フリージャズは、単に音の質感の気持ちよさだけでイケてしまう危険(?)は、避けがたくある。それは危険ではなくて、それで全然かまわないのかもしれないけど、でもほんとうなら、フリージャズは「聴けない」ことを目指すのだとしたら、その地点には到底たどりつけないことになる。

それは粒立ちの細かくて気持ちの良い石鹸の泡立ちを手でもてあそびながら、立ち昇ってくる爽やかな香りを楽しんでいるようでもあるし、木々が風に揺れて光が揺らいでざわざわとした音の響きが幾重にも重なり合うのを、まるで見るように聴く感じでもある。

音が一定の間隔を示し始めたとき、数学的なものと人の意志的なものとを同時に感じ取る。人や物の単位では示すことのできない、もっと細かい単位になって順序の規則も消えた場所の景色であるのを知る。

でもこれはこれで、充分に「場所」だとも思う。人も住むことのできる場所だ。でもそこへ住んでしまってはいけない、などと今さら言って何になるのか。住んでもいいんじゃないのか。こうしてたまに観光で遊びに来て、ああやっぱりここはいいねえなどど感想を言ってる人よりは、ちゃんと住んでる方がよっぽどマシじゃないのか。

そんな硬い話はもうどうでもいいのか。好きにすればいいのか。「ちゃんと住んでる」人たちが醸し出す、ある種の感じ、近寄りがたさ。「悪は存在しない」の、山に暮らす登場人物たちのような。

僕もこの賃貸にもう十八年住んでるのか。十八年続く演奏があるとしたら、なかなかすごいことだ。フリージャズの演者たちの各プレイの背後には、つねに不安と高揚がつきまとう。そして「始まり」に対する重い責任から、自由になることの困難さをしっかりと背負っている。終わることの不安よりも、始まったことへの重圧の方が、きっと強いはずだ。

しかし果敢に攻め続ける。けっしてひるまない。毅然とした態度を崩さない。背筋が伸びる思いだ。きちんと見届けるべきだと感じさせられる。喪服を着た後ろ姿、葬式の最後まで背筋を伸ばし続けるように。