VHSでマイケル・チミノ「サンダーボルト」(1974年)を観る。面白かった。マイケル・チミノ初監督作で脚本も同じ。娯楽作として人を面白がらせる技が、じつに冴えてる感じ。クライマックスである銀行襲撃までの、ダラダラのんびりした感じが、ちょっと「勝手にしやがれ!〇〇計画」風な感じもあって、また良い。

アイダホの荒涼とした地平にぽつんと建つ教会があり、遠くから砂煙を上げて走ってくる自動車が見える。画面の手前まで来た自動車は、ぐるっと迂回して砂煙で一瞬画面を真っ白にしつつ、建物の前に停車する。車から降りてきた男は、如何にもいわく付きな雰囲気だ。教会のドアを開けると礼拝の真っ最中で、檀上の神父はなんとクリント・イーストウッドである。男とクリント・イーストウッドは教会の入口と奥とで向かい合う。当然のごとく男は銃撃を開始する。教会内はパニックとなり、クリント・イーストウッドは間一髪で銃弾を交わし裏口から逃げ去る。

同じ時と思われる別場面で、ふざけた軽薄な態度で販売中の中古車を物色してる男はジェフ・ブリッジズである。彼は販売員を出し抜いて、車を盗難しそのまま走り出す。そこへ逃走中のクリント・イーストウッドが通りかかる。強引に彼の車に乗り込んだクリント・イーストウッドはかろうじて追手の追跡を逃れ一命をとりとめる。

偶然に出会った、軽薄で調子が良くて、どことなくふざけた態度の若者と、それを何となく苦々しく思いつつも仕方ないといった態度のやや年嵩の男、どちらもあまり堅気とは思えない、ワケありな雰囲気の二人の旅である。すくなくともクリント・イーストウッドは彼に対してずいぶん年上のようだし、この若者を自分の関わってる厄介事の道連れにしてしまうことに躊躇もするし警戒もする。しかし若者は無邪気で何も気にしてない様子だ。一度は袂を分かつかと思いきや、再び一緒になった二人は、いよいよそのまま旅を続けることになる。

河のほとりでビールを飲みながら、クリント・イーストウッドジェフ・ブリッジスに自分の過去と隠した金の在り処を話す。それを聞いたジェフ・ブリッジスはそのとき、クリント・イーストウッドを出し抜こうとか騙そうとか、そういうことは一切思ってなくて、彼の言葉を聞き、ぜひそれを取りに行こうと話す。まるで楽しい旅行をこのまま続けようとでもするかのように。

クリント・イーストウッドを執拗に追う男レッドの襲撃に対しても、ジェフ・ブリッジスはその状況から逃げ出そうとはしない。彼を援護し協力の態度を示す。それは金のためだけとも思われない。単に面白いからなのか、クリント・イーストウッドのそばに居るのが楽しいからなのか。彼の軽薄で調子の良い態度は、つねに変わらない。

銀行襲撃作戦が始まってから、さっきまで敵だったかつての味方が、あらためて味方になり、ひとまず一致団結する。各人まるで似合わない滑稽な制服でアルバイトしながら、作戦は着々と進行する。ジェフ・ブリッジスは女装してセキュリティの従業員を誘惑する。そんなバカな…と思うも、襲撃そのものは秒単位で計画されており、すべての歯車を噛み合わせるべく、息詰まる緊迫感をもって強盗計画は進行する。

次々とあらたな自動車を入手することで、はじめから最期まで二人の旅は続いた。盗んだり乗り換えたり、彼らはいったい何台の車に乗り換えたのか。最後は当初憧れたお望み通りのキャデラックで走り去る二人。しかしジェフ・ブリッジスはまるで眠るかのように絶命する。クリント・イーストウッドは助手席に力なく頭をもたげる彼の姿を、無言で見つめるだけだ。

うろおぼえだけど、松本零士の戦場まんがシリーズ作品のどれかにあった台詞。「飛行兵はいいなあ、座って戦争ができるんだから」

飛行機の座席に座ってられる飛行兵とちがって、歩兵は自らの足でひたすら行軍するのだから、言いたいことはわかる。でもおそらく飛行兵は、座って戦争をするというよりも、飛行機に身体を括りつけられて戦争するのだ。座って戦争ができるのは、金持ちか偉い人だけだろう。だからほんとうは、座って戦争してる連中をこそ、殺すべきなのだが。

で、だからつまり、シートベルトで飛行機の座席に身体を括りつけないと、飛行機の操縦はできないだろう。操縦士の身体は飛行機に固定され、両者にずれがなくなり、機体の動きにともない物体にかかる遠心力や慣性力は、操縦士の身体に負荷としてそのまま伝わる。それは機体を身体の延長とみなすことでもあるし、自分の肉体を機体に隷属させることでもある。

地上を歩き続ける歩兵は、いかなる状況下でもつねに生きようとあがいているかのようだ。死のうと思って歩く人はいない。死の行進で、強制的に歩かされているときでさえ、肉体は生きようとしている。肉体そのものが、この私に疲労や苦痛や悲嘆や絶望を返してくるのだ。

飛行兵はそれをはじめからあきらめ、手放した存在だ。彼らははじめから死の準備をしているかのようだ。飛行機は、乗り物そのものは疲労しない。壊れてしまうことへの恐怖を返してこない。

乗り物がそもそも、そういうものだ。飛行機にせよ、自動車にせよ、生まれたばかりの時代のそれは、かならず一人乗りだった。一人乗りの乗り物がそもそも、死に魅了されているのだ。

動物も場合によっては、移動する物体に乗り込み、その便利さに便乗することがあるかもしれないが、さすがに一人乗りの乗り物に自らの意志をもって、己が身体を括りつけることはしないだろう。というか、何かに自分を括りつけるという行為は、(他人の助力を請える)人間にしか、不可能ではないのか。

まるで動物のように、誰もが生命の危険から身を守ろうとするなら、一人乗りの乗り物ははじめから考案されない。だから動物だけの世界ならば、この世に乗り物が発明されることはないだろう。

動物たちは、闘争することがあるとしても、双方に甚大なダメージが想定される闘いは回避する。まして組織的に(組織的な勝利を目指して)闘うことはない。動物は、自らの生命に対して危機を感じれば、泣き叫び、暴れる。涙を流すこともあるかもしれない。しかし、こうなることを薄々予想していたとは思ってないだろうし、後悔もしないだろう。後悔するのに必要な、あのときあの場所でといった再帰の思考がなく、今この恐怖の中にいるだけであろう。

人は死を動物的に恐れ、恐怖することができない。冗談ではない、まっぴらごめんだと、最初から予断なく言い切ることができない。

移送列車に乗せられたとき、飛行機の座席に括りつけられたとき、これでもうお終いだ、いよいよ俺は死ぬのだと覚悟を決めながらも、どこかに生の不思議さを見ている。かすかな愉悦を感じている。死へ向かうことの魅惑と、今ここにある生命の感触とが触れ合うのを感じている。

身体の特定部位とか衣類とか持ち物に、強い性的執着をおぼえるのがフェティシズムであるとして、そういう性的感覚は自分にもわかるつもりだが、その執着心が、じっさいにそのものに触れても消えないというのが理解できない、とまでは言わないけど、幻想とははかないものなのに…とは思う。

自覚された性欲なんて、おおよそフェティシズムではないのか。たとえば女性の靴が好きだという性的執着があるとしても、じっさいに手でその靴に触われば、どこにでもある靴の触感を自分の手に返してくれるはずで、そのときに性的幻想は瞬時に喪失されないかと思う。いや、そんなことはないのだ、それに触れるとか、靴で踏まれるとか、そんな直接的な触感的感覚でも、性的幻想は潰えるどころか、さらに膨張するのだと言うなら、それはそうなのだろうし、それで良いかもしれないが、だとしても程度問題ではないか。所詮は誰もが、どこかであきらめているのだし、どこかで自分に嘘をついてごまかしているのではないか。

フェティシズムとはつまり比喩であり、まるで無関係なものが短絡的に結びついた状態が、人の心の中でずっと維持されている。その比喩の状態に魅了されるというか、比喩の先の決着されない意味の気配に魅了されているということだろう。

じっさいに、他人の肌や温もりを感じ、性的部位に手で触れ、肌を直接重ねたときの触感は、フェティシズム的幻想をけっして充足させない。それとこれとは別であり、他人の肌や性的部位や、その体温や息遣いは、けっして固有のものではない。このとき、身体は多かれ少なかれ、どれも同じであり、特筆すべき個体差はないと言ってよい。

たとえば恋愛感情に心を奪われた人間が、その相手と抱擁したとする。それはきっと天にも昇るような幸福な体験のはずだが、相手の肉体そのものは、人体一般の範疇を越えるものではなく、なんら特別なものではない。どれほど高揚した瞬間の只中であっても、人は必ずどこかでその事実に気づいている。

「他ならぬこの私」を捉えることが出来ないのと同様、「他ならぬあなた」も捉えることができない。恋愛感情によって、他でもないあなたこそが私のこだわりであり執着なのだというとき、にもかかわらず私にとって、なぜ貴方が貴方でなければならないのかを、私はけっして説明できないということだ。

これは冗談だけど、僕は大昔、誰かの肌にはじめてふれたとき、あまりの「現実感」に慄き、これこそが「物自体」では…、と思ったことがある(ウソです)。

月曜夜に来た業者は、うちの風呂の蛇口を一目見るなり「あ、部品がちがう」と言って五分で撤収した。仕方ないので管理会社経由で別業者に来てもらうことになったのだが、事前にメールで送信した蛇口部分の写真画像に対する担当者の返信が「いくつか部品を持参して試します。もし当日完了できなければ、また日程を再調整させていただくかもしれません」とか、妙に自信なさげな、上手くいかなかったときの逃げ道確保なニュアンスが濃厚に漂っていた。

つまりうちのマンションの水回りが、今となっては如何に古くて汎用性に欠けるかをこの事態は示しており、じつは前からそれはうすうすわかっていた。業者を家に呼んだことは以前にも何度かあり、そのたびに担当者の「どうも簡単には済まないぞ」とでも言いたげな態度、あるいは苦しい言い訳をされて出直されることが多いからだ。

仕方ないんだなあ、古いからなあ、と思って、ここに住む以上あきらめるしかない。賃貸だから修繕費用は貸主側なのでそれは良いのだけど、あまり大掛かりな工事になるのも嫌だし、当分このまま、微妙な状態をダマしダマし使っていくしかないのか(というか、すでにそのやり方に慣れてしまっているのだが)。

ある時代の、東京に縁の深いおじさんたちは、永井荷風が好きである。ちなみに江藤淳小林信彦はともに1932年生まれ、永井荷風は1879年生だから当然ながら両者とはまるで同時代ではなく、二人は荷風の見た景色をそのまま見たわけではない。にもかかわらず、江藤淳小林信彦永井荷風が好きで、荷風の見たものをあたかも自分の記憶した景色であり時空間であるかのように読む、というか荷風の見たものが自分の見たものとつながっていると感じる、その確信こそを大切にしたいと思っている、のだとする。

たとえば彼らがいつかこの世界を去ることで(江藤はすでに死去)、彼らにとっての永井荷風も消えていく。もちろん永井荷風はこれからも読まれ継がれるだろうけど、江藤淳小林信彦という個体の条件下における永井荷風は、これで消えていく。ただしそのような個体の条件下において読まれた永井荷風が、かつて存在したという事実は残る。それは江藤や小林の書く本によってだ。

だから我々は彼らの本を読み、彼らの頭の中にあるだろう永井荷風に対して、彼らに替わって、というか彼らから譲り受けたかのようにして、何か未練のような、ないものねだりの感情を持たされることになる。彼らが荷風を読んで思い浮かべる景色とか、ある時空間、おそらくは彼ら自身の記憶とないまぜになった、個人的感傷もともなうだろうそれを、同じように感じたいと思わせられ、しかしそれがかなわないことを、はじめから知っている。

しかしもともと荷風自身が、失われたものへの郷愁とか、かつてそうであったものの喪失感を、中心的主題としているのである。関東大震災以後の東京を描くとはつまりそういうことで、以降誰においても東京を描くとは喪失を描くことにほかならず、東京という場自体が、はじめから失われた何かとして追い求められる対象なのだ。

彼らはまるで、深海を行く潜水艦や宇宙を行く人工衛星の撮影した映像を吟味して、ああそうだ、思った通りだ、この景色こそ想像した通りのものだと、感慨に耽っているかのようでさえある。知らないはずの過去が、私の知っている何かと強く関連付きながらあらわれ、私たちの現実と地続きであること、むしろそれが私たちの現実の輪郭を強調し、覚醒させる何かとしてあらわれる。

たとえばプルーストを読むというのも、つまりはそういうことなのだろうか。誰かによって見出された、誰かの過去。もとよりそれははじめから無かったのかもしれないが、誰かによって信じられていて、それによって誰かの心を支えている、いわば二重の過去は、その誰かがいなくなることで消えていく。しかしそれが誰かによって見出された、その事実自体は残る。作品が読まれるというのはそういうことで、作品の質、その厚みとは、そのような時間の堆積を指すということか。そのような何かがかつてあったように感じることが、その厚みということか。

風呂の蛇口が壊れて栓がきちんと締まらず、お湯が止まらなくなった。温泉かけ流し状態である。水が出ないのは困るが、止まらないのも同じくらい困る。仕方がないので、外の元栓を締めたら止まった。

これだともちろん、家のなかの全ての水供給が止まったままだ。ほぼ生活不能、このままでは、やって行けないことになる。至急修理を請いたいところだが、運悪く日曜日の夕方なので管理会社に電話しても不通である。なすすべないので、今日はあきらめて、むしろいつか来るべき災害時のリハーサルだと思って、浴槽に溜めた水を有効活用し、諸事取り行う。

思えばここも古いマンションで、築何十年とかで、我々が住んでからも相当な時間が経過した。ちなみにこのブログをはじめたのは2006年6月頃で、ここに引っ越したのはたしか同年11月である。まじか、いったい何年経つんだ…と、なんかやってることも生活も、ほとんど何も変わらぬうちに、時間ばかりが過ぎる。おそろしいことだ…などと書きながら、べつにおそろしいとも思ってなくて、ただ漫然と水のように、気づいたらそれだけ時間が経っているという感じ。

まあ、水回りはさすがに劣化してくるものだろうが、でもうちはなぜか、不思議なほど電化製品が壊れない。テレビも冷蔵庫も二十年以上壊れてないはず。洗濯機は音がうるさい(と妻が言う)から、数年前に買い替えたけど、壊れたわけではなかったはず。家具や調度品も変わらないので、室内の景色が昔も今もそのまま。本棚には当たり前のように十年とか二十年以上前からの「未読本」も多数ある。すべてがこの調子だから、時間が止まっているとは言わないがその流れは緩慢で、それは二人の住人も同じで…と思いたいがどうか。そこは自覚の問題か。

整形外科で診察とリハビリ。順調に快復している、とのこと。同じ薬が、さらに二週間分処方され、経過観察となる。

久々の店で、イタリア野菜惣菜盛り合わせ、芽キャベツのローストに牡蠣ソース、茹でジャガイモにホタルイカソース、そして生桜海老のパスタ。

ワインはすべて自然派。白とオレンジを、さっぱりから濃厚まで、皿ごとにグラスで。〆にグラッパで。

帰ってから新玉ねぎ薄切りとタコのマリネ。これはいつでも美味しい。再び呑む。