断絶


文章を書くという事にはやはり意味があるし、どこかの誰かに、あるいは未来の自分に、何かしら働きかけるものがあるのではないか。で、それが何だというの?それが幸福なのか?と言ったら、それはわからないのだが、でも、もし何かの働きかけが生じたとしたら、それは、たいていの場合、書き手の当初思った意図や文意などとは、あまり関係ないところで作用する。その事が良いとか悪いとか、意味があるとか無いとか、そういう話自体が既に、全然あさってのことでしかないようなところで、作用する。これはもう、びっくりするくらい、それとこれは別である。で、だから、今ここで行う行為の意味とかを、単純に信じるのはきわめて難しい。それは、実施されるのであれば、ほとんど信仰に近い。だから、もしかすると適当な気持ちで、お賽銭を投げ入れる程度の気持ちでも、別にまったく問題ないと言えばそのとおりである。あまり思い煩わず、単に一日の仕事をすれば良いだけの話である。自分が書くなら、もう理由なんて自問する事自体が不毛である。書かない事と書く事の間には、ほぼ差は無いと言えよう。


事実として確かなのは、誰かの書いた誰かのことばが、僕に届く事がある、という事である。それはほんとうに確かだ。しかし「届いた」と感じている僕と、それを書いた誰かは、そこで何も通じ合っていない。分かり合えた訳でもない。文字列におさめられた中身は指し示す何かを失う。むしろ、感じられるのは、おそろしいほどの断絶である。そちらとこちらは、もう全然別の、別の銀河だ。たぶんひとつながりの現実と考えるのが難しいくらいに、別だと。でも、いやだからこそ、ある種の「働きかけ」が作用するのだが。言葉がふいに届くことが、却って、断絶を浮かび上がらせる。このどうしようもない断絶の感触だけを、信じて生きるしかないのでしょうかね。