図枠を囲ってその中に作図せよ


絵とは何か?絵は、どこからどのようにして生まれるのか?…それを考えるのは難しい。しかし、それを全く問わずに絵を描いた場合、それはやはり、詰まらないモノであるような気もする。しかし、たとえば「自分の絵が良くなっていく」事を志しつつ「絵とは何か?」を考える場合、その姿もある意味滑稽だ。それは自分の子供をなるべく良い大学に行かせる為に、自分の子供に学歴社会の問題点について考えさせるような感じがある。このような問いは必ず自分に跳ね返ってくる。たぶん真摯に悩めば悩むほど、何も出来なくなる。逆に、とりあえず現状、自分に絵が描けるのであれば、描ける理由こそ自分自身に問われねばならない。


ちなみに僕は「絵とは何か?」について考えないことにしたい…というか、それを考えること自体に、ハマリたくないと思う。それは罠のような気がする。そこは最初から、(良い意味で)諦めた方が良い気がする。それで、もう一度、沢山の誰かと同じように始めるしか無いと思う。そして、その繰り返しを積み重ねて、その集積の断面に、自分の独自性を発見するしかないと思う。こういう言い方はずるいのかもしれないというのは、確かに感じるけど。。


本来何の根拠もないはずのだーっとした時間と空間の流れの中で、その只中に複数の人間がいて、なんだか判らないけどひとまず、仮の制度をつくってみて、それに則って相互に生きてみないか?という事で、うん、じゃあやってみようかという事で、そこから始めてみて、その中から色々と派生してきて、それで社会とか生活とか人間の幸福とか、そういうのは、生まれてきたのだと思う。


美術とか音楽とかも同様で、とりあえず何かが作られた直後というのは、それこそ何でもない。まだ何も生成していない。中西夏之じゃないけど、それこそ水平面と垂直面を仮構して…とか、とりあえずの制度をつくってみて、それに則って相互に何かを感じる事で生きてみないか?という約束の共有から、何かが生成され、営みがはじまったのだろう。


あるいは大昔、アフリカ人は何かを規則的に叩いて、その打撃直進性に身体を反応させていって、はじめての音楽の原型を作ったのだと思う。そのときの連続した打撃音は、まだ音楽でもなんでもない、只の約束事に過ぎないけれど、もし今、音楽を作るのであれば、とりあえず無限に続くリズムの反復から作る事でしか有効ではないように、少なくとも僕は思う。少なくとも、その打撃一撃の内容について解析しても、音楽を分析する事にはならないと思う。


美術を美術足らしめている何らかの力について考えるというとき、しかもそれを美術作品自体を通じて内部的に考えるというとき、一番重要なのは、当初の、人間の約束事への愛情、というか、慮り、というか、配慮、というか、そういう人間が行う制度に基づいた振る舞い…そのクオリティ。実はそんなものではないだろうか、と思った、のだけど…。


あとは、ブルースをベースとした音楽のように、ひたすらループさせたいと思う。その繰り返ししか可能性が無い様に思う。(こういう事を書くと、絶対ある種の先入観を与えてしまうのだけど、僕の絵は実際「そういう感じ」ではないので念のため)