制作(編集/化粧)


映画というのは、(非現実的な理想として)編集作業なしで完成できるのであれば、それが一番最高の「純粋映画」なのだろうか?でも編集が介入するのは、やっぱり仕方が無い「必要悪」で、でもそれがあるからこそ映画なのだ、みたいな、そういう話もあるのだろうか。


ところで、最近思うのは、制作には「前半」と「後半」がある、という事で、もちろん制作が「前半」だけで完了してしまうのであれば、それに越した事はないのだが、それは今の僕には無理なので、どうしても後半も実施する必要があるという事だ。


というか、僕が思っている制作の「後半」というのは、映画における編集という事になるのだろうか。というか、最近思っている、こうあるべきではないか?こうありたいかも、と思っている事として、僕の制作の「後半」というのは、まだ若い、中学生か高校生くらいの女子がはじめてお化粧する時のような、その瞬間の気持ちではないか?そういう感じで頑張れないものか、などと思う。


でも、きっと女性というのは、多かれ少なかれ、いずれ、いつかはそこそこ、人並みに、お化粧が上手くなるのだろう。朝のあわただしさの中で、惰性と慣れでさっさと済ますのだろうし、また、人によっては、私は「主義」「思想」として、お化粧しません、という女性もいるのだろうし、しても変わんないから、という人もいるだろうし、やっぱ外出のときでさすがにしない訳にいかないから、という人もいるのだろう。


何が肝心なのか?というのは、その女性とお化粧という事との距離のとり方、認識の問題であろう。その結果、やっぱり化粧はしないとか、あんまり自信ないけど少しはするとか、そういうのが決まってきて、本当に肝心なことというのは、その結果の(化粧された/あるいはされない)結果、よりも、そこに至るまでの、その人自身の、外部に対する緊張や不安や嫌悪や媚態のバランス配分であり、結果的に覚悟決めてこれで行こうと思うときの、迷いや逡巡を越えた決意みたいなものの方で、それがその結果(化粧された/あるいはされない)としての「顔」に、言い訳とか説明とかではなくて、ちゃんとあらわれるのではないか?主義だの思想だのでは感動なんてさせられないけど、そういう風にたちあらわれる「顔」なら、美醜とは別のところで、それ自体に感動させられる事もあるのではないか?という事。


なので僕もおそらく、化粧したいと思っているのかもしれない。というか、化粧という事に対して、はじめてそれを持つ中学生女子のように、考えたいという事であろう。でも冬だからガサガサだし元々あんまり化粧栄えする顔じゃないので厳しくて…とかなんとか、そういうもっともらしいセリフも口にしてみたい。なんとかいうメーカーの何とか言う新色が出たからどうのこうのと、我が事のようにはしゃいでみたい。。そういう事で自分と外部との接点をおそるおそる確かめつつ、新たな場の質感に触れたい、その意識を前面に、うちだしたい。


…というか、もちろんそのときの「感動」とは所詮、人間世界の中での感情の行き交いでしかない。化粧というのはとどのつまり、そういう事でしかない。しかし、…これは確実なのだが、いわゆるOpen/Closeが織り成す重力、というか、妙に切実な緊張感といったものは、それは化粧の粉それ自体でしかないのもまた、真実なのである。それは、すべてを内蔵している形式の作品というもののもつ厄介さである。作品の素晴らしさそれ自体とは物質としては、別に、何の特別なものでもないのだ。人間の手垢にまみれた化粧の粉でしかないのに、作品としてそれはめまぐるしく明滅するのだ。それはもうある意味、人間にはどうする事もできない領域のお話である。