり、今はどうなっているのか、それは、同じ人間として想像できることなのか、何かちょっと不思議な気がする。
(作品の売買において、作家は購入者に対して、とくに過大な期待はないし、作品が購入されたことにより、問題が一歩解決に近づいたわけでもない。それこそ経済活動の一環として、同次元間での既定のやり取りに過ぎない。が、それに全く「意味がない」わけでもなくて、それは購入者とか個人単位への期待というよりは、それらを含む大きな未然の何かに対して、何らかの期待は芽生えるはずだ。)