Amazon Primeでチャン・リュルの「福岡」を観る。

古本屋の男(ヨン・ジェムン)は、常連客の女(パク・ソダム)に誘われて福岡県を訪れ、そこで居酒屋を営んでいる先輩(クォン・ヘヒョ)と、二十八年ぶりに再会する。

古本屋ジェムンと先輩ヘヒョはかつて、一人の女性との三角関係だった。その女性は、ジェムンとヘヒョどちらのことも好きだったのだと言う。だから女性は、いわば公然と二股をかけ、男二人はそれを受け入れていた。

そしてあるとき彼女は二人の前から姿を消した。それ以来、二人は絶交状態だった。ジェムンは当時彼女がよく通っていた店だからとの理由で、古本屋の店主になったのだし、ヘヒョは彼女の出身が福岡であるからとの理由で、これまで福岡で居酒屋を営んできたのだ。

二十八年ぶりに再会した五十過ぎのおっさん二人は、気まずさやぎこちなさをこらえ、憤懣や文句を互いにぶつけ合い、それでも仕方なく元の関係をやり直すかのように日々を送りはじめる。決して仲良くはないけど、一緒に店で酒を飲んだり、ぶらぶらと街を散歩する。ソダムも楽し気な様子で、そんな二人に連れ添って歩く。

ソダムは、相手が日本人だろうが誰だろうが、ふつうに韓国語で話しかけ、相手は母国語で返答し、それで当然のように、互いに言葉が通じ合っている。

男二人を二十八年ぶりに再会させたのはソダムである。そのソダムに関してこの映画はいっさい説明がない。なぜソダムが韓国でジェムンの古本屋の常連だったのか、なぜ福岡を訪れるのか、まったく不明なままだ。ソダムはただ、ふわっと彼らに寄り添い、もう一人の仲間のように、あるいは後輩のように、楽し気に付きまとっているだけだ。

福岡で一番古いという古本屋を訪れると、若い女性店主(山本由貴)が出てきて、前店主だった老人は二年も前に亡くなったと言う。しかしヘヒョは、数日前にこの店で、老人とたしかに会って会話したはずなのにと訝しげな様子だ。

さらに店主(山本由貴)は、先日あなたから預かったものを返すと言って、ソダムに小さな人形を渡するのだが、受け取ったソダムには心当たりがない。そのとき店内に、日本の高校制服姿のソダムが、おそらく本人とは別の幽霊的な存在としてあらわれ、日本の童謡「お母さん」を小さい声で歌う。

(そういえばチャン・リュルは「群山」でも宿屋の娘に童謡「お母さん」を歌わせていた)

ソダムの「お母さん」にまつわる場面は、他にもある。居酒屋で問われてささっと二人に聞かせた自分の身の上話。ソダムの母親は、ソダムが幼少の頃に彼女の元から去り、ソダムは父親に育てられた。しかし父親とは以前からずっと不仲であると。

また後に、夜の寝言で「お母さん」を何度も呼んで、隣で眠っていたジェムンを驚かせる場面もあった。

これは仮定だけど、もしソダムに目的があって、それがソダムの「お母さん探し」であるなら、まずお母さんがかつて好きだった二人の男を再会させ、二人の話を聞き、さらに福岡で古本屋の店主に転生(?)した若かりし頃のお母さんと再会する…ということなのか。
男二人のかつての彼女は、ついに最初から最後まで不在のまま、お母さんはもはや、おっさん二人の知るかつての彼女とは別の姿ということになる。

ただ、ソダム自身にやや現実的存在感が希薄と見なすこともでき、彼女自身がある意味で幽霊的でもあり、むしろ、おっさん二人がもう一度だけ再会を果たすために、媒介者たる彼女を作り出している感じもする(ラストで、もともとの韓国の古本屋にじっとうずくまる二人…の幽霊?)。

もちろん古本屋の女店主が、かつての思い出とともに「わが娘」ソダムを、この時空に呼び出して、かつての恋人二人をも引き連れるように計ったという仮定もありうるか。つまりこの映画は、登場人物の誰もが、実在しない幽霊的存在の可能性を共有している。

ただ、こういうことを書いていても、この映画の面白さを一ミリも伝えることにならない。これは単に、三人ないし四人のヒマな人たちが、ひたすら福岡の街を歩いて、居酒屋で飲んで、そういう日々を送って、最初、季節は冬だったのが、いつしか桜が咲いて春になって、みんなの服装も変わる。しかしあい変わらず、同じような日々を過ごしてる、ただそれだけの映画だと思っていいのだと思う。ジェムンの顔や、神経質な感じのヘヒョの様子を見ているだけで面白く、そしてロングコートに大きなショールを首に巻いた姿で、タバコを吸ったり酒を飲んだりそのへんを歩き回ってるソダムはたいへん魅力的だ。

これを観たのは一昨日である。僕はチャン・リュルの「福岡三部作」(「柳川」「福岡」「群山」)のなかでは、この作品が一番好きだ。

観たのは昨日だが、Amazon Primeでチャン・リュルの「フィルム時代の愛」(2015年)を観る。かなり困った映画だ。七十分くらいの映画だけど、四部に分かれている。

第一部
病院内を舞台に映画(映画内映画)が撮影されている。カットが掛かり、役者もスタッフも次の仕事へ取り掛かろうとするとき、照明係(パク・ヘイル)がとつぜん監督に異議を唱える。今のシーンには「愛」がない、「愛」を捉えられてないと猛抗議する。押し問答の末に、照明係はフィルムをいくつか抱えて現場を逃走する。近くのサッカースタジアムの歓声が響いてくる路上を、ひとり茫然としながら歩く。

第二部
病院内の廊下やロビー、複雑に管の入り組んだ地下施設やその廊下、誰もいない空き部屋など、無人の風景が次々と映し出される。フィルム撮影の、粒子の粗い、ざらついたノイズ含みの質感。とくに物語的な展開はなく、順々に風景がくり出されては次へ切り替わっていく。どの場面にも、人の気配はまったくないのだけど、椅子が勝手にくるくると回っていたり、音を立てる何らかの物質が配置されていたり、動きというか無人の空間に何らかの気配を示そうとする意図だけは感じられる。

第三部
第一部を踏襲するように、先ほどの病院内が捉えられ、しかしどの場面にも登場人物は皆無で、無人の病院内空間に、第一部でのセリフやり取りだけが聴こえる。まだ残る第一部の記憶に対して微妙なズレもはらみつつ、無人のまま先ほどの物語が展開する。反復によって物語そのものが相対化され、そこに時間の経過のような、経過したはずの時間が無理に重ね合わされたような感じを受ける。

第四部
照明係の男が第一部の終わりでやってきた海辺の埠頭にいる。そこで近くにいた老人に「愛を信じますか?」みたいなことを聞き、第一部の役者を真似て、その場で何か弦楽器らしいものを弾く身振りをする。すると楽器の音だけが聴こえてくる。

「愛が云々…」みたいな要素は果たして必要なのか…。つまり第二部と第三部みたいなことを、心ゆくまでやりたかっただけではないのか…という気もした。

一度聞いたセリフと音声が異なる場面で再現されると言えば、なんといってもデュラスの「インディア・ソング」と「ヴェネツィア時代の彼女の名前」が思い浮かぶのだが、本作はデュラス映画ほどの(映画に潰されそうになるみたいな…)心身負荷はないし、ある種の面白味は感じられたのは良かった。

ロケ地である病院の、西日に照らされながら、階ごとに折り返されたおそらく荷物搬入出用の長いスロープは、なんとなく狂気を感じさせるヤバい風景という気がした。でかでかと五輪マークが掲げられてた巨大なサッカースタジアムと、そこから聴こえてくるバンド演奏のドラムみたいな鳴り物の音と地響きのような歓声は、逆にその周囲に大きな静寂の存在を感じさせるように思った。

観たのは昨日だが、U-NEXTでチャン・リュルの「慶州 ヒョンとユニ」(2014年)を観る。僕はこの映画を観るのはたぶん三回目だと思う。妻が観たいと言い、また観るのか?と正直思ったけど、観始めたら、これがたいへん面白い。

この映画での、ヒョン(パク・ヘイル)の受動性の徹底ぶり…。もちろん彼は過去の記憶をたしかめるために慶州を訪れるのだし、何年も連絡をとっていない先輩の妻(かつての彼女?)を、わざわざ呼びつけたりもするのだけど、それもどこか行きあたりばったりというか、その結果発生する出来事に対して、ひたすら受け身なのだ。それは彼の存在感そのものの問題である。

そもそも、ヒョンは韓国人で、さらに中国語も日本語も解するのである。ところが彼は周囲で発される人々の言動をまるで理解する気がないかのようだ。観光案内所のスタッフに中国語で話かけられた際には、その言葉しか理解出来ないようなふりをしていたわけだし、ユニが日本人の言葉を通訳してくれたときも(正確に伝えていないにもかかわらず)、ユニの言葉を鵜呑みにするふりをしていたわけだ。

慶州の大学の先生と偶然知り合って、様々に話かけられても上の空というか、まあ相手の話題もつまらないからだけど、まるで相手にする気はない。ユニの昔の友人で、明らかにヒョンを怪しんでいる刑事の男に対しても、ヒョンはことさら自分を説明しようとはしない。だからますます怪しい目で見られる。

あとヒョンの服装は、じつにだらしないのだ。上はかろうじてジャケットを着ているけど、下はスウェットにスニーカーで、冒頭、この格好で友人の葬式に出席してるのである。パク・ヘイルという俳優の、身体の男性的立派さが、よけいにだらしなくて無駄にデカくて鬱陶しい、意味不明でヘンなむさ苦しい男性、という感じを強調する。

それにしても、ユニ(シン・ミナ)はいったい、何を考えているのかと思うのだ。彼女の夫は亡くなっていて、彼女は今ひとりで暮らしている。彼女はあきらかにヒョンを許容しているというか、無言のまま、浮かぬ表情のまま、しかしヒョンを他人扱いしない。刑事の男からしたら、そのユニの態度が、余計に苛立たしい。

ユニは無言のまま、ヒョンを自宅まで招こうとしているかのようだ。それは約束だったかのように、そうなる。しかしあからさまに、行為へと誘うのではない。非常に深刻な表情で、しかしおそろしく無防備に、無警戒に、ヒョンを招き入れ、ソファで隣合って座り、ぐっと身体を彼に近づけ、その両耳を触るのだ。あなたは亡くなった夫と、耳が似ているのだと言って。

そのとき刑事の彼は、深夜だというのにとつぜんユニの家に押しかけてきて、ヒョンにパスポートを見せろと言う。あきらかに職権濫用だ。ユニは彼をとがめる。ヒョンはおとなしくパスポートを見せ、刑事はそれをろくにたしかめもせず、おそらくは自己嫌悪と羞恥で、逃げるようにその場を後にする。

突然の闖入者が去って、ユニの態度はなおも変わらない。ひたすら続くこの濃厚なエロ的気配、ユニがドアをわずかに開けたまま寝室へ消える。しかしヒョンはただ、窓の外を見て、かすかに明けかかった夜をやり過ごす。いや、着信していた妻からのメッセージを読む。あなたの不在が寂しく、そして今あなたが何を思っているかという、妻からのメッセージを。

翌朝、ヒョンはひとりで歩いてる。ユニの家を出たあとだろう。きっと何事もなかったのだろう。それどころか、前日までの記憶と現実が少しずつ食い違っているようでもあり、占いの店に前日までいた老人は、何年も前にすでに亡くなっているはずで、だとしたらユニの茶屋はどうなのか。それどころか、昨夜までの経験はほんとうのことだったのか(まさかすべては、ヒョンの想像だったのでは?)。ヒョンは川の音がする方へ走る。その先に自分の思い描く景色がその通りに広がっているのかどうか。

こうして、とりとめのない書き方を続けていても仕方がないのだけど、しかしまさかとは思うが、これって何の根拠もないけど、単にヒョンは死んだ友達の奥さんのことが、何となく気になっていて、あと、それをきっかけに思い出された、いつかの茶屋の女性のことが何となく気になって、ただそれだけを、ぼやっと妄想してるだけの話なんじゃないだろうな…。

最後に、亡くなった友人も含むかつての友人らとお茶屋を訪れる場面があらわれる。しかしお茶を用意してくれているのは、当時はまだここにいるはずのないユニじゃないか。みなが無言で、ユニのお茶の準備を見届けている。そのとき、こらえきれないといった様子で、ヒョンがとつぜん笑いを噴き出す。皆の視線を浴びながら、ヒョンはかろうじて笑いを抑え込む。

それは、すでに知っているからこその笑いなのか、未だ知らないがゆえの笑いなのか。そもそも何がおかしかったのか。

観たのは昨日だが、Amazon Primeで、チャン・リュルの「群山」(2022年)を観る。

詩人のパク・ヘイルが、先輩の元妻ムン・ソリと共に群山と呼ばれる地を訪れ、食事をし、宿に泊まる。二人の関係は、はっきりしないのだが、ムン・ソリは宿の主人を何となく気に入ったようで、パク・ヘイルはそのことが何となく気に入らない。

また宿の主人には娘がいて、彼女は引きこもりの自閉症なのだが、パク・ヘイルにはどこか気を許すような素振りを見せる。パク・ヘイルもそのことを意識する。

このことから、パク・ヘイルはそれなりに散々な目に会うわけだけど、面白いのは彼がひとしきりぐったりさせられた中盤を過ぎたあたりで、ようやくタイトル「群山」が画面に映し出される。

それだけなら今どき珍しくもないのだけど、ハッとするのは、タイトルが消えてから以降、どうも時制が変だぞと思わされ、なるほどこれはつまり、出来事の前半と後半が、まるっきり逆にされているのだなと理解される。

それだけと言えばそれだけなのだが、しかし面白かった。少なくとも後半(つまり時制の初期段階)のパク・ヘイルは、薬局で鎮痛剤を求めた際に従業員の女性にふしぎな親切の施しを受け、その後偶然ムン・ソリと出会い、彼女はずいぶん親しげに、いかにも彼に好意を寄せているかのような態度をとる。食事をしたりカラオケしたり、そのうちに「群山」というキーワードが、カラオケで歌っていた歌詞のなかに出てきて、それで二人は最後、共に群山へ向かうことになるのだ。

だから何なの?って話なのだが、なぜかこれが、しみじみ良い。群山でのパク・ヘイルの不満げな感じ、さらに彼が元の地へ戻ってからの(鎮痛剤を求めた薬局での)出来事など、なかなか寂しくて、でもこの寂しさは、チャン・リュルがテーマとして背負った、一貫した寄る辺なさであり、寂しさでもある。それは自分がこうだと信じていた記憶の、あまりの頼りなさ、そのおぼつかなさで、それはそのまま、自分自身という存在のおぼつかなさでもある。

(ちなみに今日観たのはチャン・リュルの「慶州 ヒョンとユニ」と「福岡」だが、そちらは明日以降に書く)

乃木坂で、マティス展の二回目を観た。

それにしてもいま、こうしてマティスの作品を観るということと、当時つまりその作品が描かれたばかりのときに観るということでは、大きな違いがあるのだろう。

マティスはこの世で、すでに巨匠でありその価値が確定しているという事実を、いったん忘れたとしても、やはり今と昔で、これらの作品を、人が観て感じ取る内実に、違いはあるはずだ。

なぜこのような作品が可能になったのか?それは画家の自信や勇気に起因するのか?あるいは周囲の理解や鼓舞によるのか?

たとえば、絵画は如何にしてであれ、人間による技法と修練の結果として存在する、だから絵画は如何にしてであれ、画家の思考や努力の痕跡が、そのどこかにあらわれるだろう。

マティスもそれはわかっていて、さらにそれが自分の方法によってきちんと伝達されることを、完全に信じている。そう思える根拠というか、それを可能にするだけの、彼の心の拠り所はきっと、自分の内側だけにあるのではななく、十九世紀後半から続く前衛芸術家たちのもたらしたものにも支えられていただろう。

そのときの、マティスの心の拠り所こそ、十九世紀後半以降の絵画の核心であり、モダニズムと呼ばれるものの核心だったのだろうと想像する。

だからマティスの絵画の向こう側に、先達の画家たちが、今の自分が知っているような事とはまるで別の何かとして、そこにはいるのだと、この作品を観る自分がマティスとして、それらを想像しなければいけないのだろう。

マティスの作品を観てよろこびを感じると同時に、その自分自身を頼りなく思う。よろこびは自分の内側だけに広がるもので、それは所詮自分を越えていくことはない。そこには連鎖がないと感じる。

希望は、マティス自身のよろこびを再生させることであり、マティスの心の拠り所としての十九世紀後半を再生させたいと願うことだ。

Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で濱口竜介「悪は存在しない」(2024年)を観る (以下、ネタバレご注意ください)。オープニングで、明らかに山本達久のドラムとわかる緻密かつ神経的なハイハット音が聴こえてきて、見上げた空を背景に、連なる樹木たちが延々と流れていく、その場面がいつまでも続く…と思ったら、突如として轟音ノイズが湧き上がる…と思ったら、チェンソーの音である。

森の中に男がひとり、丸太を切り分けて、それらをひとつひとつ、拾い上げては切り株台に乗せ、斧を叩き下ろす。割っては次を拾い、また割っては次を拾う。こうしていつしか、薪がネコ車いっぱいになる。仕事がひと段落すると、煙草に火をつけて、深く喫い、白い煙をふーっと吐き出す。白い煙は、森の景色のなかへ漂い、一瞬で消え去る。

薪割りって、どのくらい難しいものだろうか。あの役者は、どのくらい練習して、ああして「この仕事に慣れてる」感を出せるようになるのだろうか。いや、あれはそもそも、「この仕事に慣れてる」感なのだろうか。

主人公が巧(大美賀均)で、おそらくその娘であろう少女が花(西川玲)である。

あの女の子は八歳らしい。実際にもそのくらいの年齢だろうか。無口で、目が大きくて、黒髪が長い。青い上着を着ている。樹木の名前をよく知ってる。お父さんに教えてもらうから、余計にくわしくなる。

どうなのか。この子の、この「神秘的な感じ」は。大昔の、宮崎あおい、か。子供らしさとは何だろうか。お父さんが「この仕事に慣れてる」ように薪を割る感じと、この女子が森の中を歩いている感じは、少し違う。それは最初からそう感じさせられる。(先日観た「秘密の森の、その向こう」の八歳の女子二人を思い出す。これとはかなり違う存在感として…)

序盤から、おそろしく冗長なカット割りが続く。それはいかにも「濱口調」とも言える。元々の「濱口調」な作風に少し戻ったような気もする。水汲み、自動車、銃声、学校の送り迎え。森の中に住む人々の生活感というか、生きるリズム感というか、このくらいの要素を繰り返して生活しているのですよと、そういうことの説明でもあるのだろうとも思う。

森が過度に美的だとも感じた。あの凍った湖は、鹿の飲み水だという。しかしほぼ凍っている。芸術作品のように美しい。しかし、どうなのかなあ…とも思っていた。

そんな森に、ある施設の建設計画がもたらされ、住民への説明会が催される。施設建設側の担当者の説明住民らは納得できず、場は紛糾する。住民側の意見は、端折らずにきちんと捉えられる。このあたりも、まさに濱口感そのもの。

巧は言う。この地はもともと、未開拓の場所を少数の者たちが開拓したので、歴史は浅く、その意味では誰もが移入者である。だから我々とあなた方との間に、本質的な差異はない、と。

村長(だったかな?)の男性は言う。環境保護とか、そんな大げさな話ではない。上に住む者と下に住む者がいて、モノはすべて上から下へ流れるのだから、上の者はそれに配慮しなければ、上には住めないのだ、単にそれだけのことだ、と。

この、先住者と後から(強い資本を後ろ盾にして)やって来ようとする者らとの、軋轢というか共生とか倫理とか、人間同士の問題をどう扱うのかの切り口が、本作のテーマの中心になるのかなと。建設計画担当者の二人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の、その後、巧や先住者との関わりによる彼らの心理の変容を見せていくことで、あらたな可能性を探るような展開なのかなと、そこまでの流れではそう思わされるのだが、しかしそれは違うのだ。花(西川玲)の失踪とその後の出来事をきっかけに、それまでの位相が切り裂かれてしまう。もはや、人間の揉め事はどこかへ消え去る。問題はもはや、別次元へ移行してしまう。

思い返せば、はじめから匂わされていたのかもしれない「森の論理」のようなものが、そこに牙を剥いたようのかもしれない。動物が動物を、一瞬でパクっと食べてしまうように、一瞬の後に、すべての生は危機に晒される。というか、それはただの摂理であって、危機でさえなく、それは倫理の果てである。

巧の最後の行動は、ほとんど説明のつかない、やむにやまれぬ衝動なのだろうけど、そこには何らかの、連鎖というか、世界の法則というか、従うべき掟には、従わねばならぬという、瞬時の生物的な判断のゆえだったのではないかと、そんな風にも考えたくなった。

まあ、このラストでは、何とでも言えるし、どうとでも考えられる。際限なく言葉を重ねることはある意味で容易だろう。そもそもタイトル「悪は存在しない」が、そのまま同様に、神も不在であり、それを代替し人間の位相に安定をもたらしてくれる何の摂理も期待できないと、容易に想像させるわけで、その地平であの森を見て、あの間もなく死に至るのだろう手負いの鹿を見るというのは、だからつまり、そのように空しい言葉しか呼んではこないのだ。

ただ、これをやるならもっと手前の掘り下げが、それこそ観客に苦痛を与えるくらいの勢いで、もっと執拗なやり方で準備されるべきなのではないかとか、そういうモヤモヤ感はあった。あるいはもっと人間同士の闘争が、前半にどっしりと腐臭を放ってないといけないのではと。傷を負った(聖なる)鹿に、最後の審判を下してもらった、あの鹿に一任させてしまったところが、あるようにも感じた。
とはいえ、やはり見応えのある作品だった。また機会があれば再見するだろう。

U-NEXTで、アラン・ロブ=グリエ「ヨーロッパ横断特急」(1966年)を観る。麻薬の運び屋が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスに乗って、パリからアントワープまでアタッシュケースを運ぶ。…そんな映画を作ろうと、映画監督と関係者ら計三名が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスの客室で話し合っている。

そんな彼らの検討案が元になっている場面、密売人のエリアス(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、露店で鞄を購入し、パリ北駅のロッカー前に立つ男と暗号メッセージを交わし、鞄を交換して特急列車に乗り込むまでの、一連の様子が示される。彼は車内を移動し、関係者三名が話し合っている客室をも通り過ぎる。

映画はもともと、現実の俳優が演技をして、その撮影したフィルムを任意につなぎ合わせて作られている。だから映画がメタ構造の物語を取り扱うなら、たとえば映画構想中のスタッフたちのいる場所に、その構想段階の登場人物が介入してきたとしても、それは映画の撮影においてであれば、何ら驚くべきことではない。

本作はそのことにはおそらく十分自覚的で、本作が目指したことはメタ構造物語というよりは、物語の「登場人物」という不思議な存在について、それをどうにか別の方法と別の視点から取り扱えないかと、それを探る手段としてひとまず、お話そのものの「構想中レイヤー」が設定されたのではないかと考えてみる。

だからこの映画で面白いのは、物語や構造ではなくて、物語や構造を未だ与えられない登場人物の焦りや戸惑い、かすかな狼狽の感じ、これから自分が何をすれば良いのか一瞬先を手探りするような、それは人格への感情移入未満というか、未然の不確かさに関する手触りではないかと思う。

ただし演じる人間を、本当にセリフも与えられないまま撮影現場に投げ出すわけではないはずだ。演じる者は「現実」レベルでは、自分の役割をわかっている。にもかかわらず、そこにはある「支えの無さ」「不安定さ」が現われている気がするのだ。

もしそうなら、現実のアドリブを撮るよりも、「現実」レベルで役者が「支えの無さ」「不安定さ」を感じてない、にもかかわらず、作品によるべなさが漂うことのほうが、凄いと思う。

あるいは、つねに五分前の記憶を無くす人物が主人公の映画でも、同様の感触は得られるのかもしれないけど、その規則をもとに映画を組み立てることが出来てしまうなら、時空そのものは安定している。本作の主人公は、建前としてはマトモ(?)な麻薬の密売人のはずで、だから自分の仕事も段取りもわかっているはずで、始終わかってる風な行動を取る。しかし彼はそれを、ひたすら映画の登場人物の自覚と責任においてやっているだけなのだ。(筒井康隆虚人たち」的なところもあるのか。"今のところまだ何でもない彼は何もしていない。"登場人物。)

もちろん、役割以前の段階に放り出されて戸惑っている映画の登場人物というのは、すでにありふれているとも言えるだろうけど、本作の独自な感触は、登場人物エリアスにも内面があって、それは彼の性的な欲望として常に示される、それが反復されるポルノグラフィー、緊縛された半裸女性のイメージにあるだろう。それによって彼は、構想途中の映画の、未完成な筋書に付き合うことから、何とか脱しようとするかのようだ。