2008年にNHKで放送されたテレビ録画より、チェルフィッチュ「フリータイム」を観る。ものすごく久しぶりに、チェルフィッチュを観た。当時、六本木のSuper Deluxeで実際に観たのが、放映されたこの日の舞台だったのかはわからないが。

喋ってることと身体の動きは、こうしてこの世に生きてきた以上、先天的にちぐはぐなもので、それらを統合させた私自身の表現にできないという感覚、かつそれが出来ている人間は所詮その制度下の者たちなのだから、いよいよ私たちは腹を括って、彼らとはまったく別の通信手段をもたねばならないという、ある危機感をもとにした切迫意識を、よくぞここまで具体的に見せてくれたものだよなと、その凄さにあらためて驚いた。

まず、映画ではこれは不可能だよな、と思う。映画は登場人物を映し出す。映し出された側がどう思おうが、その人は登場人物であり、彼に関する問題に付き合う構えを観ている側は準備する。

演劇は、ことにこの舞台のような場においては、ああしてばらばらと数人がステージ状の各地に点在して、おもむろに誰かが喋りだすというとき、映画の物語構造がスタートするのと同等な何かが動き出すようには到底思えない。それをシレっとそのようなフリをしてくれるのが、一般的な演劇なのだろうけど、チェルフィッチュはそうではない。

ファミレスで、毎朝セットでいくらだかのメニューを注文するという人物が誰で、その店の店員が誰なのかを、この演劇のなかで特定する必要はなく、だからここには切実な何かがありながらも、舞台に立つ役者全員が非当事者という感触もある。作品全体で、そのような人物がこの世界にいるのだというレポートのようでもある。これは第三者的立ち位置の確保で我が身の安全を確保しつつ出来事を語るということではなく、語ること自体への強い配慮、当事者への慮りを語りのなかに含ませたいという思いからではないかと想像する。そのような配慮が、演劇にも必要であると言ってるようにも感じる。

語り手の分散化は、責任の分散化でもあり、何らかの問題回避でもあるかもしれない。しかし、いやそれはそうではないと、これは生きるための戦略であり、その試行なのだと考えたら、それもそうだと思う。

とはいえラストで唐突に、ファミレスでの三十分がときには永遠に等しくもなるという言葉が出てくることには、やや驚くし、それでいいのか…と思いもする。その結論で「闘いに勝利」できるのかしら、と。まあたしかに、朝の出勤前に、ファミレスで三十分読書してたとして、ある箇所に「永遠」を感じてしまうこともあるだろうけど。つまりはそういうことを言ってるのだろうけど…。