パフォーマンスについて



ジミヘンドリクスは、1967年のモンタレーポップフェスティバルにおけるパフォーマンスで、母国アメリカに衝撃的な凱旋を果たす。既にイギリスや欧州各国ではじわじわと人気を獲得しつつあった頃で、ここで一発、アメリカでも大きな話題をつくり「逆輸入」のかたちで、衆目の視線を一気に集める必要があった時期である。


曲の最後に、寝かせたギターの前にひざまずき、ライターオイルをボディにかけて、マッチで火を付けギターを炎上させる、というパフォーマンスは、その光景を見た者全ての記憶に、得体の知れないエキセントリックな黒人(なのに白人を従えサイケデリックなロックを演奏する)ミュージシャン。のイメージとして、激しい衝撃とともに刻印させた。


はじめは驚愕・唖然とし、やがて恐る恐る熱狂していく観客たちに気を良くしたであろうジミは、このパフォーマンス成功後も、事あるごとに背中に回した状態でギターを弾き、そのままギターを口元に近づけて歯でソロパートすべて弾ききってしまったかと思うと、すべてを投げ出すように、スピーカーやマイクスタンドをギターもろとも破壊してしまう等、あからさまにギミックをまぶしたステージパフォーマンスを繰り返す。


この扇情的な振る舞いに拠って完全に染み込んだジミのエキセントリックなイメージは、後々、当のジミ本人を苦しめていくことになるが、それについては、ここではとりあえず置く。


ジミが、ギター炎上パフォーマンスを繰り広げる直前、かの有名なワイルドシングの演奏を開始する前に、「これから、みんなですごい体験をしよう。こんな事をして、おかしいだなんて思わないでくれ。俺にとってはこれが普通なんだ」と観客に話す。


もちろんギター炎上自体が、珍しくはあっても、最初の何回かは、すごく興奮させてくれるものであっても、とても得難い音楽的体験だなんて誰も思わない。はっきり言って、そんなのは禍々しく暴力的で空しいだけだ。歯でギターを弾いてる姿は尋常じゃない妖しさだけど、それ自体をすごいとか言ってもしょうがない。っていうか、音楽自体と関係が無い。ギミックやスキャンダラスな要素は、スパイスとして魅力的だけど、本質はもっと別のところにあって、そんな事はジミヘンドリクス自身が一番よくわかっていた事なのだった。

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何か、絵を描くでも音楽をやるでも文章を書いて発表するでも同じだが、何かをするときというのは、とりあえず、周囲に対してすごい違和感ありまくり浮きまくりのまま、人前に出る。あるいは自分が作ったものを晒すことになる。「お願いだから、こんな僕の事を決して変だなんて思わないでくれ。僕にとってはこれが普通なんだ」と、とりあえずは言うだろう。あるいは、「きっと君にもわかって貰えると思うよ」と、とりあえずは言うだろう。そして多分、本人は本当に、そう信じてるから、やるのだ。これからすごい体験をしよう。これをすごいって思えるのは僕だけじゃないはずだ!という確信の事だ。で、その事自体は、すごく素晴らしいことだ。


だから何かをするとき、「僕は、これから変わった事を言うぞ。」「こんな事を言ったり描いたりやったりする僕を変だと思ってくれ。面白く感じてくれ。」と言って、その事以外に何にも無いのであれば、それは、とても寂しいことである。「きっと君はわからないだろうけど、僕のような人間がいる。という事だけはわかったろう」とだけ言い残すのだ。その人は、多分、今自分が感じている事を、もしかしたらいつか、人も感じてくれる。と、本気で信じていないのだろう。


でも、ここが難しいところだけど、そのような、云わば暴力的な立ち現れ方が、すごい効果的な事もあるし、そのような行為は場合によっては必要なのかもしれない。それはとても面白い余興ではあるのだし、センスなんていうものも、そういう箇所に、如実に現れるのだし、(センスなんていうのは、要するにすごい画一的な範囲内でのみ許された腕力の冴え。のようなものだ)その才覚が冴えてれば、それのみで世の中渡っていけるのだし、とても大切なもんだ。


でも「たぶん貴方と私は分かり合えないけれど、私がいることだけは判ってほしい」という動機だけで、物事を進めてはいけない。少なくとも、僕はそんなのは無理である。そういうモチベーションを保つのは難しい。しかし、実を言うと、そうじゃないモチベーションを保ち続ける事こそ、真に難しいはずだ。


こんな私がいるんだ。すごい「変な僕」がここにいます。。でも、こんな僕が存在しているってことだけは、どうか忘れないで!と、日記に書いていながら美術をやるなんて、とても侘しい事だ。まあ、侘しい何かを抱えている人がたくさんいる。という事は、もちろんとてもはっきり想像できるし、僕だって、そういう人間のひとりかもしれないけれど、そういう所で連帯しようとしても仕方がない。そこには、ただの「連帯の喜び」しかない。そしたら、「僕ひとりがいま感じていて、いつか誰かが、同じように感じてくれるかもしれない、モノ自体の良さ」が置き去りにされるしかない。もちろん叱咤・激励してくれる近しい人々の声は嬉しい。だから、それをありがたく頂きながらも、やはり、私の作品を、いつか、想像を超えた、遠い彼方にいる誰かが見て、良いと思ってくれるかもしれないなー。なんて思いながら、せっせと作る。という事しかないのだろう。と思っている。