「組立」の古谷利裕氏の作品


6/29で終了してしまった川口のmasuii R.D.R gallery 「組立」永瀬恭一×古谷利裕展より、表題の件について。…絵画というのは私の周囲の向こう側にある「現実」を、ものすごい伝達力で、一気に我々のもとへ伝えてくれるような「電撃的」な媒体として、まだまだ充分なパワーがある。絵画以外では実現できないような、絵画であることでしか拮抗できないような、現実というのがある。それを信じられるかどうか?そこが絵画を面白いと思えるかどうかだと思う。とはいえ、普通に生活している人々にとっては、普段から絵画というものを結構強く意識していないかぎりは、なかなか信じ続けるのが難しいところもあるだろう。なのでそういう人々は今後努めて古谷利裕氏の作品を観るべきである。


古谷氏の作品はこれはもうほんとうに、どこまでも昇っていくようなよろこびに満ちた、まさに植物がとめどもなく成長し、丈を伸ばし、どこまでも増殖するかのような勢いで咲き乱れてるような状態で、それに驚くと同時に、そのように描いてしまうことの全面的な肯定力に貫かれていることにも、二重のおどろきを感じてしまう。


描く前の思考とか、描く事から受ける思考とか、気分とか感情とかを、徹底的に分析・制御して、ブレイクダウンの果てで、ほとんど何の意味性も生まれないような完全に醒めた場所から、はじめてキャンバスに絵の具がのるという事の、ギリギリまで余剰をそぎ落としたシンプルな行為が重ねられている。本気で信じるというのは、このくらいの場所からスタートするのだ、とでも云わんばかりの態度。そうやって描き始められると、描画行為ひとつひとつが、異常に価値高騰していて、すべてがハイパーインフレして、なんというか、視覚の金縛りみたいなものが沸き起こる。一挙手一投足に感覚の相当の部分が直リンクするような状態が起こるまで、観る者がその価値変動している世界に周波数を合わせていくまでの時間が、その作品を観る時間なのだろうと思う。


でも今回ギャラリーで観て、まず第一に「技術的に上手い」という事を感じた。これは普通に「上手い絵」としてここに在るなあと思った。絵をつくる上でのすべてが、その付着する絵の具のボディ感とか、キャンバスと絵の具のはじく一瞬まで、しっかりと操作側の意識がすみずみまで入っていて、全体が相当に納得のいく状態にまで持ってこられている事(その満足感)が感じられた。特に小品が非常に安定した信頼性の高い仕事に思われた。


いくつかの作品がもつ色彩の鮮やかも印象的である。おそらく2007年に制作されたものであろう作品の、ことに印象的だったのが紫、というかバイオレットを含む作品とか、やけに艶やかで、ほとんどその色のあらわれ、いうだけで充分に強い。相当ギリギリな、それ以上でも以下でもなくなるようなリスクを背負いつつ、でもキレイである。かつ、タッチもその艶やかさの力を借りることに躊躇無く、かなり無防備に、何かのかたちを模倣しようとするかのような奔放さえ感じさせる。へぇっ!と驚かされてしまうくらい、とても無邪気に楽しげですらある作品たちである。また混色の度合いが深い作品も多く、混ざり合いのさまざまな試みがかなり大胆なところにまで推し進められているように感じた。画面上でゆるゆるなままに、ずるずるっと、あるいはさーっと緩やかななだらかなグラデーションで混ざり合うような局面も多々あり、絵の具と絵の具がキャンバス上で混ざり合うという事に関しても、かなり手放しに、絵の具たちのやりたいようにさせているというか、絵の具の混ざり合うのをかなりの進度まで抑制させない感じに思えた。


比較的大き目の作品たちは混沌の度合いが深く、こちらは逆に成り立つぎりぎりのところが大胆に探り、着地点に賭けているようなワイルドさがあるように思われた。