ステレオシアトリカエレクトロ


横浜トリエンナーレで観たいくつかの作品で、どの作品についてというわけでもなく、ただ何となくぼんやり考えていた事なのだが、ある空間に音声信号の出力装置(つまりスピーカー)を配置したらそれはもう表現形式としては音楽だと思った。というか、どうしても、僕はそれを否応なく音楽として体験しているのだ。では音楽として何を感じているのか?というと、それは空間の生成を感じているのだ。時間ではなくて、空間なのであった。サウンドインスタレーションとは、与えられた空間の中にそれとは別の空間をたちあげようとする試みであり、そのための音響システム設置である事が多いと思う。


今この場を共有していなくても、後で体験できる、というのが音楽にも可能になったのは複製技術のおかげである。複製技術によって今この場の一回性が解除されたのだが、しかし後で音楽を体験するためには必ず再生装置と出力装置を必要とするのだ。その装置は一見、音楽とは似ても似つかぬかたちをしているのだが、とりあえず音楽を召還するためには、それが無いと始まらない。スピーカーがなければ、何もきこえない。それが音楽というものだと僕は思う。スピーカーがなくてもきこえてくる類の音楽は今のところ僕の興味の対象外である。


普段、音楽を聴くとき、たいていの場合はステレオフォニックで聴いている。ここで言うステレオフォニックとは2チャンネルの音声を対になったふたつのスピーカーないしイヤホンより出力する、という意味である。二つのマイクで録音したものを信号出力としてつのスピーカーから送信する技術がステレオフォニックであるが、場合によっては集音と録音との間にミキサーが介入し音がなす諸関係の改変操作さえ行われる。いずれにせよここで出来事は一旦保留されて再構成される。この時点で既に、かつて起こった事の再現ではなく再構成である。


そして最終的に完成した録音物の全体は、右と左から出る音の融合として鑑賞者の耳に届く。出力が、ふたつあるのだ。どちらが欠けてもダメである。はじめから、ふたつの装置を必要としているところが肝心である。ひとつひとつが放出するものは部分でしかない(どうしても部分しか出せない)。取得した音像をもとに、AとBを作り上げ、さらにそこからふたつを混ざり合わせたCを作り出す事までを目的とした装置なのだ。よくよく考えるとこれはかなり奇怪な状況であるが、それが音楽の体験なのである。それはもう仕方がない。…つまり音楽体験とはステレオフォニックにおいて、左右から聞こえるAとBとのどちらをも聴いているし、どちらも聴いていないともいえる。というか、それらの混ざり合わさった結果を聴いている。その時点で虚構の空間をたちあげているので、それはほぼ、絵画を観ている状態と同じような体験ともいえる。


ところで、ジェフ・ミルズの2つないし3つのターンテーブルとミキサーおよびサンプラーを使ったDJプレイにおいて、AとBをMIXさせる事によってそれらと異なるCを作り出すのだ、というとき、おそらくステレオフォニックと(少なくとも体験の質としては)同様な出来事が試みられている。音楽は、そこではじめて始まっているのだ。それを事後的に振り返ったときに、二つないし三つのターンテーブルとミキサーが操られている事がきわめて奇怪な事に思えるのだが、それもやはり、それはそれでもう、仕方がない。


これらの出来事に較べて、5.1chや7.1chのサラウンド装置というのは、はじめから体験者が立ち位置を絶対視しているところが不完全なのだ。とてもまっとうな考え方にもとづいたきまじめな試みなのだが、所詮、無駄な努力ではないのか?という感じが、どうしてもつきまとう。原点0.0からのスタティックな全方位的波及でしか効果を計算していないため、音に絶対的方位を持たせることが苦しいアリバイ作りでしかなく、かえって体験者を固定位置に縛り付けてしまう。サウンドインスタレーションと呼ばれるような表現の大方も、音を空間的に配置することで空間を感じる以前に息苦しさを感じさせてしまうように思われる。音は本来、決してあらかじめ準備され調整された空間に配置されるようなものではないからである。


たしかにステレオフォニックも二等辺三角形の頂点に立つべきであるとされているが、まだ、前後に移動する自由だけは確保できている。絵画にせよ音楽にせよ、最低でも前後に移動する自由が確保できている、というのは作品鑑賞の最低限のルールではないかと思われる。むしろ、音がしていない、あるいは、きこえなくてもかまわない(気づかなくて良い。立ち去ってくれて良い。むしろ立ち去った後で、体験がやってくる)、という瞬間を無数に動的にいくつも立ち上げていくような事がないと、どうしても苦しいのではないか。(それはつまり「映画」になる、ということでしか無いのかもしれないのだが)