身体の特定部位とか衣類とか持ち物に、強い性的執着をおぼえるのがフェティシズムであるとして、そういう性的感覚は自分にもわかるつもりだが、その執着心が、じっさいにそのものに触れても消えないというのが理解できない、とまでは言わないけど、幻想とははかないものなのに…とは思う。

自覚された性欲なんて、おおよそフェティシズムではないのか。たとえば女性の靴が好きだという性的執着があるとしても、じっさいに手でその靴に触われば、どこにでもある靴の触感を自分の手に返してくれるはずで、そのときに性的幻想は瞬時に喪失されないかと思う。いや、そんなことはないのだ、それに触れるとか、靴で踏まれるとか、そんな直接的な触感的感覚でも、性的幻想は潰えるどころか、さらに膨張するのだと言うなら、それはそうなのだろうし、それで良いかもしれないが、だとしても程度問題ではないか。所詮は誰もが、どこかであきらめているのだし、どこかで自分に嘘をついてごまかしているのではないか。

フェティシズムとはつまり比喩であり、まるで無関係なものが短絡的に結びついた状態が、人の心の中でずっと維持されている。その比喩の状態に魅了されるというか、比喩の先の決着されない意味の気配に魅了されているということだろう。

じっさいに、他人の肌や温もりを感じ、性的部位に手で触れ、肌を直接重ねたときの触感は、フェティシズム的幻想をけっして充足させない。それとこれとは別であり、他人の肌や性的部位や、その体温や息遣いは、けっして固有のものではない。このとき、身体は多かれ少なかれ、どれも同じであり、特筆すべき個体差はないと言ってよい。

たとえば恋愛感情に心を奪われた人間が、その相手と抱擁したとする。それはきっと天にも昇るような幸福な体験のはずだが、相手の肉体そのものは、人体一般の範疇を越えるものではなく、なんら特別なものではない。どれほど高揚した瞬間の只中であっても、人は必ずどこかでその事実に気づいている。

「他ならぬこの私」を捉えることが出来ないのと同様、「他ならぬあなた」も捉えることができない。恋愛感情によって、他でもないあなたこそが私のこだわりであり執着なのだというとき、にもかかわらず私にとって、なぜ貴方が貴方でなければならないのかを、私はけっして説明できないということだ。

これは冗談だけど、僕は大昔、誰かの肌にはじめてふれたとき、あまりの「現実感」に慄き、これこそが「物自体」では…、と思ったことがある(ウソです)。