身体が弱っていくというのはどんな感じだろうか、(ボブ・ディラン風に聞いてみたい。「どんな気分だい?」)父親は二月八日に倒れて以来歩くことができず、介護用ベッドに寝たきりとなって、同月の二十六日に亡くなったが、その間、本人は自分の身体が弱っているという自覚はあっただろうが、さすがにこのまま死に至るとは思ってなかったはず。老人の身体はたぶん砂がじょじょに崩れていくようにして壊れていくので、どこが悪くてその結果こうなったとか、その死に至るまでの過程を後からつじつまの合うように説明するのはおそらく難しくて、可能なのは直接の原因となったある一現象を名指すことだけだ。崩れていこうとする砂の建物を崩れないようにあらかじめ補強することはできない。砂が崩れるというのは、たしかに下の支えを失うことで上も崩れるような連鎖はあるだろうが、それに対して対策を施すこともできないし、いつどこから崩落が始まるのかわからないし、それが崩れる理由は結局それが砂だからで、そのこと自体はどうしようもない。しかし崩落と言ってしまうと、そのようにイメージされてしまうが、その最期が実際はどうなのか、それはわからない、きっと本人も驚いたんじゃないかなと思うが、ほんとうに眠るように意識を失ったのか、どうなのか、いっさいはわからない。


小津の「浮草」をDVDで観た。この映画のロケ地は波切などの志摩一帯で、まさにそのような景色が出てくる。この場所はおそらくあそこじゃないかと、僕でも何となく思いつくような風景ショットがある。波切で撮影しているのに、有名な大王崎灯台ではなく堤防の先端の何でもない小さな灯台が手前の空き瓶と対比させるような構図で出てくるのが面白い。そういえば、この映画について父親と話をしたことは無いと今更気付いた。藤島武二の風景画に大王崎の絵があって、その話はしたことがあるけれども、映画の話はないし、残念ながら今後ももう話す機会はない。でも「浮草」自体は僕はけっこう何度か観てるので今回観てもさほど新鮮でもなくて…と思っていたら観始めて十分もしないうちに眠り込んでしまったらしい。