初夢


昨日は食べすぎ呑みすぎでもはや活動不可能な感じだったので早く寝た。布団の中で肩から背中から、足のつま先にかけてまで、身体を一本の線みたいにまっすぐにして、真上を見上げて、そのまま目を瞑って、そのまま眠りに落ちるのを待っていた。頬の表面に感じる部屋の空気は冷たく重く沈滞しており、次第に布団の内側だけ温かみをもちはじめて、まるで半透明の薄い膜が身体の外側に張り始めたようだった。それからその次にふと気付いたときには、掛け布団の分厚い一番外側を足で後方に蹴って追いやってしまい、内側の薄い毛布だけにしっかりとくるまっている自分を見出した。部屋の冷気を薄い毛布だけがかろうじて遮断していたので、その手で毛布を掴んで引っ張ったときの、毛布の外側の冷たさと内側ぬくもりの差が、今おそらく真夜中か朝方だということを感じさせた。さっきまで身体に纏っていたはずの薄い膜は、もうとっくの昔に跡形もなく破れて消え去っていたが、かわりに自分の周囲のほぼ全域に、自分の身体から滲み出したかのような体温のひろがりが生じていて、左右どちらに寝返りをうってもかなりの範囲で自分の身体の延長にとどまっているような、まるでふやけた袋のように、だらっと水平に広がってしまった自分の身体の中で、自分の中身だけがごそごそ寝返っているかのようだった。しかしある一定の領域を越えて身体を移動させると、その先にはとても冷たい南極の大地みたいな荒涼とした地平のひろがりがあるので、あわててもとの場所に戻らざるを得ない。


それからまた眠った。そしてそのあと、初夢を見た。初夢を見るのはいつ以来か。もしかすると生まれてはじめてかもしれない。二種類の資料に関する夢。二種類の資料があって、それを編集して提出する必要がある。いたって簡単な仕事。ある領域に必要事項を記載して定められた箇所に嵌め込む。もう片方の資料もそれに準拠してまとめるだけ。ところが提出してから、その方法ではダメなんじゃないかと他方から指摘されてそんな筈ではないのだけどと思って一応確認しに行く。資料を再見して、一瞬あれ?と思ったけどよくよく考え直して、いややっぱりこれで良い筈だけど、と思い直す。

裏の畑


国道沿いの、見渡す限りどこまでも畑が広がっている広大な地平の真ん中に用水路が通っていてほんの少しの水が底を黒く湿らせているが側壁に貼り付いた水藻や苔は完全に乾ききって冬の風に吹き晒されている。その溝に平行した、何十年も前のでこぼこしてところどころ雑草の生えた舗装道路を歩く。国道沿いのショッピングセンターや建物がところどころ点在する以外は、ほぼ地平線まで見えそうなほどだだっ広い何もない地平のひろがり。遠くに見える水色にかすんだ山々の連なり。その上に覆いかぶさるような巨大な空。冬の日差しが降り注ぎ、冷たい風が身を切るように吹きすさぶ。コートが風を受け左右いっぱいに広がろうとするのを手で元に戻して前のボタンを止めて襟元を抑える。首に巻いたマフラーの裾も暴れまわり顔に覆いかぶさろうとしてこれも手で抑え付けられる。風が絶え間なく身体や耳元にぶつかるときのボボボボボボというはげしい音。耳朶ももはや千切れんばかりに冷え切って感覚をなくしている。これほどの寒さなのに、しかし太陽光線はおしげもなく降り注いでいる。素晴らしい快晴。しかし強風。風が舞い、自分を追い越して畑の真ん中を走り去っていくのが見える。もはや枯れ草と干し藁だけの荒れた畑が砂塵を舞い上げる。唇ががさがさになっているのを感じる。唾液で口の中を湿らせて、前歯に細かい砂が付着してざらざらしていたのを舌でなめて取る。遠くに蜜柑の木がみえる。蜜柑のオレンジ色が点々と浮かんでいるように見えてきれい。ちゃんと耕された畑の、京都の寺の庭みたいに一定の高さできれいに馴らされて揃えられた土の柔らかそうな真っ黒い色と質感もきれい。何年か前に死んだ実家の犬がばーっと走ってその整地に点々といくつもの足跡を付けてしまった事を思い出させる畑の土の黒い艶やかさ。

受読


今日は一日、本を読んで暮らした、といったような感じの一日にしましょうとなって、食べ物は色々あるいただき物や冷蔵庫の残り物とかを食べて、酒ももらい物がいっぱいあるのでそれでだらだらしながらずっと寝そべって読書でもして過ごしましょうということになって、しかし結局あまり本は読めなかった。飲み食いはずいぶんした。少し寝た。十五分くらい買い物に出た。あとはつまらないテレビを見たりウェブを見たりしながらだらだらしただけであっという間にこんな時間に。本は「読もう」と思って読んでもなかなか調子が出ないというか、何か妙に調子が狂う。普通なら「読もう」と思って本を手に取って読みはじめて、そのうち次第に当初の「読もう」が、すーっと消えていくもので、その後はむしろ「読むのやめよう」という気持ちを常におぼえながら読み続ける感じの方が、読書時の気分として自分に近しい。読み始めて、ぐっと集中して、自分の意志でぐんぐん読み進めて、最後まで読了、面白かった、みたいな、自分の場合、そういうのはほとんどありえない。どちらかというと「なんか読んでる」「まだ先を進むつもりか」「でもこんなことはいつまでも続かない」「早く立ち上がって本来のことをしなきゃ」「今こうやっている事が正しい筈がない」といったような、複雑なぼんやりとした不安感というか、決してリラックスしてはおらず、集中しやすいコンディションでもなく、むしろ心配事が常にぼんやりと頭を占めているような、大切な用事の途中で図らずも寄り道しているみたいな、何がしかの気がかりを抱えた落ち着かぬ状態のときみたいな、そんな状況でしかしそれでもなぜか読書を打ち切るだけの力もでないというか、現状のモードを解除するのが面倒くさいというか、別にこのままでもいいやという投げやりな気持ちが勝ってるというか、もうここまで来て妙に勢いがついているところに乗っかっているだけだし、みたいな、そんな感じで、結果的にはずるずる読み続けてしまっているような感触が自分にとっては読書の感じなのだ。休みの日とかだと、つまらないテレビを見たりウェブを見たりというのがまさに「こんなことはいつまでも続かない」「早く本来のことをしなきゃ」「今こうやっている事が正解な筈がない」といったような思いにうってつけなので、終わってみればむしろそっちに時間を割かれてしまうのかもしれない。

中目黒の朝


日比谷線の終点。この電車の終点です、中目黒止まりです。電車はこの後、車庫に入ります。どなた様もお忘れ物ないようご注意下さい。回送電車となります。お忘れ物ないようご支度下さい。ドアが開き、異常に冷たい風が直接車内になだれ込んでくる。同時に空調は停止され、たちまち車内温度と外気温がまったく同じ温度となる。ドアは意図的に開け放たれたままにされる。我々がその場を立ち去るまで二度と閉まらないのだ。寒さが一気に全身を包み、あらゆる隙間から身体に冷気が射し込んできて、呼吸がやや困難となり、全身の力が不思議なほど入らず、痛苦の感覚を通り越して意識がぼんやりと薄らいで来るかのようだ。いま自分は、寒さというものに剥き身で向かい合っていて、そのままやられてしまいそうだ。さっきまで周囲にいた、まだ眠りに落ちている人々や、機敏な動きができなそうな人々が、駅員の手で片っ端から容赦なく叩き起こされてそのまま崩れ落ちて床に這いつくばっている。終点ですよ、終点ですよ、終点ですよ、終点ですよ、さぁ終点ですよ、降りて下さい!みな呆然とした顔のまま鞄とコートを抱えたまま転がり落ちるように電車から降ろされる。酷く衰弱している人も少なくない。そのまま氷のように冷たいベンチの上に身体を横たえて動かなくなる。あんなところで横になっていたらもう助からないかもしれない。でも助けられない。そうして、半ば暴力的に車内の全員が降車するやいなや、各車両の先頭部から車内に向けて張り巡らされたホースが生き物のように膨らんで一瞬うねうねと暴れたかと思うと、蛇口から間髪入れずに勢いよく水が吹き出て激しく水飛沫を散らせながら叩き付けるように電車の床を濡らし、川のように盛大に床を流れる大量の水が車体の下を伝わって滝のように線路に落ちる。辺り一帯、激しい水の音で何も聞こえなくなる。熱をもった車体下の機関部も水を受けてそこからもくもくと朝日に照らされた真っ白な湯気が車体の周りに激しく立ち昇ってプラットホームの向こう側の景色が何にも見えなくなる。運悪く水飛沫をかぶって衣服を濡らしてしまった人は直後の急速な冷え込みに身体の熱を根こそぎ奪われてもはや万事休すの状態。あちこちから噴出したり漏れたり方向を変えたりして飛び散る水を皆必死に避けて逃げ回る。それにしても狭いホーム上で右往左往してばたばたとしているにも関わらず相変わらず身体の芯まで凍りつきそうなほどの寒さで、これでも僕はまだ通勤中の身で、今の地点は道程でいうと出発地点から目的地までの、ちょうど半分位までの地点でしかないのに、なんでここまで苦労するのか。なんでこんなに辛い思いをしなければいけないのか。なんでこんな苦労までして目的地にまで辿り着かなければいけないのか、悔しくて悲しくて、心の底から情けなくなる。何なんだよこれは!何者かに対して、何ともしれない何かに対して、沸き立つような怒りがふつふつとこみ上げて来る。この後向かいのホームに乗り継ぎ電車が来るのは、今から約十分後だ。十分!そんなに待てるか!!この寒さにあと十分立ち尽くしてみろよ!普通みんな死んでしまうぞ!なに考えてんだよ!!何も考えてねーんだろ!!やり場のない怒りの罵声を空に向かって吐き出し続ける。実際、こうして怒りに身を任せてでもいなければ、あまりの寒さに全身の感覚が麻痺してあっという間に意識を失ってしまいそうでもある。同じ車両から一緒につまみ出された他の乗客が今生きてるのか死んでるのかもわからないまま、ただひたすら発端も目的も見えないままで怒りの炎を焚きつけ続けるしかない。

遊園地


遊園地という場所は、遠くから見れば観覧車とかジェットコースターとかが折り重なるように見えて全体的に発光しているようで、すごく楽しげでうつくしく華やかな感じに見えるものだが、実際に敷地の傍を歩いていると、目に付くのは雑草の生えた地面からいきなり何本も連なって高々とそびえる巨大な遊戯物の支柱とか鉄骨とかばかりで、敷地の真下にいる分には、遊園地というのは雑然とした空き地をベースに鉄骨を無数に並べて何かの土台とさせているだけの、まともに日も差さない鬱蒼とした木立のような場所で、いわゆる遊園地らしさというのは、地上から少し浮き上がった十数メートル上のところで営業時間内の電源の入ってる時間帯だけ人々の立っているデッキのかたちに浮かび上がっているようなもので、遊園地の敷地と遊園地自体は、ほとんど何のつながりもないと言って過言ではない。だからいくら遊園地が好きだからといっても遊園地のそばに住むのだけはやめたほうが良い。というか遊園地なんて好きになってはいけない。好きになってもしょうがない。


しかしそれにしても支柱や鉄骨のものすごく荒々しいというか生々しいまでの鉄鋼材の感触が面白かった。とにかく徹底的にリベットがびっしりと打ち込まれていて、組み合わされて下位から上位にいたる強靭な構造を形成していて、全体にはピンクとか黄緑色とかのやたらと鈍い柔らかい色のペンキで一様に塗りつぶされていて、でもやっぱり遊園地が妙に懐かしさを感じさせるのはこの鉄鋼工業時代的な一時代前の匂いも一因だろうなと思った。


書いててどうにも、ああつまらねーなーくだらねーなーと思いながら書いていて、よっぽど途中で捨てようと思いながらも、今聴いてる「W.A.R.M.T.H. Radio-Orlando Voorn- exclusive mix-January 01-2011」がとてつもなく良い感じで、このMIX自体がまるで遊園地のように儚い感じに思えて、その事だけに背中を押されてついここまで書いてしまった。

今泉


今泉が近づいてきて坂中の席まで来て「今日忙しいの?」と聞いた。坂中はモニタを見ながらキーボードを叩いていて今泉の顔を見もせず「そうでもない。」と答えた。今泉は「今日飲みに行く?」と誘った。坂中が黙ったままなので今泉はしばらくそのままでいた。坂中が「うーんいいけど。」と答えると「じゃあ十分後に下のロビーで。」と言い残して今泉が自席に戻った。最後の報告メールだけ送信すれば今日の仕事は終りで良いを思ってそうするつもりだったが、でも十分後の待ち合わせではやや早すぎたかもしれないと今泉は自席に戻りながら少し後悔した。坂中はなおもひたすらキーボードを叩き続けていたがそのまま五分も経った頃に突然パソコンのシャットダウンするクロージングサウンドが流れモニタが消灯したのを見ながら椅子から立ち上がって腰に両手をあててぐーっと背中を反らせてため息をついて向かいの席に「お先です」と声をかけてとぼとぼとロッカールームまで歩いた。鞄を取り出してマフラーとコートをまとめて腕に引っ掛けたままオフィスルームを出てセキュリティカードや携帯電話などをポケットの中でごそごそしながらエレベータホールに着いて最寄のボタンを肘で押すと運良くすぐに目の前のドアが開いたのでそのまま一気にエントランスまで降りた。思った以上のスムーズさで待ち合わせ場所のロビーに着いてしまったのでこの後数分とはいえ時間を持て余すことになったのを少し後悔した。エントランスはオフィス内よりもかなり気温が低かったので手に持っていたコートをちゃんと着ようと思い片手に持った鞄が邪魔なので奥手のソファーまで歩いていってそこに鞄を置いてコートとマフラーを身に付けていたら今泉が来た。「早いね。」と今泉が言い、「今日ものすごく寒くない?」と坂中が言った。「今日無茶苦茶寒いよ。」と今泉が言った。「日本列島を寒波が覆っていますとかテレビが言っていたよ。」と坂中が言い「今日は外にいるのはつらいね。」と今泉が言い「今日は死ぬでしょ。明日の朝も寒いかな。」「寒いの?」「いやわかんない。」「何処行く?」「いいんじゃないあそこで。」「混んでるかな」「空いてるでしょ今日なんか」と続く。

中目黒の光


日比谷線の恵比寿を過ぎて終点の中目黒に向かう途中で電車は地下から地上に出る。僕は十二月から毎朝同じ時間にこの電車にのっているが、憶えている限りここ1ヵ月の間、地上に浮上した瞬間のものすごくまぶしい朝の光が車内に差し込んでこなかった日は、おそらく一日たりともなかったはずだと思う。つまり毎日が晴天だったような気がする。いや、さすがにそれはないか、一日か二日くらいは曇りや雨もあったかもしれない?でもおぼえていない。地上に出た瞬間、あ、今日は雨だ、今日は少し曇ってる、と思った記憶がない。僕の知る限りここ一ヵ月以上毎朝、晴天だ。今日も晴れか!と、いつも思うのだ。


それにしても冬の朝のまぶしいこと。冬の朝というのはいつも、これほどまでにまぶしく晴れ上がっているものだろうか。まともに目を開けていられないほどの真っ白に輝く光だ。やや青みがかったような硬い光。それが惜しげもなく車内にふりそそぐ。いやふりそそぐという表現は適当ではない。まるで子どもがカメラのフラッシュをイタズラしてばしゃばしゃと光らせているかのように、車内に光が溢れて一瞬何も見えなくなるほどの、とてつもなく眩しい光。光がまるでホースの先をつまんで水をいい加減に飛び散らせたように野放図に無際限に、大きいのや小さいのになって細かい破片になったり飛沫になったりしながら、あとからあとから湧いて出てきて、周囲何もかもが光びたしになる。


朝の通勤時、僕は大抵読書していて、居眠りしているときもあるがほとんどの場合開いた本に目を落としていて、そのとき中目黒の手前対策というのがあって、中目黒手前に差し掛かったときもし進行方向に向かって身体を左にしていた場合、射し込んでくる光線をまともに受けてしまい本が光って見えなくなってしまうので、身体は進行方向に向かって右を向き、太陽に背を向けたかたちでいるようにしている。…でも、毎朝のことながら地上に出た瞬間は目の前の景色にやはり目を見張ってしまい結局読書は中断される。右を向いてる自分の背中に光がまともに当たって跳ね返り、自分が影になるので開いた本の活字をひきつづきかろうじて目で追えるものの、紙面の矩形領域以外のすべてが目まぐるしく光って明滅して恐ろしいまでの勢いでぐるぐるしているのが目の端に感じられる。本の外側からじわじわと侵食してくる何かに対して目を見やるように、周囲を見回してしまう。そうするといつもの事なのだが車内の驚くべき光の狂騒に驚く。


車両の一番端にいて、床の一角に光っている水溜りみたいな光の溜まりの驚くべき明るさを見て、そこから目を上げて進行方向の一番先頭の車両の方にまで視線を向けてみると、ずっと向こうの窓からこちらにまで細く鋭く斜めに差し込んでいる真っ白な光の線が、ありえないようなものすごいスピードで車内を駆け抜けていってこちらまで迫ってきて、ほんの手前まで来てその後一瞬で消える。それが一秒おきにこちらに向かって駆け抜けては消え、駆け抜けては消えを繰り返しておそらく車内の光度は訳のわからないことになってしまっている。窓も屋根も中吊り広告も、座席の人々も立っている人々ももちろんそれを見ている僕にも一様に光のまだら模様の浪が平然とかぶさっていき、頭からなめられて、あっという間にまた、次のまだらの浪に再び頭からなめられて、それの繰り返しを、光の通り過ぎていった感触の錯覚を何も感じないはずの心身にいっぱい感じたままで、ただ黙ってそのありえない筈のくすぐったさにも似た感触をじっとガマンしているようで、そんな車内のすべてに対して、なおも光は馴れ馴れしくすべて無遠慮にさわりながら高飛車に嘲笑うかのようにまた車外へすり抜けていく。朝の中目黒。地上に出たら終点まではもうすぐ。

団地東通り


近くのスーパーで買い物して、家に帰るまでの5分か10分歩く道で、左手に見える古くて薄汚い感じの、いつ見ても営業しているのかしてないのかわからないようなカラオケボックス店の入り口のドアの脇に、風雨に晒されたまま何年も経過してほとんど脱色して部分的な輪郭線と青空らしき色面しか残ってない昔の歌手のポスターが貼ってあって、その下には半分枯れたような鉢植えの観葉植物がいくつか並んでいて、さらにその脇には古びたポリタンクやら段ボールやら布やら古新聞やらが目一杯うず高く積み上げられて、その過重で斜めにひしゃげかけたような板囲いがあって、その前にでかい犬が鎖に繋がれてのうのうと寝そべったまま身じろぎもせずどろりと濁ったまなざしでこちらを見つめている。車道を挟んだ向かいの建物は宅急便の営業所で、こちらからは建物の白い壁だけしか見えない。たまに宅急便で荷物を出すときに家から歩いて壁の向こう側の集荷口に行くと、ただのだだっ広い、たくさんの荷物が集荷された大きな倉庫のがらんどうな空間で、トラックに荷物を積み込む作業スペースの端の方に小さなテーブルと椅子のある受付場所があって従業員が一人か二人いて、そこで伝票を書いて荷物を渡す。今歩いている歩道からは、壁にさえぎられていて何も見えないが、突然すごい怒号の声が聞こえてきて、何かと思ったら営業所の受付場所のあたりを向いて中年の男性が壁の向こうのちょうど事務員がいるであろうあたりに向かってものすごい剣幕で怒りを露にしていて、怒りにひきつったような紅潮した表情のその横顔が見えて、子供を前と後ろに乗せたお母さんの漕ぐ自転車がゆらゆらとしながら声の方を伺うように見ながら遠ざかっていく。走ってきた車が速度をゆるめて停車したのは、僕の後方にある信号が黄色になりやがて赤に変わったからで、冬の寒さの中回転し続けるエンジンの乾いた唸り声のような音が、向こうから来た車と向こうへ行こうとする車とで重なり合って、横断歩道の停止線でお互いに停車していてその真ん中を、両方の車に見守られながら横断歩道を渡る買い物帰りのお婆さんや子供や主婦が、渡りきった後もさらに歩道を歩いてもう一つある信号まで行って再び立ち止まって車道の様子をうかがっている。僕は前から来た自転車を除けるために少し端に寄る。自転車に乗って通り過ぎていく男性の着ているダウンジャケットのもこもこした感触と光沢感が目に入る。自分の踏みしめている歩道脇の地面の罅割れたコンクリートと剥き出しの湿った黒い地面の境目に細かい苔と少しの雑草が生えていて、でこぼこした起伏をともないながら部分的に交じり合っているのが見える。ゴミが落ちている。歩いている先の突き当たりの道からバスがやってきて左折してこちらに向かってやってくる。歩道を歩く僕を、バスの車内の人が見下ろしている。車内は空いている。乗客は四名ほどだ。次止まります。

白日


昨日も今日も素晴らしい快晴。激しい光の直撃。通りを歩いていても視界に入るほとんどの事物が白く光ってしまっていてほとんど何も見えない。自分が移動するたびに飽く事無く盛大に明滅し続けるストロボ。なにもかも自ら発光して己がかたちを失っているような状態。世界の物質感まったくゼロ。とにかく溢れんばかりの、あたり一面がとてつもない光量。どれだけすさまじい明度であることか、想像さえ難しい。これほど大量の光に包まれていることについてちゃんと考えていきたい。計測して一立方メートルの体積内に大体一時間あたり数千万から数億にもおよぶ尋常ではない量の光が降り注いでいることになると思いたくなる。光も物質である以上枯渇の心配はないのか。一気にドカ光が降っておもてに出られない。積光量は東京で50センチくらい。首都圏の交通機関は通常通りの運航だ。それほどの状態だということをもっと強く意識すべきだ。これほど大量の光の中にいると、もう自分が何かを操作するなど不可能だ。インターフェイスを介してメディアに接続する事も不可能。自動車の運転は可能だ。自動車は結局室内にいるのだから。あれは映画を見ているようなものだ。しかし今日の天気だと屋外で直接光を浴びながらでは、人間が何かを操作するのは無理だろう。これほどの光だともう、自分からその光を遮蔽させない事には何もできない。ただ光を浴び続けるしかない。光を反射する物体としての自分を認めるしかない。


読書は今日の天気と関係ない。今日が晴れだろうが雨だろうが、本を読み始めたらそんなのはまったく関係なくなってしまう。まあ、映画もそうだ。美術や演劇も室内で鑑賞すればほぼ今日の天気など関係ない。しかし美術や演劇の場合、自分のいる空間・環境と作品のある空間・環境が地続きである事は、映画や書物との大きな違いだ。音楽は、また特殊なところがあるのだが…音楽はすごくテクノロジーとの親和性が高いので、たとえば今日のような素晴らしい快晴で、とんでもない光が降り注ぐのでそののせいで音楽が体験できないという事はまずない。これはやはり凄いこと。


最近もし仮に週末にもっと曇り空とか雨だったなら、もっと本ばかり読んだことだろう。天気が良いと読書は難しい。快晴が読書にとって一番の敵だ。

寒さ


猛暑。炎天下。すさまじい暑さ。セミの声。もえたつ緑。陽炎で視界が揺らめいている。直射日光を受けた皮膚が焼付きそうだ、と書いても意味が逆なだけで気分としてはあながち間違っていないと思われるほど、今日は極端に寒かった。身体に直接圧し掛かってくるような寒さ。痛みとしての寒さ、重みとしての寒さ、人の気持ちを「あぁこれはかなりやばい」と滅法悲観的にさせる威力をもった寒さ。極寒、はげしい寒さ。刃物のように身を切る風。みるみるうちに失われ地面を伝って逃げていく体内の熱をなるべく逃すまいとしてひたすら力んでいる筋肉の緊張と不自然なほど意識にのぼる粗く忙しない呼吸と胸の鼓動。あまりの寒さに、小動物のような呻き声を歩いていて思わずあげそうになる。冷気が、透明で肌理の細かいガス状の気体になって首筋や足元か衣服の真裏にするどく入り込み高速で沁みこんでくる。時間を経てそれが全身を覆ったときにきっと意識を失うのだと思った。それはもしかすると裏を返したかたちで全身から冗談のようにたまの汗を後から後からわきだたせて着衣すべて水をかぶったように濡れてもはやどうしようもない炎天の極限でついに意識が薄れかけた自分がその後で運び込まれた部屋に久々に戻る事かもしれなかった。それにしても今年の夏の暑さはほんとうに異常だった。ほんの五分かそこら外を歩いただけで水をかぶったかのように汗だくになってどうしようもなかった。これほど暑いとこの世に冬という季節や寒さという感覚が存在しているということが信じられなくなってしまう。今こうして実際ここに汗だくで呆然と立っていて真夏の炎天下の空気の揺らめきの中にいて、これがあと半年もすれば空気が肌にひんやりとして晴れだろうが曇りだろうが気温は上がらず熱が事物に一定時間留まることをやめてしまい、外出時には衣服も身体をしっかりと包み込むような毛織物や防寒系のごわごわした厚手のものを重ね着して寒さを遮断して身体を守る必要があるというような、一連の冬支度に関する想像の出来事ひとつひとつがにわかには信じがたく、寒さに直接身体を晒すことの苦痛という感覚がまるで冗談のように感じられて、いや理屈ではわかっても実感としてまったく想像できなくて自然に納得できなくなってしまう。冷房の効いた部屋のエアコンの前でいつまでも涼んでいるときの何倍も寒い。寒くて寒くて死にそうだ、というくらいの寒さ。指先や足のつま先が痛みを通り越して感覚を失くしてしまう。血液の循環すら止まってしまう。そんな、いてもたってもいられないような、全身の血液をゆっくりと抜き取られて、力という力すべてを奪い取っていかれるような、このままだと生命の危険さえ感じてしまうような寒さというのがあるのだったっけか。全身をいやらしく覆うべたべたとした汗と湿気の暑さで死ぬことはないが、それよりもよほど清潔で冷却されて澄んだ空気の中にいた方が快適さから遠いというのが今はどうにも納得できない。単純にはやく真冬になればいいと思ってしまう。もちろんいざ冬になればまた別の事を考えるだろうが。

二十歳


一九九一年の六月が来たら僕はついに二十歳になる。二十歳だからといっても、別に今までと何も変わらないとは思うが。バイト先ではなぜか、十九歳は僕だけしかいなくて、十八歳が五人くらいいて、あとは二十歳と二十一歳が多い。厨房のあの眼鏡の人は二十二歳らしい。そしてチーフは二十三歳だ。チーフはかなり大人の雰囲気だ。やはり二十三にもなると、あんな雰囲気にもなるのかもしれない。マネージャーはたしか二十八歳らしい。でもそんなに老けては見えない。むしろチーフの方が大人っぽいくらいに見える。チーフは女にもきっとモテルんだろう。もてそうな感じだ。髪はほとんどわからないくらい軽くパーマしてるんだそうだ。金曜の夜とか休みの前の夜は紺色のスーツを着て来て、あの格好でそのまま西口の方へ遊びに行くらしい。夜遊びするには、ちょっとマジメ過ぎる感じのスーツのような気もするが、靴もあれじゃない方が良い気もするが。いや悪くはないし、まあ、それはそれでチーフに似合ってなくもない。あれはあれで、きっと女には、チーフは普通にもてるだろう。そういえば菊さんも前まではチーフと一緒に遊びに行ってたけど、今はどうしてるのやら。菊さんは、噂では三十歳を過ぎてるらしい。オグリキャップに全財産賭けて、大儲けして翌日バックれてしまった。さすがにみんな笑っていた。マネージャーすら笑ってた。あれはもう誰にも止められない感じだったからな。それにしてもいったいいくら儲かったんだろうか。もう自分の想像のはるか遠くの事のようにしか思えない。まあ僕は冴えない感じだがここにいるのは楽しい。二十歳になっても何も変わらないだろう。明日も明後日も一緒のことだ。でも二十一歳はさすがにちょっと違うのかもしれない。串畑さんとか大橋さんとか、やっぱりちょっと違う感じがするからな。それで二十三才になったらチーフみたいな人もいるんだから、まったく世の中はぼくの理解のはるか先にあるようだ。でも僕は昔からとくに、自分とか未来とかに期待も絶望もないのだ。ただ今こうしている事であまり問題ないのだ。先の事はまるで深海のように何も見えないが、それはそれでいいのだ。

目を瞑る


電車で座席に坐ると、睡魔が襲ってきてたちまち意識がなくなる。気付くと寝てしまう。後になって、あれ?今寝てた?と思うくらい唐突に寝る。開いた本の同じページの行頭の数文字をさっきからずーっと見つめている。見つめているつもりで、目を閉じて寝ていることに気付く。自分が本を開いてそのページを見つめながら、それを見ているつもりが、ふいに目を閉じてそのまま意識をうしない、音もなく眠りに落ちていく一部始終を、僕の向かいの座席に坐っている人が見ている。僕の向かいに坐っている人の視線を感じて、僕が起きる、というか、起きてからそれまでの自分の姿を反芻せざるをえないような視線がさっきからずっと降り注いでいたことに気付く。向かいの人が見ているその視線の先は僕で、その行き来を目覚めた僕が見た。いや目覚めたときには、その人の視線は僕にはなく、いや目覚めたときに僕は開いた本の同じページの行頭の数文字と再会して、その後ふと目を上げると、そこに向かいに坐っている人の視線があった。向かいの人の視線の先には僕がいた。その視線の先の僕は、意識を無くしてして、いつの間にか目を閉じていた。僕は、開いた本の同じページの行頭の数文字をさっきからずーっと見つめていた筈が、ふと気付くと僕は、空白の場所からあらためて目を開けた。前方を見た。向かいに人がいた。その目は閉じている。気付いたらいつの間にか寝ていた。いや、おそらくさっきからずっと。

リードオンリー


混雑した車内で前後左右に人がぎっしりの中で片腕を持ち上げて、親指と人差し指、中指、薬指で、まるでボーリングの球に指を入れているみたいな格好で読んでる途中の開いた本の下のところを支えている。自分の顔の目前に、まるで指揮台の上の楽譜にように本を目の位置になるべく近づけた状態で読む。本で顔を隠しているみたいな格好だ。肘や本の背表紙が周囲の人にぶつからないように、という事でもあるし、なるべく本以外のものを視界から消したいという事でもあるのかもしれない。見開きのページを読み終わって次のページをめくりたいときは、本を少しだけ前側へ倒すように傾けて、人差し指と中指と薬指の三本に力を入れて下部を支えた状態のまま親指だけを動かしてかろうじてページをめくる。めくることができたらそのページを顎で抑えて、自分の顔をそのページの方に向けて、あらためてまた一行目から続ける。紙の表面のざらついた肌理まで見えるくらい、顔と紙面が異様に近いので、読み進むにしたがい顔の向きを変えて、紙の上に視線を移動させていく。活字の最後の行まで辿り着いたら、またゆっくりと本を傾けて親指だけで慎重にページをめくる。そんなことをしているうちに、下車駅に到着する。一旦本を閉じたいのだが、しおりを挟むためのもう片方の手には鞄を持っているので、仕方がないのでページ数の三桁の数字を記憶して、そのまま本を閉じて鞄にしまう。電車が停車してドアが開いて、人の波と一緒に僕も下車して、そのままエスカレータに乗って、エスカレータに乗っている十秒くらいの間に再度本を開きしおりを挟んで次の準備にかかる。北千住みたいに通い慣れている駅だと、ずーっと本を読みながら通路やエスカレーターをひたすら歩いて目的の路線のホームまで辿り着いて来た電車に乗り換えてと、一度も読むのを途切れさせず移動することも可能だが、さすがに北千住以外の駅ではそこまではまだ無理。


よく思うけど、本を開いた状態のまま固定できるブックスタンドとか荷物や上着を引っ掛けられるS字フックとかドリンクホルダとか、そういうのが天井からぶら下がっていたら便利だろうなあ。満員電車で。一瞬だけ両手が自由になったら良いのにと思う事は多い。

報告


関連資料のフォルダ構成を変更しましたが、事前に調べているうちに気づいたのですが「99.その他」下にある「インフラ」というカテゴリが存在します。これはどういう経緯で作成されたのでしょうか?ざっと見た限り、この「インフラ」下はすごくよくまとまっている感じです。おそらく皆さんによって、私がここに来る以前に、2009年度の取り組みとしてこれらの一覧を作成されていたのかと推測いたしますが、その際に構成されたものということで間違いないでしょうか?その経緯と、現時点ではどういう位置づけのフォルダ群なのか?が気になります。というか、経緯はともあれ、現時点できればこの「インフラ」構成を有効に活用する方向で検討させていただければ・・・とぞんじます。そう考えておりますが、如何でございましょうか。ネゴなしに、私の判断でいきなり変更するのもさすがに難しいので、一旦そのままにしてあります。でも近い将来、上記構成で運用した方が良いのでは?と思いますが、いかがでしょうか?というかそもそもこのメールは明日中にご覧になられるのでしょうか?もしかしたら明日いっぱい誰にも届かない可能性もありますよね?少なくとも明日定時までに何らかのリファをいただける可能性があるのか、というとどうやらなさそうですよね。であれば明日には私は気が変わって逆上気味に独断で動いてしまうかもしれません。となると本連絡は単なる雑談という位置づけで、正式な報告連絡は明日の午前中に提示されるという格好でご認識いただければ良いかと存じます。勝手なことを申し上げて大変恐縮です。とりあえずその方向で行きますが問題ないですよね?お休みのところすいません。休日楽しんでください!!


「あなたのご提案を却下します。あなたのご意見は間違っています。あなたの思ってるような事では立ち行きません。」

Don't Let Me Down


昨日から今日にかけては実に酷い目にあいました。iPhoneを失くしてしまって、タクシー会社とか駅とか色々問い合わせたけどダメで、警察に遺失物申請してきましたけどもしかするともう見つからないかもなあという気がします。


昨日は結構飲んでて、電車で西日暮里まで着いたら、その時点で終電がなくなってたので、家まではタクシーで帰ることになったんですけど、まあ西日暮里からであればさほど遠くもないので、それはまあいいんですけど、そこで僕の悪い癖が出まして、どうせクルマで帰るんだったら、慌てなくてもいいじゃん。もう一軒飲めるじゃん。三十分か一時間くらい、もうちょっと飲んでからゆっくり帰ってもいいじゃん。などと思って、さっきまでさんざん飲んで来たのに、まだ飲むの?しかもひとり酒??って感じですが、でももはや俄然飲む気まんまんで、胸をわくわくさせながら良さそうな店を探し始めました。


我ながら、ほんとにどうかしてます。ハシゴ酒っていうのは酒が好きな人間がやることではなくて、いつも何かに不満足な、けちで未練がましい、あきらめの悪い人間がやることなんですね。ほんとうに意地汚くてみっともないものです。もう既に大して飲みたくもないのに、なんかその場限りの儚い自由さみたいな、ふわふわ浮き上がったような気分を自ら手放すことに気が進まなくて、その夜のひとときが惜しくて、酩酊してふらふらとほっつき歩いたまま、ついずるずると寄り道してしまうのです。醜悪きわまりないです。店の前に色々と酒の銘柄と肴の品目が貼り紙してあって、生牡蠣だのカツオだの書いてあると、ああいいなあ、生牡蠣と冷酒でちょっとだけ。とか思ってそしたら店員がドアを開けてくれて、一名様ですかいらっしゃいませどうぞと声をかけられて、食い物を目の前にちらつかされた猫みたいな態度で、ほいほいと店に入りました。


で、店を出たのがいったい何時だったのか、その後タクシーに乗って家に帰ったのが何時だったのか、まるで全然おぼえてないです。たぶんすごい酔ってました。それで、家についてからiPhoneがないのに気がつきました。


翌日になって、あらためて現場まで戻って、駅や昨日の店やらに言って忘れ物がなかったか聞いてみたものの、どこにもなくて、仕方がないので遺失物の届出をしに交番に行きました。温厚そうな警官が出てきて、こちらにお座り下さいと言われて立てかけてあったパイプ椅子をぱかっと開いてくれて、それに坐ったら気分はすっかり軽犯罪者という感じです。罪状は酒好き、食い意地が張ってる、自分勝手、吝嗇、意地汚い、みみっちい、諦めが悪い、など多数。本人も罪を認めており反省の色も見えますが、しかしだからと言って簡単に許されるべきことではない。断固とした姿勢で裁きを受け贖罪させるべきと存じます。この書類の太枠の中だけで結構ですから記入お願いしますと言われて、はいと素直に答えて必要事項を記入いたしました。失くした思われる時間、失くしたことに気付いた時間、失くした可能性のある場所、移動範囲、氏名と住所と連絡先と…書き進めていきまして、携帯電話番号を記す箇所もあったのでこれも書くんですか?と聞いたら、えぇ書いてください。もし遺失物が見つかってご自宅に連絡さしていただいてお出にならなかったらそちらにもご連絡差し上げますから、と言われ、あ、そうか携帯落とされたんすよね、じゃあ携帯にかけてもしょうがないですよね。いやでも一応書いといて下さい。でもまあ確かにそれじゃかけられないですね。うわっはっはっはっはっは!!!うわっはっはっはっはっは!!!と耳をつんざくような、一瞬意識が遠くに飛ばされてしまうほどのものすごいでかい声で、その警官は僕を正面からまともに見据えたまま、巨大な口をあけて爆笑しました。いつまでも笑い続けていました。開かれたその口の中を見ながら、仕方なく僕も笑いました。必死に笑いました。こんなに一生懸命笑ったのははじめてかもしれません。


結局何の手がかりも得られぬまま、手ぶらのままで家まで帰りました。なぜかふいにビートルズのDon't Let Me Downの旋律が思い浮かんで、小さい声で歌いながら、家までの道を歩いていたら、じぶんがバカすぎて情けなくて、でもなんだか愚かで低脳で薄汚れてるけど少し可愛い小動物になったような気持ちになってきて、その場でへへへへへと笑いがこぼれてしまい、続いて泣けてきました。でかくて白い犬を散歩しているおばさんとすれ違って、その犬がずっと鼻先を下に向けて地面の匂いを嗅いでいたのに、ふいにぼんやりとした不思議そうな表情でこっちを見上げたので、はっとして慌てて普通の顔をつくりました。


しかし今日は恐ろしく寒い日でした。まさに凍るような寒さ。暖かくして、どちら様もご自愛くださいませ。それではまた。

iPhoneは便利


iPhoneは今日もいない。iPhoneが自分の足で歩いて家まで帰ってくることはまずないだろうから、僕のほうで仕事の後、何箇所か心当たりをたずねてみただけだが「いえこのあたりでは見かけませんでした」と言われて何の成果もなく、こうなるとさすがにもはや絶望的な状況と考えないわけにはいかない。とりあえず今週末までは待つが、そこでいったん捜査打ち切りだろう。しかし、失くしてみるとわかるけど、やっぱiPhoneって便利で、ないと不便で、他人に「こないだiPhone失くしちゃったんだよ!!」と言うと、へーそうなのぁバカだなあとか言われるだけで、え?それだけ?と思うほど誰も大して関心もってくれないし同情もしてくれない。要するにiPhoneなんて全然大したものじゃない。でも不便だ。そしてまた買うとなるとお金がとてももったいない。


今日は出勤のときiPhoneもないし、おまけに本も忘れたので、90分以上の通勤時間をぼんやりと過ごすしかなかった。前日かなり寝たので大して眠くもないので、会社に着くまでひたすらぼんやりしていた。満員電車で、乗り換えのときは寒くて、まったくいつもどおりの酷い朝ふだが、でもぼんやりは意外と退屈しないものだ。そして今日も輝くようなすごい朝日の光。

チームメンバー


雑沢弓一と、瀬中孝一郎と、あともう一人誰だっけ?ああそうだ、共修三太。この三人で分担して受け持つことになっている案件がこれだ。結構でかいよな。で、来月から吉春久井子と祖柄由愛香の紅二点が、こっちのチームに来て、この三人とどんな風に絡んでいけるのか。それが問題だな。澱賀事務局長からの強力な推薦があって派遣された二人だし、そう手荒には扱えないし、その筋の経験と実績はすごいわけだからもちろん上手くはまればすごいパフォーマンスを発揮してくれるはずなのだが、しかしダンサーが多すぎで振付家が不在というか、いかんせんマネジメントに人材不足な感は否めない。こうなってくるとやはり前期で任期満了となってしまった留芽弓家と割下智貼の不在というのが、ここに来て大きなダメージとして効いてくるなあ。今、詠見柄匡子がやたらとたくさんの荷物や書類と一緒に陣取ってるあの席に、しばらく前まで居た二人。あの二人がいたときは良かった。あの二人がいてくれるだけで、チーム全体の雰囲気がずいぶん違ったのに、それがいまや…最悪の場合このままだと崩壊の危機もありうる。それはまずいな。あぁでも今はまあ仕方がないよな。留祖出嵌瑠矢とか、鯉有事朗とか、あともちろん卯見経美池もだけど、あのあたりの若いのが、もうちょっと成長してくれるまではじっと我慢して、辛抱の年月を過ごすしかないのかもな。

眼球


眼球を、人工的に作り出すのは、今の人間の技術ではまだ、到底できない事なのだろうか?レンズから集められた光の情報を電気信号に変換して脳に送るだけのことなんじゃないのか?…とか、恐るべき素人考えも甚だしい?まあ、そう簡単ではないのだろうし、簡単ならとっくに実在していることだろう。人工の内臓機関だってかなり色々難しいのだろうから眼球となったら後何十年とか、あるいは百年以上かかるのだろうか?


何しろよく考えたら、眼球というのは本当にものすごい機関だ。とてつもなく高性能な精密機器である。見るという事を休みなく続けながら、ひたすら延々と運動しまくっているのだ。静止している事が稀なほど動いている。上下左右を、がっしりとした筋肉が協力に引っ張っていて、それらが縦横無尽に伸び縮みして軽快になめらかに稼動する。眼球が見て、それを受取った脳が感じて、それが筋肉と神経に伝わって連動して、動いた眼球がまた見て、という一連の動作が、休む事無くなめらかに展開される。どの部位もまったく問題なく動く。相当複雑な仕組みが超高速で駆動しているにも関わらず故障もせずに動く。デバイス的な齟齬や中間介在物の違和感もない。いや、違和感も齟齬も本当はあるけど既に気づけないだけかもしれないが。いずれにせよ、ものすごい運動性能の機関なのだ眼球というのは。


眼球の動きだけに着目していると、眼球自体がまるで一匹の昆虫の動きをなぞっているかのようだ。その目まぐるしい動き方はかえって無目的・意志の無さを思わせる。ある本能的な先天的な力に支えられて駆動している感じだ。それ自体で勝手にいつまでも動き続けている感じだ。人が死んでも、その眼球だけはしばらくの間、ぎょろぎょろとあちらこちらを眺め回しているような感じだ。


たぶん見るという事と動くという事の、異なる二つ以上の運動が同時に行われていて、その動きがあまりにも目まぐるしくて相互の関連性と目的が希薄に感じられてしまうから、そのような印象になるのだ。虫の動きもそうで、やたらと細かいその動作が、何かの目的をもって行われている筈なのに、目的より動きの方が先行しているような印象になって、それが妙な不気味さをかもし出すのだ。


視覚障害者でも、視覚を脳に入力してくれるような機械を装着すれば大丈夫みたいな世の中に早くなれば良いと思う。完全な視覚の再現はかなり難しいだろうが、一秒ひとコマくらいの静止画イメージくらいを連続して直接脳に送り込むような事はできないのだろうか?もしそれができたら、視覚障害者がそれを装着したとして、一秒ごとに前景の静止画がコマ送りで送信されてきたら、それはさすがに、あまりにも忙しなくて煩いので、ちょっとチカチカし過ぎて嫌だから、十秒に一回くらいにして下さい、とか言って、その辺は微調整すると良いのではないか。十秒に一回じゃあ、見えてるとは言えない?でもその間隔を詰めたとしても、結局それはやはり、ただの映像であって、視覚ではないような気もする。視覚はやはり、あの目まぐるしい眼球の動きとセットで考えるべきものなのだろう。すさまじい密度のモンタージュというか、コンマ何秒のレベルで事後編集された一連のイメージという感じだろうか。ハエにカメラを取り付けて、その映像をみても、ただ世界が上に下に横に斜めにぐるぐるとしていて何も焦点を結ばないわけのわからない映像でしかないだろうが、結局は我々の視覚もそのようなもので、それを解釈しているからこうやって落ち着いていられるだけだ。「百年の孤独」のウルスラは盲目になるが、視覚的、映像的な情報とは違うことで、ウルスラはその後も、周囲の誰にも気付かれないほど問題なく生活を続けるのだ。だから、そんなに見なくても問題ないのかもしれない。むしろ視覚は、十秒か二十秒に一回くらいに絞った方が、かえって効率的で、人間の基本性能全般を充分に発揮して生きていける可能性さえあるかもしれない。

長谷川


長谷川お前は、神様を信じているのだろうか。


キリスト教を信じている?長谷川。クリスチャンの。長谷川はいったい何を信じているんだろうか。


長谷川は、キリスト教を信じているのか?キリスト教を信じるって、言葉がおかしくないか?キリスト教を信じてるのではなくて、神様を信じているのだろう?いや、イエス・キリストを信じているのか?イエスは、神様じゃなくて、神の子だよな。神の子イエスを、信じる。信じているのか?


長谷川は、イエスを信じているのか?イエス・キリスト。その人物の何を信じてるのか。イエスがきっといいヤツに違いないと思っているのか?そいつの言うことに、嘘はないと思ってるのか?もしそうなら、イエスじゃなくて、嘘と本当の、どちらかを信じてるだけなんじゃないのか?いや、そうじゃないのか?あるいはイエスを好きなのか?お前は、イエスのことが好きで、単にそいつのことを考えてばかりで、もうそいつに身も心もあずけているって事か?そいつに賭けてるって事か?


長谷川。お前は何かを信じてるんだな。長谷川。お前はきのう、聖書を読んでいたな。お前は聖書に書かれた事を信じているのか?そこに書かれた事を、真に受けて、それに身も心も溶け込もうとしているのか?聖書は面白いか?聖書には字がいっぱい書かれているよな。聖書の、細かい字と字のあいだから、お前には、何かが立ち上がってくるのが見えるのか?


信じるってどういうこと?俺には、信じるの意味が、わからないよ。信じるっていうのは、信じる努力をするって事だろ?だったら既にもう、信じて無いじゃん。努力してる時点でなんだそりゃって感じだろ。


お前はそれを言うといつもそうやって鼻で笑うだけだな。長谷川。お前は自分が信じていることに、何かよろこびを感じているのか?だったら長谷川。お前はそれじゃあ、信じてるの意味が違ってきやしないのか?お前が胸に手をあてて、それを不安に思わないのか?って事だよ。だってお前は、満足してんだろ?信じてるとか呟きながら、お前は既にそこそこ幸せそうじゃないか。そんなに自足して、それで良いのか?お前の愛しいイエスはそれを見てお怒りにならないのか?はっきりいえば、お前は信仰というものを、喜びを得る材料にしてるだけじゃないか。そうじゃないのか?


長谷川。お前はなおも表情を崩さず、静かに微笑しているだけだな。そう、お前はキリスト者だ。お前はつまり、キリスト者たる自分を信じているのか?お前は、お前自身を熱烈に信じているってことじゃないのか?違うか。自分など如何程のものか、取るに足らない。御心のままに、そう思って祈るだけか。そうなんだな。お前はいつも何も言わず、まるで鏡に写った俺自身の顔のごとく、ただこの俺を見つめてばかりだな。


お前がいて、キリスト教がいて、聖書がいて、神様がいて、イエスがいて。それらすべてが、何もかもが、ひとつにはならないけれども、それをおまえは丸ごと信じようとしているのかもしれないな。それらすべてを、同じようにひとつに考えることのできる日がやってくるのを、信じているのかもしれないな。それが出来たらどんなに良いことか、長谷川、お前はそう思っているのか?どうなんだろうな。俺にはあまり、よくわからないよ。それを思ってるのが本当のところ誰なのかも、よくわからないのだ。

店仕舞


眠りから覚めると、すでに暖房は切られていて部屋が冷えきっている。僕以外にはもう誰もいない。皆、どこへ行ってしまったのか。さっきまでの賑やかさが嘘のように、しんとして物音ひとつせず、照明は全部消えていて薄暗く、窓の外がかえってうす青く光って部屋の中をぼんやりと照らすようで、それが街灯の光なのかもう朝方の青く染まりだした空の色なのかが見ているだけではわからない。人だけが居なくて、テーブルの上は皆が居て騒いでいたときのまま、グラスや皿や食器類と、食べ残しと飲み残しが錯乱している。テーブルの上にだけ、さっきまでの賑やかさが、そのままの形で残されている。賑わいの中にいたはずが、何もかもが急に、空気全体が動かなくなって、一瞬で凍結されたみたいに、もう何時間もそのままにされたまま。テーブルの上の大小の皿たちが、いま自分がなぜそこに置かれているのか、すでにわからなくなってしまって、さっきまでの暖かさや、水々しさや、ソースのとろみ、エキスの粘り、立ちのぼる香りや湯気や、油のなめらかさや、果汁の甘みや開栓直後に空気と交じり合って溶け合う成分の揮発などのすべてが、すべてそのまま、過去の出来事として固められていて、ほんの少しの食べ残しと、放り出されたように置かれたフォークと、丸められた紙ナプキンがあたりに散らばっていて、冷え切った空気がすべての水分を奪って、何もかも乾いてその場にこびりついたまま朽ちている。テーブルの上を見ながら、まるで廃墟の町を訪れたような気分になる。グラスに半分ほど残った赤い液体と、ボトルの底に2センチ程度残った赤い液体を見出す。グラスに口をつけて、残った液体を飲むと、記憶にあったさっきまでの味とは何かが決定的に違う、苦く現実的な味が口内に広がる。僕もとくべつではなく、ただの人としてある以上、ここから始めなければいけない、この味こそが現実で、ここからがスタートだと、なぜか唐突に思う。ボトルに残った分もグラスにつぎ足し、あらためてそれを飲む。からだが目覚め始める。

レイジング・ブルの妻


久々にツタヤに行った。映画は観ると二時間かかると思うと、億劫で最近なかなか観る気にならないのだが、久々にDVDの棚を眺めていたらちょっと楽しかった。西部劇のコーナーとか、有名な映画が並んでいるけどパッケージとかが新しくなったヤツも多くて、それらを見てるだけでも結構わくわくする。でも結局「レイジング・ブル」一本だけ借りて帰る。レイジング・ブルを観るのははじめて。映画はまあまあ。奥さん役の女性(キャシー・モリアーティ)が正直、全然キレイでも魅力的でもなんでもなく見えて、そこがすごく良かった。なんか不機嫌そうで、何を話しても糸口が見つからないような、根本的に異なる何かを見ているような、肝心の頭のネジが一本外れたままのような、そういう感じがするのだが、かと言ってバカみたいに騒いだりはしゃいだりして近寄りたくないような感じな訳でもなく、単に、妙に不機嫌そうな、むっつりと押し黙ったままの、でも基本何も考えてなさそうな、いつも身だしなみはすごくきちんとしてる感じの、ちゃんと社交的で相手を見て笑顔も作って、立派に奥さんの務めを果たしているのだが、しかし自分を省みたり相手を慮ったり、そういう人として基本にありそうな慈しみの色合いが、基本的に欠落しているような、でも色々と些事は一々ちゃんとわかっていて生活上の問題はまるでないかのような、なにがなんだか、なぜそうなのか、問う事自体が不可能な、ほとんど分厚い壁に囲まれた強靭な謎そのものみたいな、そういう他人のすまし顔のままで、ずーっと、ああやって当たり前の顔でソファとかに坐っている。まあでも結局、最後はブチ切れるし、最後は家と子供ごとまとめてデニーロから別れてしまう。でもその喧嘩も別れ方も皆素っ気無い。最初から何も出会ってないかのように。そもそも最初にデートに誘われたときも、行きたいんだか行きたくないんだか全然はっきりしないような態度で、ただなんとなくふらーっとデニーロに付いてきて、途中でパターゴルフをやるシーンがあるけど、あのシーンは何だよ(笑)と思うような感じで、一緒になってからも態度が変わるわけでもないし、なんとなくあまり感情がおもてに出ないような感じの表情をしていて、ぶん殴られたりもするし、結構大変なのだが、しかし何とも妙に自分で勝手にしてるような、不思議な感じである。


曇り空の朝。直射日光の降り注いでない朝なんて、いったい何ヶ月ぶりだろうか。しかしいつもよりも空気がぼんやりと生暖かいような気がする。雨が降るのか。


夜は雨。駅について改札を抜けたら、しっかりと雨が降っていて、駅前の道路が黒く濡れていて店のネオンなどがぎらぎらと映りこんで光っていて、その上を雨の波紋が広がっては消え、広がっては消え、完全な雨の景色だ。こんな景色を見たのは、いったい何ヶ月ぶりだろうか。雨なんてものすごく久しぶりだ。雨ってこういう感じだったか。実にしばらくぶり。ほぼ忘れていた。

公衆電話


電車が駅に停車して、たくさんの乗客に押し流されるように僕も下車した。そのままエスカレータで上の階まで上がり、改札を抜けて、あたりを見回して公衆電話を見つけて人の行列から抜け出して、構内の端の方のだだっ広く閑散とした場所の一角にある電話ボックスまで歩いた。重たい受話器を取って、耳にあてて、そのまま肩で受話器を挟んで片手で電話番号の書いたメモを開きもう片方の手でプッシュキーを叩いた。呼び出し音を聴きながら音量を1か2上げた。公衆電話の受話器はでかくてごつくて、本体と受話器をつなぐケーブル部分には、鉄製のガードが巻き付けられていて、これだと相当力を入れてもケーブルが切れたりはしないだろう。相手を呼び出してる間、首で受話器を挟んだまま頭部位置固定で身体の向きを変えて右や左を見回していた。朝のラッシュ時間だが、電車の到着時刻の合間は嘘みたいに閑散とした雰囲気で、底冷えのする寒さが足元のあたりをたゆたっている。そういえば、昨日も公衆電話で何回か電話をかけたのだが、そのときは失敗した。テレフォンカードを持ってないので小銭でかけたのだが、小銭といっても百円硬貨しかなくて、仕方なくそれを投入して番号をキーインしたら、かけ先を間違ってしまい「失礼しました」とか言って電話を切って、そしたら当然ながらそれで百円は終りである。「あ!」と思ったがもう遅い。いや、遅いも何もない。百円入れたらもう、その百円は戻ってこないのだ。それが公衆電話である。なので、こりゃテレフォンカードないと大変だと思ったのだが、テレフォンカードがどこに売ってるのかわからない。見回してみても自販機とかもない。で、仕方なく、構内のコンビニでおそるおそる「テレフォンカードって売ってますかね?」と聞いたら、あっさり売っていた。だから。良かった。でも、カードを入れる紙の包装紙がないとか言って、カードだけあればそんなのいらないのに店員が律儀な人で無茶苦茶探してくれて、棚の奥からやっと出してきた包装紙にカードを入れてくれた。そのせいで5分くらい待たされた。で、とりあえずそれさえあれば公衆電話はちょっと便利である。カードを入れて電話をかけるだけだ。おーテレフォンカードって便利じゃん、とあらためて思った。

大ガラス


先日紛失したiPhoneがいま、手元にある。親切な人が警察に届けてくれたのである。それで警察から電話会社を経由して、携帯電話拾得のご案内という連絡をもらったのが先週末のこと。受取りは平日のみとの事だったので、今日会社を午前半休して警察署まで行って受取ってきた。


受取ってびっくりだったのは、顔が映り込むほどツルツルに黒光りしていたはずのiPhone筐体裏面に、まるでクモの巣が張ったかのような、ド派手なひびが、細かいのから太いのまで白銀色に輝きながら縦横無尽に盛大に走っていたこと。ちょっと割れちゃいましたねーとか婦警さん簡単に言うけど、これちょっとどころじゃないよ。すさまじいまでのひび割れ方で、一瞬絶句してしまった。でも悪いのは自分。あたりまえ。しかしとりあえず電源入れてざっと触ってみて、どこも異常なく正常稼動しているので、それはそれで、また不思議な感じだ。カメラも大丈夫みたい。レンズ周りのガラス部分は氷をかち割ったみたいなひびにまみれて真っ白なのに。。しかし、ここまで外傷酷くて、中身が完全に無事とはね。


家に帰って、とりあえず損傷面全域にジェルメディムを水で薄めたものを筆で塗布してみた。ひびにメディウムが浸透して乾燥して、まあまあしっかりと定着してくれて、これで細かい欠片がぽろぽろ剥落するような事にはならなくて済みそうだ。しかしジェルメディム特有のツヤ消しなざらついた感じがあまり良くなくて、しかも微妙な筆の刷毛目も、見れば見るほど気になる。なので今度は細かめの水ペーパーで磨いてみた。これは大成功で、表面のジェルメディムは皆削り落とされてしまったのだが、ひびの凹部分だけは残るので結果的にひびの生々しい亀裂感とガラスの透明感をどちらも可能なかぎり生かすことができた。ひとまずはまあ、これで良いだろう。いやむしろ、この方がずっと良い。事故に会って良かったです。ひびが入って以前よりもずっと良くなりました。と、デュシャンがカバンヌに話すように自分に言い聞かせて独りで満足した。

歯医者


歯科医院に行かれる際は二階をお上がり下さいと書かれたすぐ脇の階段を上がると廊下の奥まった先の右手が入り口で、受付と書かれた場所で初診の手続きをして、歯や健康状態に関するけっこう細かい質問表みたいなのに記入して渡して、それで待合室のソファーに坐って呼ばれるまで待つ。ソファーは僕が坐ったのを入れて合計五つくらいあり、他には誰もいなく左端のソファー上にはコートがぐしゃっと置かれている。しばらく待っていると、階段を人が上がってくる音がして、受付にこんにちわと呼びかけながら男が入ってきて診察券を受付に出して、その後数分もせずに名前を呼ばれてはいと返事してすぐに診察室に入っていく。そういう人がその後も幾人か続けて来て、さっきからずっと坐って待っているのは相変わらず僕だけである。結構、待たされそうな雰囲気を感じる。でもそれでもまあいいのだと思って、本を読んでゆっくりと活字を追う。このまま三十分待っても一時間待ってもかまわないと思っている。べつに家にいても、結局こうしてこの本を読んでいるだろうから、別にいまここで待たされたとしても、すぐに終わって家に帰ったとしても、きっとやってる事は一緒なので、それで、しばらくしたらなんとなく全身が温まってきて、すこしうとうととして、おそらくたぶん、しばらく寝たかもしれない。何か、誰かを呼ぶ声がしてはっとして起きたと思う。そして、またさっきと同じ箇所を読む。その箇所。これはつまり、そう書いてある事が、それを言ってるやつの事を感じることができるか、ということなので、あらためてそれが大事なんだよなと思う。書かれている形式として、何人称なのか?という事など、さほど重要ではないんじゃないかと最近は思う。普通に三人称で書かれているのに、その書き手の位置を探らなければ何もわからないという事のほうが重要なのじゃないかと思っている。というか、彼は何々のようなことを思った。それは何々にとって丸々のようなことなのだった。彼はそれを何々の全体にかかわる何かとしてありありと心のなかに見出したのだった、みたいな文章があったとして、そこに何が書かれているかということではない何か、つまりそのような現れ方を強制させてしまう強力な圧力のようなもの、強風がひっきりなしに吹き続けている中での空気のそれ独自の密度というのか、これはそういう事なのではないか、そうであったと彼が書くとき、それはおそらく彼と同時に彼じゃないとてつもなく広大な同時多発的な現在進行の凄まじい時間が瞬時にあって、それらの中において彼の絶望的なまでの小ささ、信用に足りない儚さ、その無残さ、とでも言うより他無いもの。その凄絶さなのではないか、などと思った。これはたぶん、それこそを聞き取るのだ。それこそを聞き取れと言っている気がしてならない。坂中さん、お待たせしました、と衛生士の女性が僕を呼んだので、あ、はいはいと言って僕は診察室へ入った。歯科衛生士の先生は女性である。年齢はいくつくらいか。僕と同じくらいか、いや僕よりは若いだろう。大きなマスクをしていて、大きな目の人で、目が少し充血してた。歯科衛生学科の短大を2002年に卒業して、この勤務先には2007年から勤めている。勝手な想像でそう書いてみた。歯科衛生士の仕事は多岐にわたる。忙しい毎日だ。友達の男から言われたけど、歯医者って土木作業員みたいだ、だそうだ。その男は歯医者が嫌いだと言っていた。なんで土木?と聞いたら、だってさあ歯石除去とかって毎日毎日、あのすさまじい音のする機械で、硬い歯とか歯の裏とかの、要するに石灰質の塊でしょ?そういうのをひたすら削って削って削りまくるのが仕事でしょ。削孔・削岩に明け暮れる毎日でしょ。その間ひたすら、無抵抗に寝そべって大口を開けたままの患者の頬や目元に苦痛の皺が寄っていたり胸のやや下に置かれた手の五本の指に力任せに何かを握り締めているみたいな尋常ではない力みが加わっているのを横目で見ていたりする。大の男が子供みたいに痛がってる。いい歳して本当にみっともなく痛がるおじさんはけっこういっぱいいるのだけど、痛がっている人を見続けてきて、見慣れてるから、痛がっていても、ああ痛いのね、痛いのねと思うだけになってしまう。というかその痛がり方がかわいそうとか気の毒だという気持ちを全然誘発せず、あと何十秒我慢してくれるか、この一本だけ最後までやらせてくれないか、もうちょい頑張れないかしらとか、そういう事を想像するときのあてにならずろくに見てもいないような計りにしか感じられない。とにかくできるだけ我慢してくれるのは助かるのだ。やせ我慢してくれる人が好き。だからなるべく我慢して下さい。終わったら脇の紙コップでお口を濯いで下さって結構です。そのボタン押してお水出ますからね。けっこういっぱい出血されてるんでよく濯いで下さい。口を濯いで吐き出した。結構赤いのが吐き出されて、排水口に吸い込まれる。ボクサーみたいに、丸まったやわらかい塊のような血痕が、いくつかくるくるとしながら排水口に吸い込まれる。ふうとため息をついてティッシュペーパーで口元を拭いて、また元の姿勢に戻って寝そべって真上を向き冬の太陽のように眩しいスポットライトの光源のちょっと脇を見る。ふいにその太陽が翳った。じゃあ続けますねと言って逆光になった歯科衛生士の顔が僕を見下ろしている。


ガラスの向こう側の、真っ黒に酸化して朽ちかけた金属のような展示物を、熱心に眺めていた男性が、連れの女性に話しかける。「奈良時代、8世紀って、書いてあるけど8世紀なのに、こんなキレイな円形とか、どうやって作れんのかね?」8世紀といえば、西暦700年代。いまから約1300年前だ。1300年前に、このような正確な円形があるのか?と一瞬不思議に思って、その男性は思わずそれを連れの女性に対して、口にしてみたのである。しかし言ってすぐに、いや円形はあるだろう。きっと何千年も前から円形はあってもおかしくない筈だと思いなおした。「あ、でも別にあるか。昔でも円くらいあるか。」でも、それにしても1300年前って、何の根拠で1300年前なのか全然わからない。でもじっさい1300年前に、この円形をどうやって作ったのか。作る前に、最初に書くだろうけど。紐を支柱に結んで、ぐるっと一周させて線を引いて、その通りに切り取ればいいのか。もしくは、ろくろみたいなものを使ったのかもしれないが。ろくろは最初に書かなくても、いきなり一発で円が作れるからすごいといえばすごいと思った。まあ、いずれにせよやり方は、別にどうでも良いのだ。やり方云々よりも、今だろうが1300年前だろうが、同じやり方をすればとりあえず結果として円形ができて、ちゃんと同じ成果が得られるという事のほうが、嬉しいことなのかもしれないな。男性はガラスケースの前で展示物を観るでもなくぼんやりとした頭のままそう思った。要するにきっと、同じやり方がずっと通用しているという事だ。きっと多分もう、2000年くらい同じなのだ。いやその根拠もないか。同じだった証拠はない。もしかしたら1300年前は、今と違って手書きとか相当ラフなやり方でも、ほぼ正確な円形というのは人間にとって容易く作る事ができてしまうようなものだった可能性もなくはない。普通に線引いて丸とか真っ直ぐとかが当たり前にできれば、紐とか定規とかもいらないし、ろくろなんてまったく無駄だ。でも単に、ここ数百年でそういう当たり前の事が当たり前ではなくなってしまい、今までのやり方が劇的に通用しなくなってしまって、正確な円とか線とか、そういうのはもう基本的に、人間から離れてしまって、人間が普通に制御できるものではないと考えた方が良い類のものに変わってしまっただけなのかもしれない。だとしたら、それは人間が変わった訳ではなく、人間の制御能力とか技術力とか器用さとかが変わってしまったのでもなく、人間と人間以外とを繋ぐ媒介の部分が変質してしまった事に由来するのかもしれないとも思った。ところで連れの女性は「8世紀なのに、こんなキレイな円形とか、どうやって作れんのかね?」と男性に聞かれてもその質問の意味をとくに深く考えるでもなく「さあ…」と答えただけで、数秒後にはもう別の事を考えていたのだが。と言ってもさっき見た国宝の秋冬山水図が、なんであんなにカクカクとしてるのか、それだけをさっきからずっと考えていた訳でもないのだが。なんとなく嫌な感じに思っただけでそれ以上深く考えていたわけではなかった。国宝というのはそもそも何なのか、それがまずあるとして、この博物館に来たのは久しぶりだけど、でも一年に一回くらいは来てると思う。混んでるときは来ないけど、こうして何もしてないときにふらっと来て散歩するみたいに観てるのがいいのだ。でも今日はちょっと寒すぎる。コートを通り越して冷たい風が地肌に直接あたるような寒さだ。なにか身体的に警告のフラグが立ちそうなくらいの寒さだ。そういえばやっと少しおなかが空いたかもしれないけど今日は胃が荒れている気がしてあまり食べない方がいいのかもしれない。帰ってからまたいつもみたいに早めに食べ始めたらまた早く寝てしまうのかもしれない。雪舟は、この博物館では前も観てるし、今まで何度か観てる。行けばなぜかよく展示されているのだ。でも国宝というからには日本を代表するような日本を象徴するようなものを無意識に期待するものだと思うけれど、秋冬山水図のあのカクカクとした感じはどうにも肩透かしを食らった気持ちになる。ゴツゴツとした感触で、なんか日本っぽくないと感じる。古今和歌集のあのやわらかい文字の流れるような感じとか、墨の朦朧とした感じとか、ああいう淡い繊細な感じの方が日本という感じがする。うたを詠んでそれを貼り付けてあるヤツなんか、何が書いてあるか全然読めないのにすごく良いと思う。ああいうのなら好きなんだけど雪舟はなんかマンガみたいでかなり白ける。「なんか雪舟ってカクカクしてるね。なんかあんまり私好きじゃないかも。この松の感じとかも枝ぶりとかが。」いや、雪舟はやっぱりこれは日本の美術の歴史のもっとも要な部分だからね。これはやっぱ、国宝ですよ。それにしてもこの、真ん中を稲妻のように縦に切り裂いてるこれって妙だよなあ。まるでここだけ、描かれてる紙に直接亀裂が入ってるみたいだし。でもやっぱり絵の方が全然あたらしいものだな。雪舟なんて室町時代だしな。さっきの曼荼羅でもやっと鎌倉時代だから、やっぱり絵は全然最近の発明だな。っていうか「発明」って言う時点でかなり新しいし。円の作りかたですら時空を越えて歪んでいくのだとしたら、発明の成果なんて今だけしか効果ないかもしれないし。だとしたら今見て良いとか悪いとか言ってるのも結構空しいといえば空しい話かもしれないし。まあでも確かに今も昔も円が円である事自体は変わってないっていうのは確かだから、その事だけは観る意味はあるとは言えるな。観る意味がないという事の証明はできないよな。まあこんな話してたら「証明」だってもはやすっかり無意味なのは当たり前だけど。円を円と思える事を、証明でない何かで観て確認しているっていうことなんだろうけど。