女装せる自画像


世界を売った男



デビッド・ボウイとか森村泰昌の罪は、ルックスが大変良くて、女装姿がかなりサマになってしまう事であろう。


本来「女装」というのは覚悟の産物なのであり、社会的にはひとつの死であり、ふためと見れぬ、醜き己が姿に毅然と対峙する決意である。すべてを捨てて、自らが醜悪さそれ自体であるほか無い状況まで自分を追い込み、かつ、その場所で、絶対の甘美さを得ようとする営為なのだ。追い込んだ先で「お!なかなかいけてるじゃんオレ」とか思ってたら、もはや話にならないのである。


僕は自画像を描かないが、画家が自画像を描きながら、自分が絵に描かれている。と感じており、自分が絵画の要素に変換されていく事を感じる。というのは、いわば「女装」に近いかもしれない。


それは、自分として存在していながら、自分でないものに感情移入していきたいという事でもあり、自分に何かを強制すると、自分の心と体は分裂してしまうだろうが、それは端的にいって喜びであり、その喜びを貪りたいという事かもしれない。


ところで、絵に描いた人体のイメージというのは「ある手順が寄せ集まって発生した意味の集合体」である。これが上手く、ほどけていくのを感じるとき、それは甘美だ。


髪、顔(表情)、しぐさ (肩の向き、背中、二の腕、手、腰、足の付け根、膝、膝の裏、すね、ふくらはぎ、足の甲、かかと、くるぶし) …とにかく、僕は、一方的な視線に晒された体というもののイメージが分裂していく有様を、この上なく美しいと感じる。


つまり…まあ簡単に言えば、僕も、たまに女装したい。という・・・いや違った!


僕の女装姿は、もう目も当てられない、取り返しの付かない、最悪の様相なので、なかなか人にはお見せできないが、でもだからといって、人に見られないように女装してたら、いきなり後戻り不可能な世界の住人になってしまう…ので、やっぱ前みたいに、誰かの結婚披露宴とかでやればいいだろうか??(でも頼まれてもいないのに、いきなり女装して列席したら迷惑なのだろうか??)あと社員旅行とか行ったときは、もう朝から晩までずーっと女子高生の格好してるとか!いいなあ。わくわくするなあ。。いや違った!!