作品写真の電子画像


作品写真の電子画像を10点ほどフォトライフにアップロードしてみた。まあこれを見て下さっている皆さんのご利用環境や画面解像度やモニタのスペックなんかで、様々に違って見えるでしょうからあくまでも参考に過ぎないのですが、これらの写真は現実のものよりもやや鮮やかで、彩度も高めに感じます。…まあ大体、こんな感じですので、まあ「ある種の判断」にお役立てください。実物だとまた違って見えると思いますので、そのあたりも含めどうぞ!


具象絵画を描いているのだと普段から意識して絵を描いている訳ではないのだが、それでも僕の絵は「○○が描かれた絵だ」と思わせる。あるいは「これは具象だ」と思わせる。で、具象絵画は「これはイリュージョンだから、これが本当は物質であることを忘れて観て下さい。イメージを楽しんで下さい」と言ってるように受け取られる側面が強いかもしれない。でもまあ、それでもいいし、そうでなくてもいい。僕は元々さほどデッサン的巧みさを持たないので、そういう技巧的なのを観たい方はツマラナイだろうけど。


描いてる本人としては、描いてるものに自分が絡め取られないよう、なるべく気を散らして描いている積もりだが、これら全体を通じて、結果的に何かが現れるのかそうでもないのかは、わからない。何だかんだ言っても多分、僕自身がクリシェに落ちているだけであれば、これはもう駄目である。僕は多分、元々クリシェから出発して、それを突き抜けないといけないようなスタイルなのかもしれないので、だから失敗した場合はあっと言う間に(0.2秒くらい)すごい凡庸な何かに包まれた何かがあるだけの感じかも?とかぼんやり認識したりする。まあこれも、思い煩っても仕方がない。終わった事はもはやどうでもいい。


まあ、それはともかく、例えば線描を見てどれほど素晴らしい絵画的な愉悦の中にいても、それが只の線であるという事は変わらない。具象絵画とか抽象絵画とか、そういうのに限らず美術作品は「これが本当は物質であることを忘れて、今ここに現前するイメージを存分に楽しめ」というような、イリュージョン的なものを提供する事物なのか?と言ったら、そうでもないと思う。ただ、…というか物質である事が信じられないくらいすごいイリュージョンに触れる喜びというのは、これだって、とてつもないものなのであるから、別にそれを徹底して目指したって構わないので、僕なんかは結果的にそれでいいじゃん。なんでわざわざ余計な事しないと駄目なの?なんて思うこともある。ものをちゃんと描こうとするのは、男ひとりが一生賭けてやるに値する仕事である。というか、努力の順番として、まず物質である事が信じられないくらいの描きで、すごいイリュージョンを目指すぜ!っていうのが自然であると言いたいくらいだ。ほいで、そういう基礎的単線的な一方通行で反復的な努力の行き着く先で、なんだか「全て台無し」な、絵を描く事自体があられもなく暴かれてしまってるような、そういう、質だのなんだの言えないような世界が開けることがあるとしたら、それは結構、素敵なのではないか?そういう訪れがいつかあるといいなと思っている。

カラヴァッジオ


カラヴァッジオの絵で、イエスの復活を信じないペテロに、イエスが「そんなに信じられないなら僕の傷口を手で触ってみなよ」という場面を描いたヤツがあるけど、その絵では、ペテロは手首を無理矢理イエスに取られて、胸元のあたりまで導かれて、そのまま横腹に槍をぐさっと突き刺された筈の傷跡の、ぱっくりあいた口の奥へ、4本の指先全部(確認したら人差し指だけだった。4本全部入れてるように間違って記憶していた。。)、第一関節あたりまで挿入させられている。しっかり確認しろと言わんばかりの力強さで。で、ペテロは「…え?」っていう顔をしている。なんか、少年マンガで、憧れの女性に大胆な振る舞いをされた主人公というか、今時それはないだろ普通。というか、普通描く??えー!普通、そんなあざとくこれ見よがしな事して、観る人をびっくりさせようとかする?とか言いたくなる感じがしないでもない。


イサクの犠牲を描いた絵なんかも、アブラハムが息子を殺そうとして首根っこを抑え付けて、黒光りするかなり切れなそうな痛そうな感じのナイフを構えているところに、天使にやめれと言われてるのだが、このイサクを抑え付けている手は天使がアブラハムを制止させる手と呼応したりしているのだが、そんな事なんかよりも格段の強度で観るものに強く飛び込んでくる印象としては、もう、とてつもない残酷で冷徹な、抗ったり泣き落とししたり媚を売って機嫌を取り成したりなど到底できそうもない、すさまじい腕力の抑え付けの力そのものであり、嫌がるイサクは全体重をかけてのしかかられ、首の動きを腕一本で完全に抑えられ、それでも抵抗して、あらん限りの力で叫ぼうとして振り返り、少しでも父の顔を見ようとするその動きすら、頬に掛かる父親の親指一本の力だけで、完膚なきまでにねじ伏せられている。(この頬にあたる親指一本の描写が素晴らしすぎる)ここに現れているものはイサクの犠牲だの信仰の篤さだのといった以前に、大人の男が本気で力を出している事の恐ろしさとでもいったようなものであり、しかしどうしても滲んでしまう、なすすべなく陵辱されてしまう事への甘美な懊悩と恍惚の予感でもある。


カラヴァッジオの場合、絵を描くとき明らかに、聖書という題材は描き出すほんの取っ掛かりというか、きっかけにしかしていないような感じがあからさまで、それを隠そうともしていない。むしろ積極的に(場合によっては作品の質を低下させてしまう事すら厭わず)何らかの主張を試みているようにすら感じる。更に意味のわからない変な例えだが、庇を借りて母屋を乗っ取る。というか、非常に図々しいというか、そこまで平然と、表面的にだけルールを守って、あとはやりたい放題にするというか、そういう態度の面白さが、絵の周囲に漂ってるところがある。

喜びに関して


随分前に読んだもので、もう既に書いた人も題名も全体の内容も忘れてしまった小説だかなんかの文章の中なのだが、登場人物の女性が不倫相手と2回目の性交渉の最中、という場面があって、そこでその女性がすごい快感を感じながら、ああ、これはやっぱ最高だ。と思っているような描写があったのだけ憶えているのだが、これが何故、ヤケに印象的なのかっていうと、たぶんあらゆる喜びというのは、おそらく2度目以降の体験で、やっとはっきりとした輪郭を備えて現れてくるものだというのを思い起こさせるからだと思う。例えが性的な場面なので誤解を招くアレだが、こういう感じというのは何も性感に限らないので、基本的に、全ての喜びは、2度目以降やっと体を成すようなものなので、つまり何事も2度目が最高の体験になり得るのだろうが、それは最高の体験であると同時に、そういうのを感受している私、自体の確認の意味も併せ持つ事になるだろう。つまり、何かを味わう場合、必ず、そういうのを感受している私自体の確認が同時に行われているのだ。そういう、確認されカッコに括られた「私」の認識を欠いては、起こっている事や感じている事を何も理解できないという事にもなろう。まあ勿論、理解なんてする必要は全然なくて、すべてが「はじめて」の感覚の積み重ねである人もいるのだろうから。それはそれで、いやむしろそっちの方がすげえ。でも大抵の場合は、2回目ではじめて「ああ、これはやっぱ最高だ。」と思うのだ。じゃあ最初はどうか?というと、これはやっぱり単なるショックだったり単なる恐怖だったり、そういう事でしかないと思われる。それを感受・判断するための、心の中の「作業場」をあらかじめ自分の中に準備できていないからだろう。この1度目と2度目以降との狭間に嵌ってしまうと、怖いことになる。2度目以降の貪欲になった感覚が、本来1度目でしか味わえない類稀な新鮮な感覚を求め過ぎるとヤバイ。


というか、つまり喜びというものをどう捉えていくか?も難しいところがあるのだ。行き続ける上で、喜びの多い人生とかって言ったら、そういう単発的な喜びがやたら多発するパターンもあれば、一度だけの出来事が、その後も長くその後に作用し続けるパターンもあるだろう。…まとまらないがここまで。

雑踏にて


必要があって久々に衣類等を買いに行く。でも昔みたいにそういう買い物を楽しむ気持ちが、完全になくなっている。っていうか、もはやデパートとかの人込みに相当耐えられなくなってる自分がいる。マジで気が狂いそうになるっていうか、全員に毒付きたくなるっていうか、もう商品とか見てても楽しくないし、近寄ってくる店員とかに無駄に「おお!これすごいゲリウンコっぽい感じの色っすね!」とか「これすごいゲロゲロマミレになったみたいな感触最高っすね!」とか余計な事言いたくて仕方ない感じになる。まあその後、見ててなんか、まあまあ可愛いじゃん。っていうのがあって、そのときだけ一瞬、楽しい感じが微かに蘇ったりして、ああ。そうそうこういう気分がずーっと持続じゃないと買い物なんてしてらんないよな通常…とか思ったが、でももうなんか、全体的にヤケに荒さみまくってわれながら参った。店員の男の子とかも…なんか最近、若い男が本当にみんなルックスが良くてかわいい感じの子が多くなったと思うが、なんか下向きやがって詰まんないことばっか言いやがって、やっぱ楽しくない。んで…ますます荒む。路上でも電車でも、なんか本当にダメダメな気分でふらつくように歩く。あとお母さんと小学生くらいの子供。というペアを多く見かけたが、言っちゃ悪いけど、ほんとうに最近のお母さんって、まあまあ裕福そうで結構、見た目キレイ目な感じとしても、それと関わり無く、ちょっと笑うくらい皆ブスオーラ出してるよね!あとその息子っていうか、クソガキもほんとうにかわいくないよね!ああいう小学生って異様だよ。服だけ小奇麗なのにあんなデロっとした肉片みたいなガキ、糞映画とかでもそうそうお目にかかれねーよ。…って、たまたま近くに居た二人連れの見た目だけで、苛つき任せに勝手にぐちゃぐちゃ思い込んでblogにこんな事書いてる僕が一番アタマおかしいっつーか、阿呆極まりないと思うけど、でもやっぱ、ああいう親子とか、超・キモイと思った。…っていうか、わざわざこんな事書いて載せるより、素直に今日は更新スルーしとけば良いと思った。

一日について


午後4時だとか、6時だとか、夜の9時とか、午前0時だとか…。一日は巡るけど、そのルーティンで、如何にフレッシュに生きていけるのか!!…をもうちょっと考えないといけない。大体わかっているのは、がーっと良い気分にさえ襲われれば、人生はそれだけで、ほぼ全く問題がなくなるのだという事で、そういう状態だけで結構数々の事をこなせるのかもしれないのであるが、まあ現実はそうもいかないのである。しかし、非常に泥濘に嵌って、なんとか出てきて、膨大なロスを負った事を認識した瞬間とか、その直後とかの不思議にすっきりとした気分というのは、これは意外と馬鹿にしたもんでもない。状況がどうとか、相対的に上手くいってるとかヤバイとか、そういうのはあんまり関係なくて、実はいつも重要なのは、今、この瞬間、気分が良いかどうかに尽きる。すごい細やかで配慮が行き届いていて、かつ大胆な行動も可能になるような、そんなコンディションを整えるには、それしかない。ちゃんと成果をあげていくには、日々をかなりルーティンワークの集積として積み上げていく必要があるのだけれど、それでもいつも常に気分が良い感じでいられれば最高だ。


話は変わるが、今日2時間しか寝てないよーとかいう人がたまにいるが、あれを言われるのが嫌いである。アレを言われると、なんか汚らしいものをばーっとかけられたような気がする。知らんよと思う。まあ色んな事情でそういう話なんだけど、俺聞きたくないとか思っちゃう。大体、睡眠時間を削るという理由が、まったく意味わからない。そりゃあ僕だって、今まで生きてきて睡眠時間を削らざるを得なかったときは何度もあるが、それでも自分にとって、そういうのはかなりな非常事態で、通常はあってはならない事だと思うし、もしそういう状況の翌日なら、ちょっと恥ずかしそうに、こそこそしてるべきだと思う。睡眠時間を削るというのは、空腹なのにご飯を食べないとか、寒いのに上着を着ないとか、そういう事と一緒で、なんつーか、すごい寂しくて頼りなくて、なんか悲しくなってしまうのである。そこまでして、それでどれほどの見返りがあるのよ。って思うし。


でも世の中には、ほとんど寝ないで平気な人も実在するのだから恐ろしい。朝から夜まで働いて、そのあと夜遊びして、明け方帰ってちょっと寝て、また朝仕事して…それが毎日。。とか、そういう人っている訳ですからね!僕、正直、そういうのを全然、すごいとかうらやましいとか思わないんですが、でもその人なりの筋は通っていて、それは爽快な感じがして良いと思う。そこまでいけば、不潔さはないと思う。っていうか、その人の構成が、そういう仕様なのだろうから。


まあその一方で、ある人が言ってた「朝起きるのが死ぬほど辛くて、もうこのまま殺してほしいって思うほど、起きるのが辛い。」という言葉に、かなりな共感を禁じえないのが僕である。朝は殺してほしい程眠く、そのまま午後4時だとか、6時だとか、夜の9時とか、午前0時だとか…一日が巡ってしまう。これがもっとも最悪。高校生の頃とか、こういう悪循環を崩すためだけに完徹して、翌朝学校でフラフラになって生活リズム崩したりとかの実験をして、その苦悩の只中に「剥き身の自己」を新たに発見するゲーム!を一人孤独に挑戦したりしてた事を、今ふいに思い出したが、全ては無駄でした。まあある意味、高校生のときより今の僕のほうがずっと若いかもしれない。

「Time out for Smokey Robinson & the Miracles/Four in Blue」「Make It Happen/Special Occasion 」Smokey Robinson & the Miracles


縋るような、焦がれるような思いで聴く音。それがSmokey Robinson & the Miraclesである。…で週末買ったCDが届いた。そしたらケースパッケージがやたらかわいいので喜んで、写真なんか撮ってみた。こういうのを見ると、やっぱりパッケージ商品を買うのはやめられないとか思う。単なるダウンロードでは得られない喜びだ。(…それにしてもなんか、すごいセコイ写真だ。自慢したくて撮影したのに、まるでヤフオク出品物みたいでこれじゃ逆効果だが…。)



      



わかり難いが、両面開きCDケース裏表に2枚分のジャケットが入ってる。で、ディスクは1枚(2in1)です。それを2枚買った。合計4アルバム。…で、当然の事ながら音はもう格別の輝きに満ちている。しばらくはこれだけで宜しい。これを書いてる今もすごい良すぎてやばい!

出会いを求めて/途方に暮れて


美術作品を観て途方にくれると言うのは、初対面の人物にあって取り付くシマもなくて途方にくれるのとよく似ているかもしれない。あなたが何を考えているのかわからない/私に何を求めているのかはっきりしてほしい。という苛立ちとか、そういうのに苛まれるという状況で、この場合おそらく「出会い」は本来こうあるべき。というぼやっとしたイメージがあらかじめ私にあるから、それにそぐわなくて途方にくれたり苛立ったりしてるのだろう。


ただ、絵なんかを観てる場合、途方にくれる経験を重ねていくうちに、そのうちこうして途方に暮れた所からはじめて「出会い」がやってくるのかもしれないなという感じを、とりあえず信じてみようという気になってくる。人と違って、絵はこちら(私)がどれだけ「出合い」に際してもたついたり、性懲りも無く何度も会いに行ったり、初対面で良い雰囲気にならなかったとしても、向こうは黙って展示されていてくれるのだし、こちらを待っていてくれるのだから便利である。(もちろんちょっと頑張って会いに行かなきゃならないこともあるだろうけど、私との再会を向こうから拒否してくるような絵画はこの世にそんなに沢山はないと思われる。)


というか、話は変わるが、いや変わったようでいてこれも話の続きだが、僕は結構女性の好みに"面食い"な所があるらしく、・・・というか所謂「美人」が好きで、もう今は、年を取ったのであまりそういう感覚が減衰したけど、僕は随分小さい子供の頃から「美人好き」症状にはひどいものがあって、実際に目の前に「美人」がいると、話はおろか顔を見ることすらまともにできないほど緊張して、この世の者ではない女神様が現前されたように狼狽して、柱の影に隠れたりとか、そんな感じだったものである。(僕と現実の世界で知り合いの方へ。これは貴方の事です!)…まあ要するに、初対面な「出会い」が「私」にとってこれほど素晴らしく刺激的な、眩いほどの対象はない!という状態だが、逆にこういうのは注意が必要な訳で、そういうのは、その美人そのものを観て感激していると言うよりは、多分に「私」の中で作り上げてしまった観念が駆動して、切り切り舞いしてるだけだったりするのである。だから、ある程度「出会い」に経験を積むと、そういう一瞬のインパクト。というものに対して、かなり懐疑的になれるというか、そういうのを簡単に信用しないような耐性ができてくる。もちろん「好み」というのはこれは人間個々に、絶対あるのだから、そこまでスポイルする必要はないので、相変わらず美人最高。かわいいのが一番。で問題ないのだが、それでも「出会い」においては、いつでも乾いた現実の中で、どうにも取り付くシマもなく途方にくれるような感じ自体が、とても大切なので、昔のようにその空気の厳しさから逃げたくて仕方が無いような気持ちは、ずいぶん減ったように思う。


まあだから、絵の内容についても必ずしも「美人」でなくてもいいよね。的なものすごくつまらないオチに繋げつつある自分を今かなり恥ずかしく思うのだが、ここまで書いてしまったのだから仕方が無い。ごめんなさい。っていうかこの文章なんだこれ!面白くないねえ。ああやれやれ。

「バラの耳」三木富雄


絵を描くとき、誰でも面白いものを描くぞ!と思って描くのだろうと思う。絶対に面白くないようにしてやる!という情熱はあり得ない。というか、そういうときは面白くないことの面白さに賭けているのだろうと思われる。(「さほど面白くない感じにしてやる!」という事自体が目指される事はありか?あるいは、「オレが面白いと思うようなものは絶対面白くない事を踏まえて作るぜ!」とか…。)


…それはともかく、たとえば絵が描き始められてから完成するまでの過程が10段階あったとしよう。便宜的に。そしたら、1.2.と描き進んでいって、その度ごとに「OK!」フラグが立っていくとする。で、10のところで「コンプリート!」フラグが立って完成って事で・・・というか「コンプリート!」フラグが立った場所が、結果的に10段階の10のところな訳だ。それはまあ、いいや。でももうちょっと(無駄かもしれないけど)考えてみると、とりあえずの段階ごとにたつ「OK!」フラグと、最後に立つ「コンプリート!」フラグとの関係ってどうなんだろう?と思う。「OK!」フラグを10個集めると、「コンプリート!」フラグ1個と交換してくれるみたいな。あるいは「OK!」フラグが11個あるけど「コンプリート!」フラグは立たないとか・・・。もういきなり何もない状態で真っ暗闇の暗中模索で、唐突に「コンプリート!」となって、事後的に「OK!」フラグがぞろぞろと連なって(思い出すようなかたちで)あらわれるようなものか?とか。


っていうか、これは保坂和志言うところの「2400メートルの競馬で、逃げ馬が2300メートルまで先頭を走っていても、最後に後から来た馬に差されてしまえば、逃げた馬を「2400分の2300は勝っていた」とは言わない。」というのの言い換えに過ぎないのか?・・・っていうか、ぼくがもともと言いたかった事はちょっと別のことであった。うー…なんと言えばよいのだろう。…


じつは頭の中にぼやっとあったのは、三木富雄の「バラの耳」という作品の事だ。僕はこの作品が妙に好きである。なぜなのか、言葉で言えないが、好きである。作品の質が高いから好きなのか?と言われると、そういうことではない気がする。としか答えられないのだが…。で、僕もいつかああいう感じのものを作りたいと密かに思ったりもしている(ああいう物体を作りたいという意味ではなく、ああいう印象をもたらす何かを作り出したいということ)


三木富雄の作品全般に言えることかもしれないが「バラの耳」なんかも、どうも面白いものを作るぞ!と思って作られたものではないように見える。いや、そこを目指されてはいるのだが、それだけじゃない感じがある。それでもやっぱり「面白い」のは間違いないのだが、こういう「面白い」は目指されるべきものなのか?目指すことができるのか?


いや「バラの耳」だけは、三木富雄の作品全般からずれていて、ずれることが大きな目的になっているとすら言えるかもしれない。いつものアルミニウムの鋳造ではない素材である事などが、そう感じさせる要因かもしれないが、ここでは三木富雄がすごい自己言及的に、今まで積み重ねてきた作る事に対する自分のモティベーションだとか、制作開始されてからプロセス毎に「OK!」フラグを出すときの瞬間だとか、作品が現実のものとして現れてきて、最後「コンプリート!」フラグを出すときの感じだとか、そういうのを意図的に反復しつつ、そういうの自体を「亡き物」にしてしまおうとしているようだ。


三木富雄にとって、「OK!」フラグとか、「コンプリート!」フラグの結果が、通常いつものあの耳の造形になるのだろうと思うのだが、それの傍らに何者に拠っても統御されていない不思議な「バラ!」フラグの屹立(?)が、あるのだとしたら、そのフラグが何を指し示すのかわからないけど、その先に惹かれるものはある。…しかし「バラ!」フラグの立った作品というのは、なんか、「もう後が無い」感じも否めない。っていうか、最初で最後の1回しか使えないワザというか…芸術表現で「一度しか使えないワザ」もないだろ、と思うが。でもそういうのはやっぱり作品ではなく作家本人を問題にするから出てくる考え方なのだろうけど(生涯に一度の集大成とか…そういうの。最後に登場人物がすべて出てくるとか…。)そういう人間ドラマではない意味での禁じ手1回(すごいショボイ)っていうのなら良いのだろうけど、それも結局、「すごいショボイ感じ」自体に賭けられてるから駄目だ。。いずれにせよ。


…話を戻すが、ある意味バラが全てを台無しにしてしまう、というか、非常にどうしようもない事態に立ち至っているのだと感じられて、その事に惹かれるのだと推測する。…ずいぶん前にも書いたが、音楽で言えば、T.REXのGirls In The Thunderbolt Suitとかが、そういう感触に近いのだと思う。


…で、だから何?っていう感じなのだが、でもその「だから何?っていう感じ」こそが、大切なのだが。というか、三木富雄の作品は常に「だから何?っていう感じ」なのだが、そういうとき「だから何?っていう感じ」の面白さ自体に賭けているのだろう?と思われるのかもしれないが、…それは決してそうでは無い。と。そこだけは違うだと…。

Drive My Car


昔から思っていたことなのだが、絵を描くというのは実に体をよく使う。まあ文章を書くのだって体を使うのだが、使い方が全然違う。というか、くたびれ方が全く別種である。絵の場合、どうしたって画面の前に相当近づいたり、少し離れたり、持ち上げたりかき回したり、全体に塗布したり全体に削り落としたり、立ったり座ったりしゃがんだりと、肉体労働的である。たとえば小説を書く人も、書いてる途中で立ったり座ったりするのだろうが、小説を書く人の身体的アクションが、目の前の文字で構成されたイメージを構築し続けるための、体とか気分とかの調整であるのに較べて、絵を描く人のそれは、絵を描く行為そのものであり、そういう事をまったく行わず絵を描く事はできないので、まあ結構疲れる。という話。…というか、運動不足解消になるほどではないけど、軽い運動にはなる。


あと、ぐっと集中するというのが、僕は昔から出来ない人で…というか、ぐっと集中しているという感覚がよく判らないというか…要するに、ひとつの事をやっていて、他の事がまるで意識に上ってこない状態の事をいうのか?とも思うが、でもそれって(そういう状態にはよく陥る。特に仕事でそうなる。)それってあんまりどうなの?と思う。むしろ制作してると、かなり色々気が散っているのだけれど、手の動きがやたら冴えている瞬間というのがあって、まあ描き始めて数時間たつと、大体そういう感じになるのだが、ああいうときはかなり気が散っていても、意識した通りの事ができてる。という感覚を強く感じられて楽しい。自分が描いていて一番良い感じに思えるのはそういうときだけである。まあ描くという事をしている自分のポテンシャルが、完全に暖まったエンジンとオイルで最高回転してる状態だから、逆に制御系の意識をクールダウン(というか気を散らせる)させないと、油断すると非常につまらない事をやったりするので難しい。…まあ、要するに僕は僕を基本的にあんまり信用せず、僕が完全に暖まったエンジンで最高回転できるコンディションの時こそ、僕自身をもっとも注意深く乗りこなさないといけないという事だろう。

家に居ます(そして描く)

気分は良い→いいのかわるいのか?
具象。
美しいと思う。←それを信じられない?
はじめからこんなことしなきゃ良かった。←20世紀以降の画家共通の思い。


制作中に、ぼやっと思い浮かんで、ああこれblogネタだなーでも忘れるなーとかいつののように思って、まあでも今日はメモっとくか。と思って、かなり断片的な言葉として、クロッキーブックの裏に鉛筆で走り書きしたのが上の段落の文章である。それから約12時間して、今、キーボードを叩いているのだが、そのときの感覚はやはりもう、忘れてしまった。断片的な言葉だけメモがあるから、何をそのとき考えたのかと概略だけはかなり正確に思い出せるのだけれど、その時の感覚的なものは、まるで失ってしまった。


…まあ要するにかなり高揚感に包まれていたのだと思う。しかし、それと同時に、すごい自分の限界を見るような鬱陶しい気分でもあったのだと思う。高揚感とは、いつもそのときの自分の達成を指し示すから、目の前のイメージに満足しつつも、ものすごく失望している。こんな言い方はカッコよすぎで、ちょっとイヤらしい気もするが、別にカッコよくなんかなくて、それは僕の描くものが具象表現としていつでもぱっくり口を開けて待っている、あるわかり易さに容易に嵌ってしまうことで陥る固有の事情なのだ。


なんか美しいと思うこの感じを、徹底的に突き進んでしまう事自体に、その足元が崩れないことには駄目なんじゃないの?と言う声が常に聞こえてくる感じとでも言おうか。


今日は、結構有意義な制作が出来たと思っていて、それはある一連のプロセスが確立したなあという感覚を持ったからなのだが、「プロセスの確立」というの自体が、いまいち絵画的スリリングなものとはちょっと違う、安定的な何かなのは重々承知であるが、でもそれを使うも捨てるも自由な場所に来る事自体は有意義な筈だ。…というか、放っておいても、僕は僕が嗜好する方角へ進むのだ。それでいいでねーか。誰が何を言おうがどうしようもねえのだ。。まあとりあえず、未だやる事は、結構ある。その事実だけが、僕を救う。

架空の作家を語る


人間は常に揺れ動く不安定な危なっかしい存在なのだが、同時に、そういう不安定さと両立して機能する機械的な正確さと安定感に支えられた手の技術というのもあって、そういう手から生まれた加工物だけが醸し出すことのできる独自の質感というのもある。


自分の手の技の優れている事を、何の疑いももたず肯定していて、愚かしいほど自分の力に単純に陶酔していて、でもそのような自己確信の思いが、本人の手の技をより一層高く深く研ぎ澄ませていくような、そんな幸福な循環の中にいて、作られたモノも、洗練されたクラフトマンシップを湛えた息を呑むほどの仕上がりとか、構築の強さと組み合わされる繊細さが渾然とする、おそらくすぐれた工芸品だけが持つこのできる格別の味わいだったりとか…。


「私を私足らしめるのは、技術だけです。私から技術を取り除いたら、かたちのあるものなど、何も残りませんよ」(かつて私は遠い場所に居た。長い間留守にしていた。そしてあるとき技術を手に入れて帰ってきた。私は今も昔も孤独だけど、今の私は、持ち帰った技術を使って、何かを作ることができる。私の技術は世界を振り向かせる事が出来る。私の技術は世界から必要とされてる。もし私が技術を失ったら、私はもう世界から必要とされない。)…みたいな、そういう何かを背負ってる人。


多分彼にとって、世界は四散して孤立したフラグメントの集積で出来ていて、それで、そこでは貴方と私が、もうまるで別の、何の接点も持たない場所に只、点在してるだけなのだいう事を確信して、それを一度も疑った事なんか無いのだろう。


おそらくそこには歴史も物語も無いような場所で、そこに只ぽつんと、孤独な彼がいて、その彼が作る作品が、まるでスィーツのように甘美であればあるほど、凍てついた深い断絶が予感させられ、それが切なくて悲しいのだけれど、…でもそれゆえに、また一層、狂おしいほど際限なく甘く、その作品は在る。


技術を研ぎ澄ませれば研ぎ澄ますほど、洗練の度合いを高めれば高めるほど、モノの輝きは増すけれど、まるでそれと歩調をあわせるかのように、世界がまた一歩遠のく。そのどうしようもない感じ。努力の矛先が根本的に間違っていて、全てが水泡に帰すかも知れない事の悲しみの感じ。でも、この一瞬の、深い輝きを前にしたとき、正しさなど如何ほどのものだというのか?(みたいな)

「涙のクラウン/The Tears Of A Crown Smokey Robinson & the Miracles


Tears of a Clown

Tears of a Clown



Smokey Robinsonの「涙のクラウン/The Tears Of A Crown」が届いたので、開封したら「あれ!?」と思った。だって見たことあるジャケですから!ご丁寧に数日前写真撮ってるし。。…で、ライナーを読んで愕然とする。


ところでこのCDは、実は最初は「Make It Happen」というタイトルで発表されていたのですが、このLPの中の1曲「涙のクラウン/The Tears Of A Crown」が後にシングルカットされ大ヒットしてしまった為に、「涙のクラウン」というタイトルで発売されなおしたというエピソードのあるアルバムです。 桜井ユタカ (「涙のクラウン」ライナーノーツより)


!!「Make It Happen」こないだ買いましたから!!(…ってか、amazonThe Tears Of A Crownのジャケ写が表示されなかったのが痛かった…)


…っていうか、一週間前に届いてそれなりに聴いていた「Make It Happen」の中の収録曲としてしっかりThe Tears Of A Crownは入ってるので、それをそれなりに、この数日間聴いてるんだから、普通わかりそうなものだが、わかりませんでした。で、同一製品を買っちゃいました。あーあ。


…っていうか、僕の中でSmokey Robinsonの「涙のクラウン/The Tears Of A Crown」という曲はなぜか、脳内で「未だ聴いたこと無いけど、きっと、とてつもなく切なくて素敵な良い曲!」っていう妄想が膨らみまくっていたものですから、なんかもう、間違えるべくして間違えたというか、いや妄想って怖いという話なのだが。…だってこのタイトル!「涙のクラウン/The Tears Of A Crown」だなんて、もうこれ以上無いくらい切なくて甘いソウルナンバー!という感じがするじゃないですか?でもだまされた!その気になって胸を高鳴らせていたのにやってくれるじゃないのさ!


…しかし改めて、元々所持していた「涙のクラウン」という曲を聴いてみると、ああなんだこれかあ。はいはい。なんてことないねー全然たいしたことない曲ジャンとか手のひら返したように思うのだからひどいものである。っていうか事前に脳内で勝手に作って憧れていたイメージと全然違う曲で、どっちかっていうとまあ、どうでもいい曲と思ってたのが結果的に「涙のクラウン」だったので、その事にがっかりした。今までの経験上、そういう「事前に脳内で勝手に作って憧れていたのに、いざ聴いてみたら全然違っててちょっとがっかりな曲」のナンバーワンといっても過言ではなし。


そういう勝手に脳内イメージ作ってたのにあれ?って思った曲って、僕の記憶では結構ある。古くは中学生くらいのときくらいまで遡ってある。…それこそちょっとコじゃれてスカシはじめて、洋楽とか聴き始めて、そのままハマッてロックミュージックに関する書籍とかバイヤーズガイド的なものなんかも読み始めると、そういう経験は枚挙に暇が無いほど出てくる。…すべて大昔の記憶であるが一例をあげると…


プラウド・メアリー(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)


…まあ、有名な曲ではある。。でも未だ何も知らなかったときに、単に「プラウドメアリー」という語感を聞いただけで、ものすごい妄想が広がってしまって「これはもうとてつもない名曲に違いない」と勝手に決めてしまう十代の頃の自分の不思議性に今、軽い戸惑いを禁じえないが、それでも(タイトルのみに)超・思い入れて、実際聴いてがっくりした忘れられない一品。…ってか、勝手な思い込みなんですけど、もっと、しっとりした曲をに想像したような記憶がある。


■21世紀の精神異常者(キング・クリムゾン)


…前述のような自前不思議パワーで作り上げた思い込みではなく、どっちかっていうと巷に流布される評判を聞いてそんなに言うならすごいに違いないと思って聴いたものの代表。まあ確かにすごいのだが…っていうかキングクリムゾンは「まあ確かにすごいけどね」ですべてを語れてしまう気もする。それ以上考えてもしょうがないというか…


■一人ぼっちの世界(ローリング・ストーンズ)


ストーンズの詩には不思議な自閉感があるというか、マッチョ性と真逆な特性が全て通じている感じがあるので、まだこの曲のタイトルしか知らなかった頃、うわこれ聴きてー!と思った感覚はさほど間違ってなかったと思うけど、ああいう曲だったとは…感傷にどっぷり淫するのが趣味の高校生にはちょっと残念であった。


■悲しみのアンジー(ローリング・ストーンズ)


…これも「悲しみのアンジー」という語感だけで、まだ曲を知らない頃からもう、世界の終わりか?ってくらいの勢いで感動して思いつめた曲であった。…っていうか、どう考えてもそんな俺は絶対アタマおかしいと思う。だって「悲しみのアンジー」って…。それのどこが??って感じだが。。たぶん日本人の中でも「悲しみのアンジー」という言葉だけにうっとりできるような勢力というのは皆無に近いと思われるが、でもこの俺様は、この言葉の感じが好きだったのだからしょうがない。もうここまで来ると、質の判断以前の、なぜか唐突に始まる信仰に近い。…でも、この曲自体はストーンズのスローな曲の中でもけっこう有名だが、僕は昔から、この曲が全然好きじゃないのである。こんなつまんない曲も無いでしょ?っていう感じ。しかし!まじめな話「悲しみのアンジー」というタイトルは、未だに、ぐっと来るモノがあるという…。もう「ほとんどビョ−キ」だ。

「山羊の頭のスープ」 "Goats Head Soup "  The Rolling Stones


山羊の頭のスープ(でかジャケ)


このアルバムを初めて聴いたのは中3か高1である。このアルバムの一般的な紹介文としては、たとえば次のようなものであろう。〜ミックテイラーを加えた新進ストーンズが油の乗り切った演奏を展開する70年代の名作。初のジャマイカ録音で作られた本作では、なんといっても切ないスローナンバー「悲しみのアンジー」が有名!〜みたいな。


しかし、20年前レコード屋の棚にあったでかいLPのジャケを見て、このアルバムの事を知って、それを聴く前の期待はものすごかった。今、はっきり言ってそのときの期待感ばっかり記憶に蘇って来るくらいである。とにかくこの黄色いジャケが、ものすごいミステリアスで良かった。あとアルバムタイトルも訳わからなくて良かった。


ジャケットに関しては、まあ単にメンバーが布を被ってそれを撮影してるのだが、なかなかの味わい深いモノで素敵である。ウォーホルが手がけた「Sticky Fingers」に勝るとも劣らないのはなかろうか。


こういう感じのジャケットで、「山羊の頭のスープ」などという唐突なタイトルが付いてると、僕なんかは、やっぱりコロッと騙されてしまう。雰囲気モノに弱いんです。何かの比喩なのか?ジャマイカでは山羊のスープと称して人肉食とかやってるのだろうか?みたいな、そういうテイストで何やら怪しげながらも魅力的なイメージがムチャクチャ膨らんでくるのであった。


ちなみに一曲目の「Dancing With Mr.D」についての思い出。あるときラジオを聴いてたらストーンズの特集をやっていて、その喋ってる人が「それではDancing With Mr.Dを掛けます。」とか何とか言った後「あ、ちょっとやっぱりこれではなく、こっちを掛けます。」みたいな話になって、「Mother's little helper」が掛かったことがあったのだが、そのときの「Mother's little helper」のカッコよさの強烈な印象は未だに忘れがたいのだが、理由も定かでないままキャンセルされてしまった「Dancing With Mr.D」という曲が一体どういう曲なのか??について、またものすごい妄想が走りまくってしまったのであった。これまたすごい絶妙に煽られまくった。


というわけで、僕にとってはすごい沢山の思い出がいっぱいなアルバム「山羊の頭のスープ」だが、その直後、聴いた印象としては、相当たいしたこと無いという感じであった。その「Dancing With Mr.D」も含めて、さほど面白くなかったという…。。でも5〜6回くらいは聴いてるかもしれない。それで、いつしか忘れた。昨日「悲しみのアンジー」とかなんとか書いていて、このアルバムのことを思い出したので、その日の夜、駅前のレンタルショップでCDを借りてきて、超久々に聴いてみた。約20年ぶりかなあ。。でも今聴くと、普通に良いねえ。

「小説の自由」保坂和志


小説の自由


数日前から保坂和志の「小説の自由」を読み始めているが、とても面白い。でも面白いのだけど、ああやっぱり小説を読むというのは、本当に贅沢な行為なんだなあと改めて思った。それは僕にとっては、「絵を観る」ことに置き換えてみた場合、すごいよく実感できる。絵画を観るとき、一枚の絵の前に立って、しばらく眺めて、何事か考えて、で、いずれ(数分くらい?で)その場を立ち去る。それで鑑賞体験はとりあえず終了してしまう。でも、それなりに本気で絵を観るといった場合、実はこれで終了とはならなくて…いや満足できたのなら終了したって全く構わないのだが、でもまあ、一般に優れていると云われているような絵画一枚の品質というのは、たいていの場合そういう鑑賞体験一回でもっともらしくすくい上げられるような便利な構造をしていない。というか、観ている人間自体が、結構不安定な受信機でしかないため、どうしたって何度も何度もその絵の前に訪れたり、また訪れて観てみようかな?と考えてみたり、あの絵を5年前に観たよなと思い出してみたり、また観にいって、そういえば5年前にも観たなあと思い出したり…もっともっと…さまざまな多種多様な、そういうの全体を、「体験」と捉えて、その体験全体を「絵を観た」と称するしかないのだが…まあ、それら全体に費やされる時間だの何だのは、もう計測不可能なほどすごいものだろう。その割には判りやすい満足感は低いし…。こういうのをお金に換算することなんか不可能で、というかそういう「絵を観る」っていう行為自体はどう転んでも「消費活動」とかではなくて、当たり前だが人生なんてのは誰にとっても有限で、たかだか数十年しか生きられくて、それだけの時間配分しかないのに、それでもあえて、そんな風に一枚の絵にかかずらったりするのが、「絵を観る」という事なので、それはまあ、今の資本主義社会下における人間の行動種別的側面から考察するに、強いて言えば要するに「私が選んだ掛け替えの無いライフスタイル」なのであり、「絵を観る」事の喜びが、結果的にその事を気づかせてくれるようなものなのだろうが、…まあ前述はすべて僕の考えに過ぎないのでともかく、保坂和志の「小説の自由」を読むと、「小説を読む」というのも、僕にとっての「絵を観る」行為と同じくらい、悠長で贅沢な行為なのだろうなあと思う。

家に居ます(日曜画家)


午前中から制作。なぜだか今日は、描いても描いても、まだ描くという感じで、長時間の制作となった。とはいえ全体を通じて、あまり良い感じではなかった。先週「掴んだ」感覚を展開させられるのかと思ったら、どうにもつまらない感じになって、昔置き去りにした幾つかの何かと同一になってしまった感じ…って自分以外誰にも判らない表現で失礼します。…でも、決して良い感じではないのに、まだ描こうと思えばいくらでも描くとこがある感じ。たぶん大して面白いことにはならないのだけれど、描けば?と言われれば今すぐにでも加筆できるような感じ。やれやれ。


「絵を描いていて悩んだら、手を止めて頭で考えていても仕方が無いよ。手を動かして、描きながら悩んで、手の動きで打開していかなきゃ駄目だよ。」…なんてことを昔、言われたりしたけれど、僕はこれが根深く根底に刷り込まれてるのかもしれない。なんかとりあえず手を動かしてしまって、目の前のモノが結果的に台無しになっても、その残骸から何らかの新たなきっかけが拾えれば良いのでは?なんていう考えが、どこかにある感じ。これが抑制を欠くと、今日みたいにいつまでもいつまでもだらだら描くことになる。まあ良いことではないのだろう。やれやれ。でも自分でイマイチと思ってる作品を見ているのは、不愉快7割、面白い気持ち3割な、何とも複雑な気持ちである。


浴槽に漬かって保坂和志の本を読んでたら「(…)私は、つまり、論旨を手際よくまとめた文章に対して不信感を持っているとも言える。」とか「用語が比喩的な意味にすり替わってしまわないことは重要なことだ。」とか「小説とはその全体を使って、そう語るしかなかったもののことなのだ。「城」とはそういうものだ。」とか、書いてあって、そういう言葉ひとつひとつが、直接、本日の僕を批判するように飛び込んで来た。


…っていうか、まあ付け加えれば、こうしてこういう内容で文章にして、(でも、まあまあ、今日可能な範囲で精一杯制作した結果だからなあ)とか、仄かに自己満足を感じて、blogなんか更新してるっていうのは、もう救いようの無い阿呆の仕業ではあるまいか?とも思う。。ふざけた事書いて誤魔化してる場合じゃないかもしれないのだよなー。。もっと身も蓋もないのが現実の筈だろうからなー…。

家に居ます(別人)


プロセス→コンプリート。というシークエンスの反復で絵が出来てしまう訳ではない。いや、実は出来てしまうのだが、そのように出来たものは自分がやれる範囲内の手持ちの技の縮小再生産でしかなく、それらを冷静に観たとき、自分でも面白いとは思えないので、そこで試行錯誤が始まる。たとえば全体に、こういう感じが足りないのだが、このような事をしたら、その足りない何かを補う事になるのか?っていうか、もしそうではない結果になったら、それは一体どのような事態と捉えれば良いのか?っていうか、実際の加筆が、何かが足りないと思ってる事前イメージ自体を壊してくれる事を期待しているのではないか?…などと、考えは事あるごとにふらふら揺れ動く。まあでも、大体、頭の中にせいぜい幾つかの、良いと思われるパターンがあって、それらのうちのどこかに偶然にでも結果がおさまってしまえば良いという非常に大雑把な感覚もある。そういうところでフラフラしてる時間が長いと、徒労感が募ってくるし、なんかグッと加速してくると、俄然楽しくなっても来る。


まあそういうのには、気分の調整が結構重要なのだ。このまま続けるとどうなるのか?を考えて、とりあえず、高揚ではなく、普通に気分が良いときは、最も自分が自由になっているときである。手を休めて作品の前を離れるとか、本日の制作終了の際に、気分がそういう状態であれば、とても良い。それは、この後の作業のやり方として、とりあえずその方向性のおおまかな所に関してはしばらく揺るがないだろうと、一応自分に言い聞かせて制作を終える事ができるからである。


次回また作品の前に来たときに、そんな気分の形骸だけでも残っていれば、また続きの仕事が可能になるが、残っていないと、まったく別人が別の考えで、ひとつの絵に描き足していくようなことにもなる。まあしかし、それが悪いのか良いのかも判らない。別人が度々加筆してる方が面白い可能性もある。そういう自分をものすごい完璧に制御した結果の成果を、人が見たいとは限らないからだ。


しかし僕の場合、やはり「別人が度々加筆してる」モードで絵が進むと、あんまり面白くない事になりがちだと思った。僕の中の「別人」たちは、ほんとうに皆気弱で、大体この辺のこのあたりの落としどころで…みたいな意識が強すぎる感じ。むしろ思い込みだけで一挙にどうしようもなく酷いラインで行き切っちゃう方が良いのかもしれない。酷いと自分が思ってるものは、実はさほど酷くない可能性もある。そういうときはまた、別人としての自分がそう思うのだが。常に同一の自分がぐわーっと描くと、大体どんなものが出来るかは想像できる気がする。常に別人としての自分が別人であるまま、ぐわーっと盛り上がって描けるのが、良い感じと言えるのかもしれない。


…まあ、でも結果的に自分が良いと思ったものが、実はさほど良くない。っていうのはお約束っていうか、そこは「賭け」ですから、外すことを恐れてはいけない。。

「Why Can't We Live Together」 Timmy Thomas


Why Can't We Live Together


人体を描く。というか、人体らしきものを描く。なんていう場合、腕や脚を、胴体を、半身を、腰周りを…それらが織り成す、ある種の、なにがしかのニュアンスを描く。・・・という事で、その事の周りをうろうろするのだが、しかしワトソン特厚に筆記具を滑らせ始めるときの感じとか、線が走り、交差し、重なっていくときの感じとか、そういったところに居る段階から、いきなり人体らしきものを描く。という段階に飛び移ってしまう訳ではない。というか、そこのあいだで、しつこく逡巡する必要をもっと痛感しましょうという話。なぜなら、いきなり人体らしきものを描く事に浸ることは、もうとてつもなく簡単な事であるからだ。


つまり、本来そこにある筈の軋轢を無かったことにして、簡単に「良い感じ」にして、楽しむなよ!と言うこと。…というか、何が良い感じなのか?って言う話だ。僕はたぶん、所謂まあまあな感じに仕上げることはまあまあ、そこそこ出来るのだと思う…。というか仕上げがちになってしまうというか、今までの経験とか、そういうのを想像したりすればするほど、そっちに激しく引っ張られる。なので、相当そのへんに注意深くて良いと言える。っていうか、もっと相当、人体が出てくる瞬間に気合を入れないと駄目。


例えば、音楽なんかは、驚くほど細かく細かく聴き込まれているものだ。ポップミュージック一曲を侮ってはいけなくて、またポップミュージック一曲から人が聴き取ろうとする情報の量を侮ってはいけない。僕なんかはいつも、画面上の細かな事を相当時間を掛けてああでもないこうでもないと逡巡しつつやってるのだが、昔はそういうのが空しいというか、どうせこんな細かいことしても人はさほど見ないだろう。なんて思っていた事もあったのだが、それは間違いであった。あさはかであった。人を、侮りすぎていた。人は、作り手の意図を超えて、その作品を観て、観倒すような存在である。作り手は、それに耐えなければいけないのである。


そういうのが一時的に信じられなくなったら、Timmy Thomasの「Why Can't We Live Together」を聴けば良いのだ。オルガンと貧弱なリズムボックスだけを伴奏にして、「なぜ僕らは一緒に生きていけないんだろう」とうたう、このソウルを聴くのだ!それで、多分また別のやり方なら、あるいは皆で一緒に生きられるのかもねと、思い直すのだ。

「画家が人間を描かずして何を描くのか?」


戦後の日本の美術作品をに対して、ある傾向が色濃いと感じられる事がある。ストイックで明快で、暗く重い。そういう風にいきなり書いて、どのくらい共感を得られるのか?が判らないが、とりあえず皆がうんうんそうだねと言ってくれたと思うことにして、そういう嗜好が日本人固有の体質的なものなのか?はさておき、でも何を隠そう、この僕も、70年代から今日までこうして生きてきました中で、只、なんとなく、こうなってしまいまして、そういうものを自分にとって最大の「好み」というか「そういうもんでしょ」と思うようになってしまった部分があるのだという、かすかな自覚があり、そこが複雑な気分ではある。と続ける。


で、そんな僕を含む日本人が「師匠」と仰ぐ(ように少なくとも僕には感じられる)世界の巨匠を挙げるとすれば、次のようなものである。…たぶんすごいドイツ好きである。


ミケランジェロデューラールーベンス、グリューネバルト、…レンブラントドーミエゴヤドガロートレック、…クレー、ジャコメッティ、シーレ、ゴッホ、…ヤンセン、ヴンダーリッヒ、コルヴィッツ、ワイズバッシュ…日本だと須田国太郎とか林武とか横山操とか鴨居玲とか。


…彼らの作品は、たぶん強い「私」の類まれなる表現を完遂したマイスターたちとして召還されたのだと思う。で、こういうラインナップ、というかこういうラインナップから醸し出されるある種の感じを最初に「発明」したのは、85年に亡くなった美術評論家坂崎乙郎だと思う。彼の本には、カフカドストエフスキーを好み、たまにはスリラーや探偵小説を読み、そして厳しく人間存在とか素顔の「実存」を見つめる画家たちの絵を観るのだ。画家が人間を描かずして何を描くのか?…なんてことが書かれていて、それでこういうラインナップだったのである。いやそれは言い過ぎかもしれないが…。


(あと関係ないけど70年代後半以降の日本で、エイリアンのH.Rギーガーが受容されていったのと、ブレードランナー的世界が受容されていったのと、大友克洋的風景の密集世界が受容されていったのと、アニメで描かれる戦場と兵器が執拗にウェザリング(汚し)を施されはじめ、その後のコンピュータグラフィックスでも進化に合わせて劣化とか錆びとか綻びの表現に異様に執着していたように見えるのが、どうも上記の画家たちが醸し出してる何かと無関係でない気がしてるのだけれど、やっぱり気のせいでしょうか?)


で、やっぱありこれらのラインナップというのはもはや終わってしまったものなのだと思う。個々の画家がどうとかではなくて、これらのプレイリストがのはや有効じゃない!という話。(って、全然意味判らないこと言ってるのだろうか?これは僕が思ってるよりもものすごく僕固有の問題に過ぎないのだろうか??)僕なんかはこれらの画家を、今の時点で昔と変わらぬ思いで観ることは、結構難しい。いや画家たちが悪い訳ではなく、こういう画家を取り揃えて何らかの別の何かをあらわしていた、自分の中のしくみが破壊してしまったのが複雑なのだと思う。…というか、実はまだ全然破壊していないのかもしれないような予感もあって、なおさら怖い。だって、これらは今観ても、普通に良い絵だから。。少なくともそう感じる(一部を除いて)。でもそれを良いと感じている僕を疑うと云う事。そのような良さとは別の在り方で存在している絵が在るので…あるいは、それをいつしか良いと思わなくなった事について、なぜ良いと思えなくなったのかをちゃんと考える事。そんな風に今、僕がやらなきゃいけないことは、こういうの全体をすっかり忘れたような態度でやる事ではなく、ちゃんと周囲にも見えるように引きずりながら、そうではない絵も在ることを知っていて、それに引き裂かれてるような、矛盾してるような、詰問されても説明できずにしどろもどろにならざるを得ないような、そういう状態のままで、このまま歩くことだろうと思う。

大竹伸朗「全景」カタログ刊行遅延の件


大竹伸朗の展覧会「全景」で予約販売していたカタログが未だ届かない。当初、12月上旬と謳われていたが、制作の遅れで1月となり、さらに今、公式サイト内のお知らせを見ると3月末日刊行予定となっている。しかし、そのかわり(というのでもないのだろうが)


http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/page3

展覧会 場風景写真を含むカラー約150ページを追加、また《ダブ平&ニューシャネル》のCDについても、未発表音源の『拾熱』に加え、展覧会場での演奏を収録 した音源を 新たにCD化した計2枚を付録とすることとし、展覧会記録としても、より内容の充実をはかっております。


だそうだ。うーん、すごい。大幅な遅れではあるものの、これで文句言う筋合いはないわ。と思った。むしろこういうのに金出しといて良かったって言う感じすら漂う。。もうここまで来たら思う存分、気の済むまで作り込んで頂きたいと思った。


っていうか、これは完全に妄想というか推測ですけど、僕は本を作って売るというときの業界とか現場とかを全く知らないからいい加減な事を書くが、まあこういう図録を作るっていうときに、いくらなんでも4ヶ月近くも伸びるというのは、当初の計画が見込み違いで・・・なんていう事とはまるで別の事態が起きているのでは?と思う。要するにある一人が、・・・具体的に言えば作家本人の大竹伸朗氏が、ひたすらダメ出ししまくってる状況なのでは?などと推察する。そうではないのでしょうか??


だとすれば、それってすごい事だなあと思う。本を作るったって、ハンパじゃない人やなんかのコストが掛かるだろうし、予約客を待たせてる状況だし、そんなもう、のっぴきならないような、並の人間なら、ああ早くリリースしてラクしたい。と思うに決まってるようなテンぱった状況を、目の前の本の出来に満足できないからという理由ひとつで、もう一ヶ月、もう二ヶ月と伸ばしてしまう、その事に拠って予算は想定を遥かに超えて超過するだろうし、スタッフ全員が、この行軍はまだ続くの?ってな気持ちで半ば朦朧として、地獄の黙示録さながら延々働き続ける・・・それを統括する作家の精神的なタフさというか(「てめーなめんなよ。こんなもん出せるかよ!作り直せよー!」とか怒声上げてる感じが目に浮かぶ…いやこれこそ完全に想像ですが)。。ほんと組織でなんかやるときって、作り上げるものの品質に妥協しては絶対にいけないのだけど、チーム間の和やかさを失ってしまっても絶対ダメなので、そういうのとか、ヘビーだろうなあとか、つい妄想してしまった。くどいようだが、この全景カタログ製作現場に纏わる話は、全て僕の想像ですけど!!…さあ、どんなものすごいモノが届くのでしょうか。

下請派


戦後の日本における経済復興について、特に製造業の発展・急成長が目覚しいものだったのだろうが、ではなぜそのような成長が可能であったのだろうか?アメリカ傘下だからよかったとか官僚や政治家や企業の上層部が偉かったとか、その辺良くわからないのだが、それでも実際、日本で「下請け」と呼ばれる人々の優秀さっていうのも、ものすごいものなのだろう。たぶん日本人が下請けするときの下請け精神というのは、世界的にみても類が無いほど、ものすごい下請け最強野郎なのではないか。とにかく、全体の一部になって歯車としての役割を果たすことにかけては、圧倒的な能力を発揮するのが我々日本人なのである。雇われ根性の極北というか、お客様が居てこそ存在を許されております私たちというか…思えば戦争だってそうだった。兵隊は命令とあらば虫けらのように死ぬことも受容する。世界のどこを探しても、そんな兵隊いませんよ?ってな話である。(中東で行われている自爆テロはどうなのか?については今上手く考えがまとまらずわからない。)とりあえず今、日本人に生まれて、なんだかんだいっても世界的にみてもかなり裕福な(少なくとも近日中に生命が危ぶまれるような事はあまり無い)最低限度の暮らしを大方の人が実現できていて、情報も普通以上に入ってくる「先進国」の国民でいられるのは過去の時代の人々のおかげでもあるのだろうけど…


重油や鉄屑に塗れながら、少しでも良い部品を作って納品しよう。それで明日の暮らしとかを打ち立てていこう。と思ってる人間の営みだったり、本土で待つ家族や沢山の人々のために、たとえ体が砕けようとも一刻も早く迫り来る敵に突撃したいと思う兵隊の思いだったり、そういうのについて考えるのは、感傷を押し殺した場合、やはり「ちょっと理解を越える」という意見を呼び寄せる事もあるだろう。いや人間はもっとワガママ勝手でいいんだ。逆にそうじゃないと駄目だ。ワガママ勝手に人生を生きる事自体のリスクを引き受けることこそ、人間らしい生き方なんだ!っていう考え方もあるのかもしれない。


…まあ、それはともかく、やがて経済成長が促され、全体が裕福になって行って、高度資本主義的なシステムが回転数を上げて行き、さまざまなイメージが欲望としてその輪郭をくっきりとさせて人々を翻弄していくのだろうが、そんな過程の行き着いた所で、日本人がある一時期、一時的に実現させたのかもしれない(?)表象のユートピアというのは、もともと下請け精神の権化であった特性をもつ我々だからこそ実現できた、無表情に黙々と消費する恐ろしく安定した不気味なほど静かな人々で構成されたユートピアではなかったろうか。(なんて、見たことも無い癖に書きますが)


などという事をなぜ思ったのかというと、どこかのサイトで東京ラブストーリーについて「都心のでかいマンションに住んで、冷蔵庫にはバド缶が入っていて、休日はジグゾーパズルなんかをしてるような、如何にもバブル下の当時イメージされていた暮らしの感じ。」といった感じの表現があって、その「休日にジグソーパズル」というところに、なぜか衝撃を受けてしまったからであった。休日にジグゾーパズルをするという、あまりの不毛性というか、これほどはっきりと「早く休日が終わればいい。早く人生が終わればいい」と感じさせるようなしぐさもないだろ?というか、まあ考えすぎですけど、なぜだかそんな風に思った。だって…ジグソーが欠けてることから忘れられてた物語が駆動してどうこうとか…もう絶対零度の世界としか言い様が無い。。…でももしかしたら、そういうのが実現されてしまう下地にも、やはり「下請け」としての精神が息づいてはいないだろうか?と妄想は膨らむのである。


美術に関しても、仮に「表現主義」的な傾向が日本の美術に根強く残ってるとしたら、その理由っていうのもやっぱり、日本人の大多数が下請けだからだろうか?とか思った。表現主義っていうか、表現しようとする人のモティベーションの中心にあるのは、与えられた情況の中で蠢く「私」を、別の視点で俯瞰して、それをイメージに焼き付ける…みたいな、そういうところがあるように感じる。この状況下で生きている自分というのを、肯定でも否定でもなく見つめているという…その振る舞い自体がひとつのクリシェなのだろうが、下請けたる日本人が、取り急ぎ美術をやる振る舞いとして最適なやり方なのかもしれない。というか、いきなり自分が「美術!」と言い出す事の唐突さに対して、何らかのを緩衝材のように、それが必要とされたのだろうか。(戦後の日本の画家は一時期、感覚として、アメリカの抽象表現主義よりは、フランスのアンフォルメルをより好意的に受け入れたようなところがある。これもアンフォルメルの方が、より強く個人の表現性を打ち出すのに適したように見えたからだろう。)


まあこの文全体の「日本人は…」を「僕は…」に置き換えても良いのかもしれないが…。

「画家はデッサン力がすべてである」


…かつデッサン力だけが絵の価値を決めるのだ。とまで考えている人はさすがに少ないと思うが、それでもデッサン力が絵の魅力の決して少なくない一端を担う要素と捉える人は多いと思う。


…昔、僕が学生の頃、学校の課題授業で、アトリエで僕が制作中の絵をみて、ある人が激怒した事があった。「なんだこれ!なめんな!」的な。…予備校で苦労してきて、ようやく今、どこに出しても恥ずかしくない技術を携えて、やっと毅然としていられるというのに、こんな、これしか描けないような、これしきのヤツが同じ大学に平然としてるのかよ?・・・とでも思われたに違いない。そりゃ怒るわ。これじゃあな。。すいません…という感じだったのだが、デッサン力なんて、幾ら頑張ってもこんな悲しい思い出しか残してくれないものなのである。…でも、こういうのはいくらなんでも悲しいので、もっとそうではない何かを見出したいものだ。


ここで言うデッサン力とは、狭義のデッサン力であり、ものを現実の空間で見る感じそのままに平面上にもっともらしく描写できる技術。とでも言うべきものである。この意味でのデッサン力が便利なのは、同一線上に並べて相対評価を行うのに適した結果を得易いことだ。個人差+努力の結果を、トレーニングマシンの液晶表示のように一覧参照できる。この、デッサン力を高め、それをとりあえず作品の質を評価する材料とするシステムは、不特定多数の描き手を一括管理・評価するために編み出された、極めて効率的な仕組みといえる。デッサン力の向上は美術教育の基礎ともなり、受験産業を促進させ、お金を生み出しもするだろうし、渦中の人を翻弄しもするだろう。。まあ、こういうシンプルな「鍛錬」のような感じだけが醸し出す事の出来るある種のパワーもあるよなとは思うし、バットの素振りのような、無味乾燥な日々の反復にうちに、自分の無意識の嗜好が露になっていくような予感もあるので、こういうのは一元的に良いだの悪いだの言えない…ただまあ、あの巨大な「只なんとなくこうなった。」という感じが残るのは、はっきり悪いことなのかもしれないが…。


たとえば、ミケランジェロとかルーベンスの素描を、とてつもなく素晴らしいものだと思ったりする事があるが、これは彼らの素描が、すごいデッサン力があるから?というか、まあそういう事とも言えるが、更に突き詰めれば、ものを現実の空間で見る感じ、迫真性とかリアリティを感じさせるからか?といったら、そうでもないと思う。いや、、迫真性とかリアリティという言葉自体は、悪くない。…なんというか、たとえば今、ルーベンスの、男性の背中を描いた素描が、まともに現代の美術作品として現われたら、それはどうだろう?とか思う。それでもやはり、それは実は、意外に、ちゃんと感動的なのではないか?と思う。「今だと逆に新鮮だから」とかそういう意味ではない。普通に、ちゃんと素晴らしい作品として見えるのでは?と思う。というか、あれを観て「うわーすごい背中を描くのが上手い」と思う人は少ないだろう。なんというか、あの途方も無い量感が、あれしきの事だけで実現されてることの驚きというか…あの線が、線として与えられた筈の役割を越えてまったくあさっての力で躍動している感じの驚きというか…。まあ、まずとりあえず第一に背中を描いてる絵なのに、観る人が「背中」という言葉を忘れてしまうような出来事が画面上におこるのが、すごいのだと思う。


であるから、デッサン力というものは、それだけだと美術をつまらなく矮小化するものであるのは間違いないのだが、それを殊更、忌み嫌うほどでもない。というか、手を動かし、線を重ねる事でしか、何も見えぬ。それが結果的にどのような像のイメージに至るにせよ、それ以上何らかの制度にグルーピングされる訳でもないし、イメージは単にイメージであるはずだ。というか、それをそれだけのものとして屹立させるためには、ひたすら反復するしかないと思う。…そう思うんですけどねえ

MOTアニュアル 「等身大の約束」東京都現代美術館


表題のヤツを観にいったのだが、予想に反してなかなか面白かった。MOTアニュアルは律儀に毎年みていて、去年とかすごいつまらなかったのだが、今年はかなり持ち直したというか、まあ良かったと思った。もちろん全ての出品作家の作品が良い。という事ではないのだが、でも何がしかの面白さを感じることが出来た。…というか、僕が制作する上で、なるほどなあ。いろいろ気をつけなきゃなあと思うことが多かった。以下、いろいろ文句を書いているが、それでも基本的に、面白いと思いながら観ていた。


秋山さやか氏の、あの、のたくる様な逡巡してまた伸び盛って団子になりほつれ合い縺れ合う糸たちの有様は、普通に観ていてとてもキレイなもので、結論を先に書くと、秋山さやか氏の作品を体験するというのは、本来、これらの様子を観る事以上でも以下でもないのだと思う。


それなのに、展示の中に何か余計な要素が多い気がした。旅日記の記録のように日を追って連続して展示されている作品の並びなんかを見てると、展示物ひとつひとつが個性的だし、観ていて楽しいといえば楽しいのだが、同時にほとんど作品と言えるレベルから零れ落ちて紙くずとなる一歩手前というか紙一重というか…そういうぎりぎりの儚さというか、単なる何かの残滓という感じも強く、そういう感じも多分、作家による意図的な操作の結果として在るのだろうという事はよく判るものの、それでもこれはもはや、モノ一つ(作品)の力とは別の何かを表象させようとしてるんだろうなあと感じてしまうところがあって、そう思ったと同時に、若干白ける思いも禁じえない。…たとえば一列に並んだ、さまざまな手漉き和紙の不定形なかたちのラインナップに混じって、青い表紙の、外国語が印刷された書物なんかもさりげなく並んでる。そういうちょっとした「同一線上での差異の演出」とかがあらわれることで、ああこれは全体が、そういうラインナップの感覚的な何かを感じさせたいのだな。という結論になってしまって、一個一個のモノ達が持ってる筈の独自な声を聴こうとする気分に水がさされてしまう。。


多分、実際に地図上に書かれたその道を歩いた事だとか、そのときの私の感触・記憶みたいなそういう事が、作品が結晶していくための最初のきっかけとしてあるので、その派生として、昔の同じ場所の地図が召還されたりとか、いろいろ作品の幅が広がっていく可能性(?)もいっぱい含んでいるのだが、それでも結果として目の前にある、あの、糸やなんかの目の前の断片のキレイさと、そういうのがどう繋がっているのか?がはっきり判らず、ましてや何か別のものも並べてラインナップの演出なんかもやられると、なおさら余計によく判らなくなる。という引っ掛かりを感じた。


千葉奈穂子氏も、作品が結晶していくための最初のきっかけとして、家族とか家の記憶(というか写真イメージ)が大量に召還されるのだが、実際に目の前にある作品は、成島和紙にサイアノタイプ、木製パネル…といった素材から構築された、なんだか恐ろしく立派な美術作品ぽくて、こういう作品を作品として仕上げていくときの感覚とかテクニックとかって、実はもう家とか家族とか、そういう当初浮かんでいたイメージとは、もはや全然無関係でしょ?家族とか、それに纏わる何かドロドロした感触とかが、もう爽快なくらい自作にとっての「ネタ」でしかないんじゃない?実際、制作中は家族の事なんか微塵もこれっぽっちも思い出してないでしょ??…とか、つい意地悪なことを考えたくなるほど、ものすごいがっしりとした物質の抵抗感がすごい立派な「美術作品」なのであった。。作品自体の力強さはすごいので見応えがあるが…だから余計に複雑なのだ。


しばたゆり氏は、作品が結晶していくためのきっかけとしてまず私や周囲の物質だとか、とりあえず私が感知できて手に取れる何かであれば、一切合財全部、ウチのヒキウスでコナにしてみんな絵の素材にしてあげるわ!という…ほとんど赤頭巾ちゃんに出てくる怖いおばあさんみたいな感じが、ある意味「キャラ」として立つかもなーという感じで、こうなると逆に「もう誰にも止められない感」が漂うというか、これはこれで良いのかもと思ったが、でも髪の毛とか血液とか骨とかが出てくる時点で僕はちょっと軽く引いてしまう。。


…っていうか、そんな事よりもっと肝心なのは、実際、作られた「作品」がどれも、結局すごいちゃんと「美術然」していて、まあそれなりに皆キレイで、ちゃんと美術作品風でカッコよく仕上がっていて、でも埃の版画作品なんか、うず高く積み上げて、その全体の一部しか見えないような展示方法だったり(そのくせ、想像だけどこれ一枚買いたいと言ったら、きっと一枚幾らとかで販売するのだろうか?…って、それこそ売っても当たり前で悪くも何とも無いし、そんな事ここで書く僕の方がおかしいのだろうけど、どうもこういう作品でも、もし請われればそういう販売を行うなら、なんかちょっと欺瞞的な気もする。僕の考えが間違ってるかもしれないが…)とか、未だ未完成で、外部と相互に関わりつつ完成に近づく事が匂わされたりとか、こういうところも秋山さやか氏同様、ラインナップの感覚的な何か、というか、作品よりはその行為を実施する私。の方にあからさまに重点が置かれてるところなんかが、イマイチ白けてしまうようなところではある。(要するに、僕は仮に作品を買う場合でも、モノに金は払っても良いけど、行為の残滓とか痕跡とかには、金を払いたくない。という考え方の人間だという事かもしれない。)


総じて、「作品が結晶していくためのきっかけ」→「実際の作品」がかけ離れすぎなのだと思う。これは野田哲也氏の展示を見た際にも感じたことだ。実際、作品が美的であること程、作り手にとって快楽的なことはない。どうしてもそこに留まりたいのだけれど、でも多分、それは際限無しになるのは許されない。(でも全く無いのも堪らないのだけど)なんだかんだ言っても僕も、ほんの少しの油断で簡単に甘さに吸い寄せられるだろう。普通に考えて、上記の人々の足元にも及ばぬ地点で、くるくるスピンしてるだけの状態に陥る可能性も充分高い。なのでまあ、僕もせいぜい頑張りましょう。

「Ex-Factor」Lauryn Hill(The Miseducation Of Lauryn Hill)


The Miseducation of Lauryn Hill


宇多田ヒカルFlavor Of Lifeという曲が今日、発売なのだそうだ。今知ったので、取り急ぎiTunesを開いてMusicStoreで一曲だけ購入(200円也)。今聴いてる。良い時代になったもんです。…でも僕は古い人間なんで、本当に思い入れがあったりするとCDで買ったりするのだろうけど。…で、Flavor Of Lifeはまあまあ。


…ところで、関係ないけど、Lauryn Hillは今、何やってるんだろう??と思った。今日の夕刻頃…


そういえば、Ex - Factorという曲があったが、これは名曲でした。もう耳ダコだし、別にー!!とか言う向きはお黙り頂きたい。ラブソングを、そんな風に言うものではない。っていうか、もう9年とか経つのか…。


「原因」 ローリンヒル

たぶんとても単純なことなのよ。

でも貴方が厄介にしてるのよ。

…好きになるのって、まるで闘いね。(…ため息)

最期まで傷つけ合うだけ!みたいな。。

…ねえ。私はどうすればいいの?誰みたいであれば良いの?

(どんな女がお望みなの?)(どうすれば貴方を満足させてあげられる?)(どう振舞えば良いのかしら?)(どこ見て歩けば褒めてくれる?)

(あなたと何かしら未だ、繋がっていたい。そのためには、どうすれば…)

だって、貴方をこれだけ思ってる女なんか、私以外に、きっといないわ。

この先もずっと、誰であっても、私以上に貴方を思うなんて絶対無理。

こころの中でずっと思い続けていても

いつも貴方が水をさして、私に現実を思い知らせるのよね。

意味ない。無駄だよって

でも、じゃあもういいわよって、私が行こうとすると

貴方は私を引き止める為に、ワザと自分を傷つけるんでしょ。

馬鹿みたい。馬鹿みたいね。

これって馬鹿なお遊びよね。

貴方にそんなことまでさせてるなんて…

…貴方に私の名前を思いっきり叫ばせて!

…でもどうせ、もうここには居れないとか言うんでしょ?

…ねえ。私はどうすればいいの?誰みたいであれば良いの?
(どんな女がお望みなの?)(どうすれば貴方を満足させてあげられる?)(どう振舞えば良いのかしら?)(どこ見て歩けば褒めてくれる?)

(あなたと何かしら未だ、繋がっていたい。そのためには、どうすれば…)

だって、貴方をこれだけ思ってる女なんか、私以外に、きっといないわ。

この先もずっと、誰であっても、私以上に貴方を思うなんて絶対無理。