描く理由を考えながら描いたものを観つつ、ここに書くことを考える。


遠藤周作は、小説を書く理由について、小説に書きたいと思うような特殊な経験を現実に体験したからではない。私は全く平凡な人間なのだ。と前置きして、しかし私は過去の様々な、面白くて感動的な小説をたくさん読んで、その読書体験に触発され、自分でもこのような面白い小説を書いてみたいと思ったから、小説を書きたいと思ってるのだ。とそんな事をどこかのエッセイに書いていたと思う。(超・曖昧な記憶) 


だから、私も、絵に描きたいと思うような、とてつもなくすごい視覚的体験の記憶など、別に無いのだけれど、今まで観た絵画作品の、その素晴らしさに驚き、感動して、それが原動力となって、私も造るモティベーションをもらったから、自分で作品を造るのだと。


というか、そのような素晴らしい絵画作品を知ってしまった後は、世界もそのように様相を変えてしまうのだから、そのような現実で生き、観て感じるしかなく、その状況下で描くのだと。ある芸術体験を経た自分は、そのフィルタ越しにしか生きられないのだと。。


そのような事をぼんやり考えている。僕は人体を描く。僕は絵を描き始めてから今まで、およそ人体以外のものを描いた事が無いと思われるが、しかし目の前の画面は実に白けた感じで目の前にあり、外に出て、街行く人を眺めると、現実の人間というのは、現実としか言いようのない現れで、目の前に居る。(モデルを立てて描いていない。僕は何も見ず、人体の全身像や坐像を描く。たまに、妻にポーズさせる事もあるが、妻はそれを嫌がるので、結局あまりやらない。やっても20分ほどか?鏡に写る自分見て描くとゆっくり心置きなく描けるが、それは見ないで描く事と全然違う事になってしまい、ここいらが難しい。)