ある時代の、東京に縁の深いおじさんたちは、永井荷風が好きである。ちなみに江藤淳小林信彦はともに1932年生まれ、永井荷風は1879年生だから当然ながら両者とはまるで同時代ではなく、二人は荷風の見た景色をそのまま見たわけではない。にもかかわらず、江藤淳小林信彦永井荷風が好きで、荷風の見たものをあたかも自分の記憶した景色であり時空間であるかのように読む、というか荷風の見たものが自分の見たものとつながっていると感じる、その確信こそを大切にしたいと思っている、のだとする。

たとえば彼らがいつかこの世界を去ることで(江藤はすでに死去)、彼らにとっての永井荷風も消えていく。もちろん永井荷風はこれからも読まれ継がれるだろうけど、江藤淳小林信彦という個体の条件下における永井荷風は、これで消えていく。ただしそのような個体の条件下において読まれた永井荷風が、かつて存在したという事実は残る。それは江藤や小林の書く本によってだ。

だから我々は彼らの本を読み、彼らの頭の中にあるだろう永井荷風に対して、彼らに替わって、というか彼らから譲り受けたかのようにして、何か未練のような、ないものねだりの感情を持たされることになる。彼らが荷風を読んで思い浮かべる景色とか、ある時空間、おそらくは彼ら自身の記憶とないまぜになった、個人的感傷もともなうだろうそれを、同じように感じたいと思わせられ、しかしそれがかなわないことを、はじめから知っている。

しかしもともと荷風自身が、失われたものへの郷愁とか、かつてそうであったものの喪失感を、中心的主題としているのである。関東大震災以後の東京を描くとはつまりそういうことで、以降誰においても東京を描くとは喪失を描くことにほかならず、東京という場自体が、はじめから失われた何かとして追い求められる対象なのだ。

彼らはまるで、深海を行く潜水艦や宇宙を行く人工衛星の撮影した映像を吟味して、ああそうだ、思った通りだ、この景色こそ想像した通りのものだと、感慨に耽っているかのようでさえある。知らないはずの過去が、私の知っている何かと強く関連付きながらあらわれ、私たちの現実と地続きであること、むしろそれが私たちの現実の輪郭を強調し、覚醒させる何かとしてあらわれる。

たとえばプルーストを読むというのも、つまりはそういうことなのだろうか。誰かによって見出された、誰かの過去。もとよりそれははじめから無かったのかもしれないが、誰かによって信じられていて、それによって誰かの心を支えている、いわば二重の過去は、その誰かがいなくなることで消えていく。しかしそれが誰かによって見出された、その事実自体は残る。作品が読まれるというのはそういうことで、作品の質、その厚みとは、そのような時間の堆積を指すということか。そのような何かがかつてあったように感じることが、その厚みということか。