生きている


マルグリット・デュラス-閉ざされた扉-」はデュラスがアル中で入院したあたりの話で、当時の恋人ヤン・アンドレアによって書かれた本。


これを読む限り、デュラスは病状が相当悪いようだけれども、当時つまりアル中で入院中の時代が八十年代初頭で、亡くなるのが九十六年なので、まだあと十五年以上も生涯が残されているわけだ。凄いことだ。人間はほんとうに、なかなか死なないというか、死ねないものなのか。漱石もそうだけど、一度死ぬ寸前まで行ってから、そのあと何年か十何年かかけて、もう一仕事二仕事するっていうのは、自分のような脆弱な人間にはほとんどめまいがするというか、気が遠くなるというか、もはや想像もつかないような過酷な世界に感じてしまう。

あなたは目をさます。食事するときはかならずキャスター付きのテーブルのせいで、いくらか不機嫌になる。あなたは言う。「こんなのはテーブルじゃない。これじゃなにもできない。手もとから逃げてゆくこんなテーブルじゃ、ものを書くこともできない。アメリカ人てのはとんでもない連中で、家庭でもこんなふうで、書きもの机なんてないのね」
(63ページ)


この箇所、思わず笑ってしまった。じつに素晴らしいな。


病院のテーブルって、たしかにそうだ。あれを不満に思ったことは無いが、たしかにあれは、手もとから逃げていく(笑)。そういえば、去年父が入院してたときも、病室の父はキャスター付きテーブルに配膳盆を乗せて食事をしていた。それを思い出した。


夜になって、録画しておいた「NHKスペシャル 戦慄の記録インパール」を観た。そしたら、これがまた凄くて、何がすごいって、まだ当時従軍した兵士が、今や八十とか九十とか、かなりの年齢だけれども、どの人もまだかなり矍鑠として元気なのである。もちろん歳相応の後期高齢者ではあるが、それでも、大変失礼ながら、まだ生きてること自体がほとんど虚構のような印象に感じられるというか、やはりかすかに気が遠くなるような感じがする。


生存されているのは、兵士だけでなくて、敵のイギリス軍の兵士も、また当時を知る、生まれてから今までずっとインパール在住の現地人の爺さんも、当然のように出てくる。九十歳とか百歳越えとか、当然である。インドの爺さんなんか、百歳ってうそでしょ?と言いたくなるような感じである。ジャングルにはまだいくらでも白骨やら兵器の残骸やら出てくるようだが、それより当時を肉眼で見た人間の、その肉眼がまだ活動していることの方がとてつもない凄さだ。インパールアウシュビッツヒロシマも、まだ全然消えてないとも思う。しかし同時に、それ以降の時代とそこに生じてきた色々なこと(出来事や芸術など)を思いうかべると、やはり大昔だなとも思う。生きるも死ぬもどうしても観念から逃れられないのに似て、それらを単線時間的なパースペクティブにおいて捉えるのは、たぶん無理なのだ。