「組立」の永瀬恭一氏の作品について


6/29まで開催中の川口のmasuii R.D.R gallery 「組立」永瀬恭一×古谷利裕展より、表題の件について。…白色と、彩度低めの青が混ざり合いつつ広がる画面内の空間である。油彩独特の質感も生々しく、画面上に展開している。ところどころ、植物をイメージさせるの描画的引っ掻き線があらわれては消え、しかしはっきりと植物が描かれていることを確信できる程ではなく、かすかな残滓とでもいうべきあらわれにとどまる程度で、その消え去る寸前のままで、画面全体に広がる油彩の物質的な運動にまみれている。


でももし、これが植物の表象だとしたら、そのイメージは白色と、彩度低めの青が混ざり合いつつ広がる画面内の空間とは別の位相に存在するしかないようなものではないかと思う。というかここではむしろ画面内の、モノトーンの階調に基づいて本来成立していた筈の秩序ある空間に、唐突に刻まれてしまった異物のような印象として植物が描きこまれたのではないか?と推測される。破綻のリスクも受け入れつつあえて実施する事で、何らかの可能性に賭ける理由が制作者にあったのではなかろうかと。


また、その作品は床に直置きで寝かせられていたり、壁に立てかけられていたりもする。前述した画面内の様相は、すべてそれらのロケーション設定に基づいた状況をまず受け入れる事で鑑賞されなければならない。つまりまず、作品と設置場所との関係に、何らかの読み取るべき意味があって、そこを観ない事にある種の抵抗を感じさせられるようなあり方をしていて、だからとりあえずそこを受け入れるという事前手続きが必要と感じてしまう。床に寝かせられている(作品の天地が曖昧となる)とか、壁に立てかけられている、とか、それらの状態をまず受け入れる、という事が一方にあり、引き続き、それとは別のタスクとして、感覚のスコープを変換調整して、あらためて画面内の出来事を観る、というのはどういう事か?いや、そのような分離が生じていることで既に、鑑賞が「間違ってしまった」のだろうか?あるいはその分離した状態の印象とは、作品のもつふたつの側面として、それぞれ別途吟味すべき問題なのだろうか?それはわからない。しかしここでもまた、やはりあえてそれを現実の空間において実施して、そこで何らかの可能性に賭けて、それが実施されたのかもしれない、とは感じさせる。


しかし作品が床に直置きされていて、寝かせられていたり、壁に立てかけられていたりするという事と、その画面の中に展開しているありさまを観て何か感じるという事の分離が、かすかな違和感として残ってしまう印象を、今こうして文章とする以上、やはり違和感という言葉で書いておかなければいけないのかなあと思った。それはまさに、そのような違和感として提示される事が目指されたのだ、という事なのかもしれないしそうではないのかもしれない。それはわからない。が、しかし、それが「正解」なのか「誤解」なのかはあまり重要な事ではないと思う。


そのまま色々と考えていて、本来、作品というのは基本的に、ひとつの印象しか、観る者に与えられないものなのではないか?と思った。そこに作品があるというとき、それは既に完全に与えられていて、あるひとつの印象を湛えていなければいけないように思う。完全に与えられていて、かつ動かすこともできないような何かとしてある。設置場所が設置場所として、画面内のありさまがありさまとして、それぞれ異なる問題として別個に浮かび上がってしまうとき、作品は作品ひとつとしての焦点を失いはじめると思う。作品を前にして、これはこういう場所に展示されているから、とか、こういう成り立ちでできているから、とか、そういうのはすべて後からやってくる付加情報に過ぎなくて、作品を目にした一瞬、一秒かそこらくらいの出来事というのは要するに、上記のようなあらわれが起こる瞬間にほかならず、作品の質を判断するというとき、そのあらわれが生成するか否かが判断されるべきであって、そこですべてが決まるように思っている。


何かを「問題」として捉える(問題を共通認識に変換して、複数の人間で共有して、それに取り組む、対処する)ために、ひとまず、取り組みのきっかけというか、取り組む手順の糸口にもなるようなある「形式」を投げ与える、という事は、やはり本来、とても難しいことなのだろうなあと思う。というか、そこはやっぱり直感的なものをベースにしないことには、作品を目にした一瞬、一秒かそこらくらいの勝負の瞬間に対処できないのかもしれないなあ、などと思った。


…永瀬氏の作品の話に戻るが、僕が結構長く観ていたのはやはり、その白色と、彩度低めの青が混ざり合いつつ広がる有様そのものだったのだけれど、その混ざり方が結構しっかりと「混ざってるなあ」という印象だった。そもそも絵の具の「混色」っていうのはもう、絶対あともどりのできない取り返しの付かない、極めて罪深い背徳的な行為なので、この世の画家はみんな、色の混色をするときには常に太古の原始的な不安に包まれるものなのだろうけど、永瀬氏の混色の、ところどころ、あっ!と思うほど深くイってしまってる混色の度合いが、なんだかかなり禍々しいヤバイものを観てるようにも思えて、ある種スリリングに感じた。永瀬氏のブログでいつだったか書かれていた事で印象的だったのが、モランディとかローランサンのある種の感触に惹かれる、みたいな言葉があったように記憶しているのだけど(すいません、若干うろ覚えです。細部は誤解してるかもしれません。)その白色に対する特別な意識というか、白色そのものというよりも白色に他の色が侵入してくるときのそのヤバサというか、その為すすべない感触みたいな、愉悦感が、そこはかとなく漂っているかのようで、まあ勝手な妄想といえばそれまでだが、とにかくそんな風にも感じつつその画面上の絵の具のありさまをじーっと観ていた。