うろおぼえだけど、松本零士の戦場まんがシリーズ作品のどれかにあった台詞。「飛行兵はいいなあ、座って戦争ができるんだから」

飛行機の座席に座ってられる飛行兵とちがって、歩兵は自らの足でひたすら行軍するのだから、言いたいことはわかる。でもおそらく飛行兵は、座って戦争をするというよりも、飛行機に身体を括りつけられて戦争するのだ。座って戦争ができるのは、金持ちか偉い人だけだろう。だからほんとうは、座って戦争してる連中をこそ、殺すべきなのだが。

で、だからつまり、シートベルトで飛行機の座席に身体を括りつけないと、飛行機の操縦はできないだろう。操縦士の身体は飛行機に固定され、両者にずれがなくなり、機体の動きにともない物体にかかる遠心力や慣性力は、操縦士の身体に負荷としてそのまま伝わる。それは機体を身体の延長とみなすことでもあるし、自分の肉体を機体に隷属させることでもある。

地上を歩き続ける歩兵は、いかなる状況下でもつねに生きようとあがいているかのようだ。死のうと思って歩く人はいない。死の行進で、強制的に歩かされているときでさえ、肉体は生きようとしている。肉体そのものが、この私に疲労や苦痛や悲嘆や絶望を返してくるのだ。

飛行兵はそれをはじめからあきらめ、手放した存在だ。彼らははじめから死の準備をしているかのようだ。飛行機は、乗り物そのものは疲労しない。壊れてしまうことへの恐怖を返してこない。

乗り物がそもそも、そういうものだ。飛行機にせよ、自動車にせよ、生まれたばかりの時代のそれは、かならず一人乗りだった。一人乗りの乗り物がそもそも、死に魅了されているのだ。

動物も場合によっては、移動する物体に乗り込み、その便利さに便乗することがあるかもしれないが、さすがに一人乗りの乗り物に自らの意志をもって、己が身体を括りつけることはしないだろう。というか、何かに自分を括りつけるという行為は、(他人の助力を請える)人間にしか、不可能ではないのか。

まるで動物のように、誰もが生命の危険から身を守ろうとするなら、一人乗りの乗り物ははじめから考案されない。だから動物だけの世界ならば、この世に乗り物が発明されることはないだろう。

動物たちは、闘争することがあるとしても、双方に甚大なダメージが想定される闘いは回避する。まして組織的に(組織的な勝利を目指して)闘うことはない。動物は、自らの生命に対して危機を感じれば、泣き叫び、暴れる。涙を流すこともあるかもしれない。しかし、こうなることを薄々予想していたとは思ってないだろうし、後悔もしないだろう。後悔するのに必要な、あのときあの場所でといった再帰の思考がなく、今この恐怖の中にいるだけであろう。

人は死を動物的に恐れ、恐怖することができない。冗談ではない、まっぴらごめんだと、最初から予断なく言い切ることができない。

移送列車に乗せられたとき、飛行機の座席に括りつけられたとき、これでもうお終いだ、いよいよ俺は死ぬのだと覚悟を決めながらも、どこかに生の不思議さを見ている。かすかな愉悦を感じている。死へ向かうことの魅惑と、今ここにある生命の感触とが触れ合うのを感じている。